ナージャは幸いが壊れるのを感じた
あけましておめでとうございます。
休日、ナージャは一诺と共に町を歩いていた。
溜まった疲労を思えば部屋でゆっくり寝た方が良いのかもしれないが、正直言ってナージャはあまりあの家に居たくは無い。
自室という隔離された空間であったとしても、あの屋敷の中に居るというだけで酷く胃の中がもやもやする。
……それに。
ナージャはチラリと隣の一诺の顔を窺った。
目が合えば微笑んでくれるが、その顔に生気は無い。
青褪めるという程ではなくとも酷く血色が悪く、具合が悪いように見えた。しかしそれを指摘しても、一诺は大丈夫ですの一点張りでまったく休もうとしてくれない。
だから、こうして外に出て来たというワケである。
……私は屋敷に居たくなくて、一诺は気分転換をした方が良い様子でしたから……人混みは苦手ですけど、外の空気を吸った方が良いですよね。
一诺の疲弊の理由がナージャと一緒に居る事だったらどうしようもないが、せめてこれで回復してくれたら、と思った。
ナージャも一诺も家の中でゆったり落ち着く事で回復するタイプだが、家で回復が出来なくなった時は一旦外に出てリセットするのが一番なのだ。
そうして家に帰ると一気に力が抜けて安堵の状態になる為、まあちょっとした荒療治のようなものと言って良いだろう。
ナージャ達からすれば、その程度の外出でも荒療治レベルだった。
「……そういえば」
「はい?」
歩きながらふと思い出し、ナージャは一诺へと体ごと振り向く。
「一诺って、他の人相手には時々荒い言葉になる時がありますよね」
何気なく言った言葉だったが、一诺はビシリと固まった。
「…………気付いていましたか」
「んと、怖い人が来た時とかに、ちょっと。そういう時の一诺は私の耳を塞いでくれてますけど、それでも時々聞こえちゃいますし、あと」
「あと?」
「本当に極稀ですけど、一诺が自分の事を俺って言ったり、敬語が外れてる時があるので」
「……あり、ましたか」
「点心の事を考えてる時とかに、よく呟いてます」
完全に無意識だったのだろう一诺は酷く落ち込んだ様子で頭を抱える。
「……申し訳、ありません……」
「あ、いえ、その、違うんです。責めるつもりとかそういうのじゃなくて、注意でもなくて、あの、えと」
わたわたと手を動かしていたナージャは少しだけ目を伏せ、両手の指先を軽く胸の前で触れ合わせた。
「わた、私、一诺のその一面、あんまり詳しくないから、だから、私もその一面を見たいなって、ちょっと、ちょっとだけ、思って……」
「……見たい、ですか」
「はい」
恥ずかしそうに笑うナージャを見る一诺の顔には、よくわからないと書かれているのがありありとわかる。
「見せるようなものでも無いと思いますし、私としては正直、敬う理由も無い相手に対する態度という感じなので……そもそも、何故そのようなものを見たいと?」
「…………一诺は、いつも私の髪を結んでくれますよね」
アイコンタクトと自然な動きで近くのベンチに隣り合って腰掛けつつ、ナージャは一诺に結んでもらった一本の三つ編みを肩へと流した。
空のように真っ青なその髪はキラキラと輝いていて、三つ編まれたその姿はまるで一诺によって髪の毛に空を織り込まれたのではと思う程。
前世からドライヤーやヘアゴムとの相性が悪かったナージャは髪の管理が出来ず短く切っては伸ばしっぱなしを繰り返していた為、こうして綺麗な状態を保ちながら長く伸ばせるというのは初めてで、とても嬉しいものだった。
「結んで、えっと、上手く繋げられないんですけど……一诺、前に私が髪を下ろした姿、一诺だけって言ってたじゃないですか」
「…………はい」
顔を逸らしている一诺の耳と首は真っ赤に染まっていて、その首からだらだらと汗が流れているのにナージャは気付いた。
……暑いわけじゃないから恥ずかしがってるんでしょうが……何か恥ずかしがる事ってありましたっけ?
