一诺はナージャを逃がしたい
よいお年を。
ナージャは自分の気持ちを抑え込む、否、殺す事が多々ある。
……大丈夫なのだろうか……。
一诺は十年以上それを身近で見て来たから、それをよく知っている。
三割回復すれば動ける、六割回復すれば万全、と言うタイプがナージャなのだ。しかしそれは当然ながら全回復というわけではないので、まだ微熱が残るナージャが起き上がろうとする度ベッドに抑え込んだ。
「完全に回復するまでです。大体学校で学ぶ内容でしたら私がお教えしますから、休んでください。ぶり返して辛いのはナージャ様ですし、あれだけ無理をしたのです。今はしっかりと回復する事が先決ですよ」
「でも……」
まだほんのりと顔が赤いナージャが、体が動くのなら行かなくてはと言って動こうとする度に一诺はナージャの肩をベッドに押さえつける。
「寧ろ思いっきり寝込んで、あの行為がどれだけナージャ様の負担になっていたかを当主様と奥方様に叩きつけた方が良い。まだ回復していないのは事実なのですから、思う存分寝込んでください。無理に動いてぶり返して高熱に呻くよりも、微熱が完全に回復するまでゆっくりした時間を過ごす方がずっと良い」
「でも、でも」
「それとも回復してはぶり返してを数か月繰り返す方が良いですか」
熱があるからなのかいつもと違い駄々っ子のようにでもだってを繰り返すナージャにそう言えば、観念したのか大人しくなってくれた。
そこまでしないと大人しくなってくれないのも困りものだ。
……頑張り屋である事は知っているが、何もこういった時にワガママを言わずとも良いのに……。
一诺は基本的にナージャのワガママを否定しない。
それは当然の要求である事も多いからだ。
しかし今回のコレは当然ではないから却下した。
当然ではないというのは一诺の尺度なので、世界基準や一般論からすれば微熱程度なら頑張るというのが当然かもしれない。その可能性は、確かにある。
しかしそれはそれだ。
一诺にとってはナージャの心身の健康こそが第一。
無理をして体を壊したのなら、しっかり治るまで休ませるべきだと一诺は思う。
ナージャにとって苦痛しかない学校にわざわざ体調を崩すリスクが高過ぎる中行かせるより、体調が万全になるまで部屋で療養した方がずっと良い。
事実ナージャはそろそろ学校に行けるんじゃないかと言える程度の微熱になる度、また少し熱が上がっている。
「明日、学校、行かないとですね」
ナージャがそう言った翌日には、また熱が少しぶり返すのだ。
行ける、ではなく、行かないと。恐らくはその言葉のような深層心理によるものなのだろう。行きたくないけれど健康になったのであれば行かなくてはという強迫観念、そして学校に対する忌避感から肉体が拒絶反応を起こしている。
健康になれば学校に行かなくてはならないからこそ、肉体が学校を、ひいては健康までもを拒絶してしまっていた。
「……どうかお願いですから、完全に回復するまでゆっくりと休んでください」
だから、一诺はベッドで横になっているナージャにそう願った。
「それが私の願いです。あなたに願う、願いです。あなたが微熱すらも無い程しっかりと完全に回復する事を、私は願っているんです。無理に学校に行くあなたを願っているわけじゃない」
ナージャは自分の気持ちよりも他人の気持ちの方を優先する。
だから誰かの願いには、可能な限り応えようとするのだ。当然ながらそれは応えられなくも無いが応えたくない願いの場合、ナージャ自身を縛り付けるものとなる。
あの特待生がナージャと帰りたいと言う度に、その程度の事だとわかっていても応えられないナージャ自身の心が締め付けられる。
作法自毙。背負わなくて良いものを背負って、ナージャは苦しむ。一诺はそれを見たくない。
……願えば、ナージャ様はそれに応えようとする。
つまりこれは一诺の願いを叶えろと、そう言っているという事だ。無理をしようとしているナージャに、一诺はこう思っているのだから、と。それを願われているのだと、そう伝える為のもの。
しかし同時にこれは諸刃の剣とも言える。
だってナージャが本当にそれを願っているのか、一诺にはわからない。もしナージャがどうしても学校に行きたいと言っていたのであれば、これは強制的に休めという、ナージャの意に反する願い。他の人間達と変わらない、ナージャの意志を無視した忌まわしい願い。
「…………えへ、一诺、そう言ってくれるから、私、嬉しいです」
そんな気持ちも、ナージャの微笑みと言葉で掻き消される。
「その、そう言って貰えると、休んで良いんだって、そう思えて……凄く、救われるんです。あの、えと、もうちょっと、一诺に迷惑かけなくても、自分で休もうって決める事が出来たら、良いんですけど」
