一诺は今が崩れていく音を聞いた
昨夜分家の豚に言われた言葉が、一诺の頭の中をぐるぐると巡る。
もう駄目だった。もう限界だった。もう、これ以上は誤魔化せない。一刻も早くナージャを逃がすか、分家を潰すかしなくてはならない。
家を出たいと言っていたナージャを思えば逃がす方が良いのかもしれないが、前に言ったようにそれには準備が必要となる。
このままというのは、一番駄目だ。そんな選択肢を選んでしまえばナージャが世にもおぞましい目に遭ってしまう。
しかしだからといって、どうすれば良いかはわからなかった。
……俺が犠牲になって終わるなら、それが一番良い。
例えば自分が刺客だったと本家当主に告げ、豚が何をしようとしていたかを全てリークするという手段。
そうすれば本家当主は本気で怒り豚に処罰を与えるだろうが、そうすれば刺客でもあった一诺もまたノヴィコヴァ家には居られなくなるだろう。
ナージャとは確実に引き離される事になると思われる。
過保護なあの二人なら、そうなるのは間違い無かった。
……ああ、だが、それでも、俺は。
自分一人の犠牲で終わるなら、それが最善。
自分を犠牲にする以外の守り方を知らない。他に方法も思いつかない。敵が居るならそれを倒せば良いが、その敵が自分なのだ。
故に自分を犠牲にする以外、わからない。
なのに、それはしたくないと思ってしまった。
ナージャを守りたいが、それと同じくらい離れたくない。彼女とずっと一緒に居たい。その想いが一诺に足踏みをさせる。
そのまま足踏みをしていたら、一诺のせいで愛するナージャに酷い結末を迎えさせてしまうというのに。
……俺は、どうしたら良いのだろう。
折角ナージャと共に歩いているというのに、身が入らない。
大事なこの時間を大切にしたいのに。いっそ今の内に全てを説明して逃げるよう伝えれば良いのに。ただ微笑みを返すしか出来なくて、不甲斐無い己に嫌気が差す。
自分の欲望の為にナージャの安全を最優先出来ない日和った自分に、酷い嫌悪を覚えていた。
「……そういえば」
「はい?」
人気の無い道でくるりと振り返ったナージャは、今思い出したとばかりに問いかける。
「一诺って、他の人相手には時々荒い言葉になる時がありますよね」
何気ないその言葉。
問い掛けですらないようなその世間話染みた言葉に、一诺は音を立てて血の気が引いて行くのを感じた。
「…………気付いていましたか」
「んと、怖い人が来た時とかに、ちょっと。そういう時の一诺は私の耳を塞いでくれてますけど、それでも時々聞こえちゃいますし」
……意味は無かったか……。
刺客が襲って来た時に荒い言葉を使用する際、一诺はナージャを抱き寄せるなりしてその耳を塞いでいた。
しかしそれは意味が無かったらしいと知り、普通に落ち込む。
ナージャからすれば口が悪いというだけで苦手な対象に入るだろうに、それを聞かれていたというのは、何とも辛い。
隠せていると思っていた分、辛さが加算される。自分自身の考えが自縄自縛状態となり自分から精神的に追い詰められている状態である一诺からすれば、かなりの重量を持ったダメージだった。
「あと」
「あと?」
「本当に極稀ですけど、一诺が自分の事を俺って言ったり、敬語が外れてる時があるので」
「……あり、ましたか」
「点心の事を考えてる時とかに、よく呟いてます」
ナージャは世間話程度のつもりなのかクスクスと愛らしく微笑んでいるが、一诺からすればそんな微笑ましいものでは無い。
元々ネガティブ思考であるのに加えて現在進行形でマイナス方向の思考回路になってしまっている一诺にとって、それは自分基準で罪と判断するに値する。
そんな結論に至った一诺は、やってしまったと思いながら頭を抱えた。
「……申し訳、ありません……」
「あ、いえ、その、違うんです。責めるつもりとかそういうのじゃなくて、注意でもなくて、あの、えと」
ナージャは胸の前に持ってきた手の指先同士を合わせ、僅かに目を伏せながら言う。
「わた、私、一诺のその一面、あんまり詳しくないから、だから、私もその一面を見たいなって、ちょっと、ちょっとだけ、思って……」
「……見たい、ですか」
「はい」
……ナージャ様の気持ちは他の誰よりも理解出来ると自負していたが、ナージャ様の望むものがさっぱり理解出来ん……。
恋をしている一诺はその愛らしい笑顔に胸をときめかせるが、同時に存在している冷静な一诺はその願いが理解出来ず困惑するしか出来なかった。
「見せるようなものでも無いと思いますし、私としては正直、敬う理由も無い相手に対する態度という感じなので……そもそも、何故そのようなものを見たいと?」
「…………一诺は、いつも私の髪を結んでくれますよね」