よくわからないと首を傾げつつ、ナージャは言う。
「その、だからってわけじゃないんです。だからってわけではないんですけど、でも、その……」
……こういうの、ただのワガママですけど……言って良いんでしょうか。
言っても言わなくてもどっちでも良くて、言うと一诺を困らせてしまう可能性が高い事。普段のナージャなら言わないが、それでも前からちょっぴり思っていた事。
断られる前提として言うだけ言おう、とナージャは決めた。
「……わ、私だって、色んな一诺を知りたくて、だから、えと………………」
むぐ、と一瞬口を噤み、ナージャは視線を下へと向ける。
「…………私だけ知らないの、ちょっと、ヤです」
「……………………そ、う、ですか」
ナージャはチラリと一诺を見てみたが、一诺は顔を背けていたのでその表情は窺えなかった。
「……私の」
「はい」
「私の口調についてですが、あんなものはナージャ様にお見せするようなものではありません。ただ荒く、ガラが悪いだけのものです。親しい振りをする事すら面倒な敵に対するものなので、大事な主であるナージャ様相手に使うような口調でもありません」
「たまに、でも駄目ですか?」
「ナージャ様」
人気の無い場所だからか、それともそれ程にイヤだったのか、一诺はベンチから降りて地面に膝をつきながら頭を下げた。
「どうか、それだけはお許しください。あなたの髪を下ろした姿を私だけが独占したいという勝手なワガママに応えていただきながら断るなど自分でも言語道断だとは思いますが、それでも、駄目なんです」
膝の上に置いた手の色が変わる程、一诺は強く拳を握っていた。
「あれは嫌われても良いと思う相手に対するもの。確かにあちらが素であり私の本性でもありますが、ナージャ様には見せたくない、見て欲しくない私でもあるのです。どうかあなたのそばに立つにふさわしくあろうとするこちらの私だけを、見ていてください」
……ん、んん、どういう意味、なんでしょう?
よくわからないが、その声色は本気だった。
本当にその素の性格をナージャに知られたくなくて、普段の優しい一诺だけを認識して欲しいらしい。その感覚はよくわからないが、何となくならわからなくもない。
ナージャだって、可能なら一诺には駄目な自分を見られたくないから。
……まあ、私の場合は駄目な自分を一诺にだけ見せまくっちゃってますけどね。
「……わかりました」
頭を下げたまま動かない一诺のその頭に手を伸ばし、上から下へ一度だけするりと撫でる。
「もう言いませんから、立ってください。人が嫌だと思う何かには個人差があって、一诺にとってそれがとても嫌だって事、気付けなくてごめんなさい」
「……いえ」
顔を上げた一诺は唇を噛み締め、泣きそうな顔をしながら立ち上がった。
何故泣きそうな顔なのだろうと立ち上がった一诺の顔を見上げれば、その顔は既にいつも通りに戻っている。先程見たのは気のせいか白昼夢だったのだろうかと思う程、いつも通りだ。
「…………嫌というのとは、少し違うんです」
隣に座り直した一诺は、ぽつりとそう言った。
「イヤでは無くて、荒さがある私の素の口調で話してナージャ様に怯えられてしまったら、と」
「大声を出されたりするわけでなければ、私は大丈夫だと思いますけど……」
「いいえ」
一诺は首を横に振る。
「私は、あなたに嫌われたくありません。あなたという唯一無二の、大事な存在。そんなあなたに、ナージャ様に少しでも嫌われてしまえば…………きっと私は、立ち直れないでしょう」
いつも通りに光の入っていない一诺の目が揺らぎ、だんだんと顔色が悪くなると共に呼吸が荒くなっていく。
「……酷く、女々しい事を言っているのは、わかっている。それでも私はあなたに救われ、あなたが大事で、大好きで、それで、少しでも嫌われると思うだけで、私は、俺は」
「わかりました」
ナージャは隣に座る一诺の手を取って、首を傾げて下から見るようにしながら微笑んだ。
……多分きっと、今の言葉は無意識なんでしょうね。
黒い瞳が揺れて焦点が合わなくなっていた辺りから、恐らく一诺は心ここに非ずの状態だったのだろう。口調にブレがある辺りを思えばわかりやすい。
けれど聞きたいと言っただけでここまでの動揺を見せるのだから、それについてを指摘すればもっと心に負担をかけてしまうかもしれない。
……一诺の気分転換の為に外に来て追い詰めちゃうなんて、駄目ですね、私。
けれどこれで学んだから、ナージャは二度とそれをねだらないと決めた。
一诺である事に変わらないし、そんな一诺が居ると知っているだけで充分だ。
寧ろ他の誰もが知っているかもしれない一诺を知らなかったとしても、他の誰も知らないような一诺をその内知る事が出来れば、それで良い。
そう思い、ナージャは話の重さを変える。
「男性は、女性に格好つけたがると聞きますからね」
「え」
「格好良い自分だけを見て欲しいと思うのは、男性である以上当然ですから。そんなに重く考えなくても、知られたくない一面の一つや二つ、誰にだってありますよ」
一诺だって、そう教えてくれた。
自分が悪いんじゃないかという自己否定、自己批判。
けれどそれらはそんな思い悩むような事じゃないと、一诺はナージャに教えてくれた。そのくらいは当然なのだから、別に必死に耐えなくても良いのだと。
だからナージャだって、一诺に教わった通りそう返す。
「一诺が買ってくれた小説にも、そういう男性、結構居ました」
ふふ、と微笑んだナージャは一诺の手を出来る限り優しく握る。
拒絶なんてするはずがないと、大丈夫だと、不安になる必要なんて無いのだと伝える為に。
「一诺もやっぱり男性だから、格好つけたいって思うんですね」
「…………ええ、そうです」
よくある事なんだという認識をしてくれたのか、それともナージャがそう重く捉えなかった事に安堵したのか、一诺は頬を緩ませて目尻を下げた。
それは安堵に満ち満ちた微笑みで、多少荒れている大きな手はナージャの小さな手を包み込む。
先程まで血の気が引いて低くなっていた体温は、血液が活動を再開したのかほんのり温まり始めていた。
一诺は目尻を下げた優しい笑みでナージャの手を取ったまま、爪の先に軽いリップ音を響かせる。
「私はナージャ様に嫌われたくなくて、こっちの格好つけた私だけを見て欲しいんです」
……わ、これ、王子様みたいでドキドキしちゃいます……!