嬉しそうに笑ってくれた。嬉しいと言ってくれた。自分の言葉で救われたと言ってくれた。それが一诺の心をぎゅうと掴む。痛い程、けれど甘美な感覚を伴って。
迷惑をかけなくてもという言葉には、迷惑どころかもっと頼って欲しいと思ってしまうが。
……それでも、ナージャ様がそうして自分の意思を尊重し休めるようになれば、ナージャ様はもっと楽になれるだろう。
自分が頼られる。
それは必要とされる事であり、一诺が強く求めるもの。一诺はいつだってナージャに必要とされていたい。頼られなくなってしまっては、自分の存在意義がきっとわからなくなってしまうだろう。
けれど、ナージャの心身に負担が無い方がずっと良い。
一诺は強く、強く強くそう思った。
・
それからしばらくしっかりと休んで回復したナージャは、再び学校へと通い始めた。
しかし特待生を始めとする生徒達による干渉がやはり鬼門なのか、ナージャの顔色はどんどん酷い状態になっていた。折角回復したのにと思う程に、その顔は鬼魂染みている。
ぼう、とした顔で遠くを見ながら顔面を蒼白にさせふらふらと帰り道を歩くナージャは、それでも一诺に縋ろうとはしない。
「……一诺」
「はい」
……無理をして一人で立たなくとも良いのに。
そんなナージャに並んで歩きながら、一诺はそう思った。
先程からナージャの手が、一诺の服の裾や手に伸ばされては引っ込められる。否、そんなわかりやすい動きでも無い。手首の先が一瞬一诺を向いて、すぐに元通り垂れ下がるを繰り返しているだけ。
ナージャの動きを注視でもしていなければ、絶妙に体に隠れる位置で行われているその葛藤には気付けなかっただろう。
……縋ってくれて、良いのだが。
刺客が来た時の邪魔にならないよう、というのは嬉しい。
しかしそれはそれとして、無理はしないで欲しいのだ。可能ならもっと、その抑え込んでいる心のままに接して欲しい。
今にも壊れてしまいそうなナージャが、本当に壊れてしまう前に。
「…………私、ずっとあのお家に居るんでしょうか」
「ふむ」
……どういう意味だ?
これは恐らく相談であり、丁度思っていた「抑え込んだ心のまま」の言葉なのだろう。
ならば、どういう意味かをまず考える必要がある。これは家に居たくない、帰りたくないという気持ちの表れに違いないと思って良いはずだ。
……自分は嫁として出ていくのか、出ていけるのか……もしくは家自体が嫌だからいっそ家出のように出てしまいたいのか。
ナージャの事だから、家に残っていたいというのは無いだろう。
貴族の娘であるなら嫁入りするのが普通だが、ナージャは他の貴族とそこまで仲良くもしていない。その為政略結婚的に嫁入りする可能性もある。
……あの本家当主と奥方の性格を思えば、利益よりもナージャを幸せにしてくれるかどうかで選びそうなものだが……。
しかしあの二人はナージャ自身を見ず、自分達が想像している自分の娘しか見ていない。
今回の件でどれだけ反省したか一诺にはわからないが、そう変化したようにも思えないのが実情だ。結局あの二人の尺度で見て、あの二人からして幸せにしてくれそうな人間を選ぶだろう。ナージャの性格と一致するかどうかも確認せず、善意で勝手にそれらを推し進めるのが目に見えた。
……他には貴族との関わりが無い為嫁として出ていけるかの心配の可能性だが、それは杞憂……と言っても、ナージャ様自身がそれを杞憂だと気付いていないなら心配事にはなるな。
一诺は他にもナージャの言葉の意味を考えある程度返答を形にしてから、言う。
「それはどこかに嫁入り出来るかどうか、それとも家自体を出たいという事なのか……どちらの意味でしょうか。それにより私の返答も変わりますが」
どの返答だろうと答えられるよう選択肢は用意したが、何についてかは流石に一诺にもわからない。どういう意図なのかを聞かなければ、用意した返答も無駄になる。
流石に空気の読めない的外れな返答はしたくないのだ。
「んん……どう、言ったら良いのか、わからないんですが……」
眉根を寄せて口を閉じ、ナージャはふと空を見上げた。
その綺麗な青い瞳にまだ夕焼けが来ていない青い空が映るが、その表情は憂いていた。広い青空に心が晴れた様子も無く、寧ろ広い青空が疎ましいとでも、眩しいとでも言うように先程よりも眉根が寄せられる。
「……あのお家、嫌いです」
「ナージャ様がそうハッキリと言葉にするとは、珍しいですね」
……とはいえ、それを口にするのは遅すぎるくらいな気もするが。
そんな事はとっくにナージャ自身も知っていただろうに、いざ口から言葉として出すまでにここまで長い年月が必要だとは。
それだけナージャの自制心が強いという事かもしれないし、ナージャが自分の心を殺し続けた期間が長いという事かもしれないし、親を含めた家に関係する全てを嫌いだと口にしたくなかったという事かもしれない。