隣り合うようにして近くのベンチに座れば、ナージャは一诺によって編まれたその三つ編みを肩から前へと流し、大事な宝物であるかのように優しく触れた。
「結んで、えっと、上手く繋げられないんですけど……一诺、前に私が髪を下ろした姿、一诺だけって言ってたじゃないですか」
「…………はい」
……事実だが、いざ言葉にされると恥ずかしいものだな……。
いい歳でありながら大人げない独占欲をぶつけているという自覚に繋がり、羞恥にまた心がダメージを負う。もっともマイナスの方へと思考がシフトしがちな状態である現在の一诺からすれば、大体がダメージを負うものでしかなかったが。
「その、だからってわけじゃないんです。だからってわけではないんですけど、でも、その……わ、私だって、色んな一诺を知りたくて、だから、えと………………」
途中口ごもりながら、ナージャは視線を下に向けて言う。
「…………私だけ知らないの、ちょっと、ヤです」
「……………………そ、う、ですか」
……応えなければ。
そう思うのに、動けない。
応えたくない。見せたくない。そんな自分をナージャに見せるのは嫌だった。ナージャが苦手とする要素が含まれる自分など。
……俺自身の素を見せて、それで少しでも嫌われたら、俺は……。
耐えられないとわかるからこそ、応えられない。
「……私の」
「はい」
「私の口調についてですが、あんなものはナージャ様にお見せするようなものではありません。ただ荒く、ガラが悪いだけのものです」
そう、それだけのもの。ナージャが苦手なもの。見せるようなものでは、無い。
「親しい振りをする事すら面倒な敵に対するものなので、大事な主であるナージャ様相手に使うような口調でもありません」
「たまに、でも駄目ですか?」
「ナージャ様」
一诺はベンチから立ち上がり、ナージャの前に膝をついて頭を下げた。
望むなら地を舐めよう。指の数本や手足の一本くらいなら斬り落とそう。あなたが望むのであれば、その程度は造作も無い。
そう思うのに、これだけは叶えられなかった。
「どうか、それだけはお許しください。あなたの髪を下ろした姿を私だけが独占したいという勝手なワガママに応えていただきながら断るなど自分でも言語道断だとは思いますが、それでも、駄目なんです」
……あなたに嫌われる原因を作りたくはないし、見せたくもない。
一诺の中にはそんな感情がひしめいていた。
誰にだって、知られたくないと思う部分はある。他人からすればしょうもないと思われるようなものだってある。けれど一诺本人からすれば、そうではない。
例え時々取り繕えていなかったのだとしても、ナージャに嫌われる可能性がある自分の本性など、僅かとて見せたくはなかった。
……俺は東洋人で、分家で蔑まれていて、分家からの刺客で、だから、だからこそ。
従者として取り繕っている自分ならともかく、取り繕っていない自分は否定箇所だらけの卑屈な存在。
一诺にとって、自分とはそういう存在だった。だから見せない。見せたくない。そんな自分をナージャに見せるのは酷く恥ずかしくて、みっともないと思うから。
「あれは嫌われても良いと思う相手に対するもの。確かにあちらが素であり私の本性でもありますが、ナージャ様には見せたくない、見て欲しくない私でもあるのです。どうかあなたのそばに立つにふさわしくあろうとするこちらの私だけを、見ていてください」
見せられるのは、取り繕ったこちらだけ。見れる程度に取り繕ったこちらでないと、見せられたものではない。
人格形成に重要とされる期間、それも十年間を分家で生活していた弊害か、一诺は強くそう思っていた。
「わかりました」
少しの無言の後、その声と共に小さくたおやかな手が下げられている一诺の頭を優しく撫でた。
それはまるで赦しのようで、呼吸すら浅くなっていた一诺は安堵を得る。
「もう言いませんから、立ってください」
そう告げるナージャは、申し訳なさそうに微笑んでいた。
「人が嫌だと思う何かには個人差があって、一诺にとってそれがとても嫌だって事、気付けなくてごめんなさい」
「……いえ」
……違うんだ。
違わない。
嫌であるというのは違わない。ただ、少しだけ違うのだ。ナージャに知られたくないから嫌というだけ。それだけ一诺にとってナージャが大事な存在だという事。
けれどそんな気持ちを伝えるわけにはいかない。
……そんな気持ちを押し付けて、何になる。
ナージャに申し訳ないという顔をさせた癖に。ナージャを害そうとする分家の刺客の癖に。分家にナージャを誘拐する為に動けと言われている癖に。
表情こそすぐに取り繕ったが、少しでも油断すれば内側でぐるぐると巡りながら煮込まれている様々な感情が噴出してしまいそうだった。