良い意味で力の抜けた笑みを浮かべる一诺に、そして格好つけた言葉と行動の一诺にほんのりと頬を染めながら、ナージャもまた笑みを返した。
「格好つけた一诺でこんなにドキドキしちゃうなら、違う口調まで加わった時、私の心臓が持たない気がします……」
へにゃりと緩んだ頬を空いている方の手で押さえたナージャの言葉に、一诺は照れ臭そうに笑っていた。
・
しばらく何とも言えない空気の中で隣り合いながら時間が過ぎるのを待っていたが、日が暮れ始めたのでどちらとも言わず立ち上がり帰路へとつく。
あまり遅くまで出歩く気などは無いのだから。
「ナージャ様」
「はい?」
「気分転換は出来ましたか?」
「ん……そう、ですね」
……本当は一诺の気分転換のつもりだったんですけど……。
しかしナージャもまた気分転換出来たのは事実なので、頷きの後に笑みを返す。
「……はい!」
「それは良かった。途中私のせいで気分転換どころではないのではと思いましたが……」
「あれは私のせいでしたし……えへ、一诺と一緒で、本当に楽しかったですよ」
「……そうですか?」
「格好つけた、格好良い一诺も見れましたから」
「最後のアレは、その、調子に乗った結果なので忘れてください」
「大事に仕舞っておくから、忘れたりなんてしませんよ」
くすくす笑えば、一诺は少しばかり恥ずかしそうに眉を下げていた。しかしその顔は仕方がないとでも言うようで、決して嫌がっているわけではないのが伝わってくる。
それがまた嬉しくて、ナージャは薄く微笑んだ。
「お姉様!」
……ああ、どうして、こんなにも良い日なのに、その終わりに遭遇してしまったんでしょう。
聞こえた声に浮かれた気分が掻き消え、同時に浮かべていた笑みも消え去った。
デフォルトである困り顔にほんのりと不機嫌さを足した状態でナージャが声をした方を見れば、正面には特待生が立っていた。
そのそばには恐らく弟なのだろう、相変わらず見覚えの無い男。
それと攻略対象と思われる見覚えがあるような無いようなメンバーが、三人。
「そいつから離れて!お姉様!」
何を言っているのかわからないし、突然現れて何を叫んでいるのかもわからない。
「……あの、なん……何の用、ですか?」
「ソイツは分家の刺客です!」
……いや、えと、本当に何の話なんでしょう……?
「その一诺は!」
困惑するナージャに、特待生が叫ぶ。
「分家の刺客で、お姉様を分家の言いなりにさせる為に送り込まれたヤツなんです!このままだとお姉様が無理矢理分家に連れていかれて、口に出すのもおぞましい目に遭っちゃう!」
「………………」
信用性など欠片も無い、信頼ゼロな相手の言葉。
十年以上の付き合いがある一诺が刺客だの何だのと言われても、いきなりそう言われてどう反応しろと言うのか。
疑問と不信感以外、抱ける感情が無いにも程がある。
「お姉様!」
けれど、
……どうして。
「ソイツから離れて……!」
一诺は、
……どうして。
「こっちに逃げて!」
顔から血の気を引かせて、
……否定、しないのですか。
カタカタと、その身を震わせていた。
「……一诺」
「ちが、ナージャ様、これは、俺は……」
大丈夫かと心配して声を掛ければ、一诺は酷く怯えたように何かを言おうとし、何も言葉が出ないと言わんばかりに口を閉ざす。
その目は酷く揺れていて、ナージャの姿を映さなかった。
キリキリカチャカチャ。
どこかから響く歯車の噛み合う音が脳内で反響し、やかましい。
ナージャが一诺を信じると信じていないその姿。拒絶されるのではないかと怯えるその姿の一体何を疑うと言うのか。
けれど、一诺はまるでそうは思っていないようで、今までの積み重ね全て、特待生の言葉一つで崩壊すると信じ込んでいるようにしか見えなくて。
それが何だか、ナージャの心の深いところで、ズグンと鈍い音をさせた。