「…………嫌というのとは、少し違うんです」
告げられる部分は告げようと思い、一诺はそう口を開いた。
告げられない部分が多過ぎるから。少しでも、ほんの少しでも、隠し事は減らしておきたい。
どう足掻いたところで、例え上っ面だけであろうとナージャを害そうとする刺客である部分に変わりはしないのだけど。
「……イヤでは無くて、荒さがある私の素の口調で話してナージャ様に怯えられてしまったら、と」
「大声を出されたりするわけでなければ、私は大丈夫だと思いますけど……」
「いいえ」
……ナージャ様は口が悪い人間も苦手の対象だからこそ、素の俺を見せるわけにはいかない。
見せたくは、ない。
「私は、あなたに嫌われたくありません。あなたという唯一無二の、大事な存在。そんなあなたに、ナージャ様に少しでも嫌われてしまえば…………きっと私は、立ち直れないでしょう」
想像するだけで、頭がぐらぐらと揺れる。脳が、視界が揺れる。
キリキリカチャカチャ。
どこかから聞こえるその音と共に視界が歪んでいき、捻じれていく。酷く呼吸が浅く感じた。まるでぐにゃりと歪んだ別の世界に迷い込んでしまったかのような、そんな感覚。
「……酷く、女々しい事を言っているのは、わかっている。それでも私はあなたに救われ、あなたが大事で、大好きで、それで、少しでも嫌われると思うだけで、私は、俺は」
そんな状況下であろうとも、ナージャに伝えなければという気持ちから必死にどうにか言葉を紡ぐ。
あまりに頭がぐるぐるしていた為、一诺は口調に素が混ざっている自覚は無かった。平衡感覚すら危うい程の精神的負荷を感じている現在の一诺からすれば、言葉を紡ぐだけで必死なのだ。
故に、見せたくないと思った自分の素が少しばかり漏れ出ている事に、気付けなかった。
「わかりました」
それを指摘する事なく、ナージャは優しく一诺の手を取った。
「男性は、女性に格好つけたがると聞きますからね」
「え」
想定外の言葉。
酷く重い感情をぶち撒けているという自覚があったからこそ、さらりと受け止められた事に驚いた。あっさりと受け止められるような意味に取られている事に驚き、
……あ。
同時に、酷く安堵した。
重い感情を相手に見せて、それで相手が重く受け取ったらどうしよう。そんな気持ちが一诺の中に無かったとはとても言えない。
けれどナージャは、それをさらりと受け止めてくれた。
さらりと受け止められるような解釈をしてくれた。
相手の重荷にならなかった事に、一诺は安堵する。
「格好良い自分だけを見て欲しいと思うのは、男性である以上当然ですから。そんなに重く考えなくても、知られたくない一面の一つや二つ、誰にだってありますよ」
……ああ、そうだ。その通り。重く考えてしまうのはどうにもならないが、それでも、あなたがそう重くは受け取らないでいてくれたなら。
それはとても、ありがたかった。
得た安堵により、一诺はようやく深い呼吸が出来るようになった。落ち着いた呼吸に戻り、必要な酸素が脳へと回ってぐにゃりと歪んでいた視界が正常に戻っていく。
そこでようやく、ナージャが温かみのある優しい微笑みを浮かべている事に気が付いた。
……俺は、それすらも見えていなかったのか。
いつだってナージャを見て、全てを把握して、不快が無いようにと思っていたのに。
けれど正常な視界が戻って来た事と、見えたナージャの顔が微笑みを浮かべていた事。それがまた安堵を深め、自縄自縛により異様な形へと歪められ圧迫されていた心が緩んでいく。
「一诺が買ってくれた小説にも、そういう男性、結構居ました」
ナージャに取られた手が、ナージャによって握られた。
優しく握られた手からじんわりとした体温が伝わり、それがまた安堵として伝わって一诺の体を強張らせていた余分な力を抜いてゆく。
「一诺もやっぱり男性だから、格好つけたいって思うんですね」
「…………ええ、そうです」
……ああ、そうだ。俺は格好つけたいんだ。他ならぬあなたが相手だからこそ、俺は。
一诺はようやく緩み始めた目尻を下げて微笑み、ナージャの手、その爪の先に軽いリップ音を落とした。
「私はナージャ様に嫌われたくなくて、こっちの格好つけた私だけを見て欲しいんです」
随分と気障な動きだが、それでもこう動きたいと思ったのだ。
拒絶されればそれまで。拒絶されなければ、幸いだと。一诺は難しい事は抜きにして、緩んだ思考のままそう思い、行動した。
今だけは、刺客だなんだを忘れて。
「格好つけた一诺でこんなにドキドキしちゃうなら、違う口調まで加わった時、私の心臓が持たない気がします……」
ナージャは一诺の行動を拒絶せず、照れたように赤く染まった頬を手で覆いながらへにゃりと嬉しそうに微笑んでいた。
・
日が暮れ始めたので帰路につきつつ、一诺はナージャに問いかける。
「ナージャ様」
「はい?」
「気分転換は出来ましたか?」
「ん……そう、ですね」
言葉を選んでいるのか少しの無言の後、ナージャは笑みを浮かべた。
「……はい!」
「それは良かった」
その笑みに偽りはないと判断した一诺は、安堵の息を吐く。
「途中私のせいで気分転換どころではないのではと思いましたが……」
「あれは私のせいでしたし……えへ、一诺と一緒で、本当に楽しかったですよ」
「……そうですか?」
首を傾げると、ナージャは目を細めて一诺を見つめた。
「格好つけた、格好良い一诺も見れましたから」
「最後のアレは、その、調子に乗った結果なので忘れてください」
「大事に仕舞っておくから、忘れたりなんてしませんよ」
……それは困るな。
そう思うけれど、クスクスと微笑むナージャは愛らしい。そして色々と重い感情を吐き出したのも事実な為、そちらを意識してもらった方が幾分かマシと言えるだろう。
あの重苦しい空気など、忘れた方が良いものなのだから。
……しかし、忘れてもいられない。
ナージャの身の安全の為にどう動くか、今晩の内にハッキリさせなくては。一诺はそう思い、腹を括った。
「お姉様!」
気合を入れた瞬間に、それを台無しにする声がした。
ナージャの顔から笑みが消え、困っているとわかる微笑みを浮かべながら声のした方へと視線を向ける。
一诺もまた視線を向ければ、やはり特待生が居た。
前にナージャの誘拐があった時に居たメンバーが勢揃いしていて、疎ましい。何をしに来たのかわからないが、どうせ碌な事では無いのだろう。
……折角ナージャ様が気分転換を終えたところだったというのに。
文句の一つでも言ってやろうかと思い一诺が口を開くより早く、リーリカが叫ぶ。
「そいつから離れて!お姉様!」
リーリカの言葉に、ナージャはよくわからないと首を傾げていた。
「……あの、なん……何の用、ですか?」
「ソイツは分家の刺客です!」
その言葉を聞いた瞬間、ヒュ、と一诺の呼吸が乱れた。
……何故、知っている?
前のチンピラの言葉だろうか。それとも他の何かだろうか。ハッキリ断言するという事は、前回の事を踏まえた上でしっかりと証拠をそろえているという事じゃないのか。
真実であるが故に、落ち着いていた一诺の心が再び乱れる。
……違う、俺は、俺は。
刺客だが、とうの昔に裏切っている。
ナージャの正確な情報など渡していない。適当に調べれば発覚する程度の事実しか渡していない。自分が居るからナージャのそばに配置する刺客はこれ以上不要という事にする為、刺客という立場をキープしていただけ。
けれど、一诺はそれを誰にも伝えていない。
ナージャにだって、まだ伝えられていないのだ。すぐにでも伝えなければいけないのに、ナージャに嫌われるのが怖いからと日和ってしまった。
「その一诺は!分家の刺客で、お姉様を分家の言いなりにさせる為に送り込まれたヤツなんです!このままだとお姉様が無理矢理分家に連れていかれて、口に出すのもおぞましい目に遭っちゃう!」
……その結果が、これなのか。
今まで溜め込んで見ない振りを続けていたツケが、一気に襲い掛かって来たような気分だった。
「お姉様!」
ナージャが一诺の方を見ているのがわかるのに、一诺はそちらを見れなかった。
「ソイツから離れて……!」
だって、見れない。
見れるはずがない。
それが真実だから、尚の事。
「こっちに逃げて!」
それは敵なのだと、特待生は叫んでいた。ナージャを守ろうとして、害ある存在から守ろうと。
……見ないでくれ。
ナージャの目が恐ろしい。
その目にどんな色が灯っているか、想像すらしたくもない。少しでも拒絶されたら。軽蔑されたら。それだけでもう、一诺は生きていけなくなってしまう。
一诺にとって、ナージャは神に等しい存在だから。
神に拒絶されたらもうこの世で生きていけないというのは、道理だろう。
「……一诺」
「ちが、ナージャ様、これは、俺は……」
違わないから、何も言えない。
一诺は口を噤むしか無かった。
ナージャを視界に入れているはずなのに、何も見えない。
視界がぶれていて、真っ暗で、ナージャの目に灯る色なんて見えやしない。
その青空のような目がどんな色に変化しているかも、わからない。
キリキリカチャカチャ。
どこかから響く歯車の音が、一诺の頭の中を搔き乱す。
まともに思案など出来る状態では無い。
ただひたすらに恐怖を抱いて、怯えるしか出来ない。
恐ろしい現実など見たくないと、そう、怯える事しか。
……ああ、崩れていく。
夢のように幸せな現在が、一诺の中で音を立てて崩壊し始めていた。