言葉にしてしまうとそれは本人にとっても事実だと実感してしまい、自分を誤魔化せなくなってしまうから。
「んと、私もあんまり、こういう事、色々言うにしても、あんまり言わない方が良い事だって思ってます、けど、でも……今、私、言うのを耐えられないくらいに、あのお家が嫌いです」
ナージャはやはりそう思っていたらしいが、それでももう、限界だったようだ。耐える事も、自分の心を殺す事で誤魔化すのも、限界なのだろう。
それはまだ蒼白と言える顔色を窺えば一目瞭然でしかなかった。
「舞踏会の件が決定打になりましたか」
「……そう、ですね」
笑みを浮かべる余裕も無いのだろうナージャは、憂いたような表情で目を伏せる。
「…………一诺は」
「はい」
ぽつりと一诺の名を呼んだナージャは伏せていた目を開け、その美しい青さを持つ瞳に一诺を映した。
「もし私がお家を出るってなった時、一緒に来てくれますか?」
ナージャのその言葉に、一诺は一瞬きょとんとした表情になったのを自覚した。
……一体何を聞いているのか、よくわからないが……。
返答が欲しいから問うているのだろうしと判断した一诺はさらりと答える。
「私は例え置いていかれようとも、ナージャ様について行くつもりですよ」
そう、どこまででも。
「ナージャ様が私を必要としてくれた時に、応えられるようにと」
他に生きる道など、何も無い。何も想像出来ない。そして他に何も求めていないからこそ、どこまででもついて行くとも。地の果てであろうと、どこへでも。
「……もっともナージャ様は要領が良いので、私の助けなど無くとも平気そうな気はしますが」
一度覚えれば大体の事は出来るだろうナージャを思えば、一诺は必要無い気もする。
家事はすぐ出来るようになるだろうし、近所付き合いだって本家当主や奥方、特待生のような、主張しかしないタイプでさえ無ければ出来るはず。
興味が無いのだろう部分については改善出来るかわからないが、今でも一応最低限の応対は出来ているのだから不可能では無いと思う。
「そんな、その、私、一诺が居ないと、駄目です、よ……!一人だと、私……」
慌てたのか言葉を詰まらせながら、ナージャは胸元でぎゅうと手を握る。
服をシワにしない為か、胸元を握ったりはしていなかった。
「……もしナージャ様が私を置いて一人で出て行かれた場合、その時私はただナージャ様をつけ回すだけの男になってしまうでしょうね」
「え」
言葉が出てこないのか無言になっていたナージャに、一诺はそう告げた。
「置いて行かれようともついて行くと、言ったでしょう。必要とされなかったとしてもそばに居ますよ」
いざという時、助けられるように。
助けを求めるタイプでは無いナージャを思えばただ付き纏うだけの男でしかないだろうが、ナージャに本気の拒絶をされない限りはそうするだろう。
一诺は自分の事を客観的かつ冷静に判断しているからこそ、正確に判断した上でそう思った。
今やナージャと離れた時の自分が想像すら出来ないからこそ、そう思った。
……しかし、まあ。
「完全にあの特待生と同じような、ストーカー状態になってしまうのは否めませんが……」
「置いて行ったりなんて絶対しません……!」
「!」
思わずといったように、ナージャは一诺の小指をきゅっと掴んだ。
邪魔にならないよう小指を掴む小さな手指。それは家事で荒れたゴツゴツしい一诺の手とは違い、ほっそりとした美しさを有している。
小指越しに伝わる体温が、一诺の胸の奥をトクンと跳ねさせていた。
「私、どこに行ったって、きっと一诺が居なかったら、どこであっても灰色だと思うんです」
一诺の小指を掴んだまま、ナージャはそう告げる。
「でも、一诺が居れば、そこは素敵な場所なんです。その、お家はちょっと、イヤですけど、それでも、一诺と二人きりで、お……」
言いかけ、ナージャは口ごもった。
その眉は下がり目は殆ど伏せられ、口は一文字を結んでいる。しかし一度唇を噛むような仕草の跡、口を開く。
「……あの人達の存在を忘れる事が出来る、二人きりの部屋の中は、とっても素敵な時間ですから」
……成る程。
口ごもった理由は、どうやら本家当主と奥方を親だと言いたくなかったかららしい。
元々ナージャはあの二人を両親とは見ていないように見えたが、とうとう本気で見放したようだった。
舞踏会での一件を思えばそれは当然と思えたし、一诺からすれば正直言って遅すぎるくらいである。
元々、他人でしかないと認識しているのがわかる程、ナージャはあの二人を苦手としていたのだから。
「あんな家の中でも、一诺が居てくれるから、安心出来る場所を確保出来てる、んです」
「そうですか」
ナージャにとって、あの家は、屋敷は、苦痛を伴う場所でしかないだろう。
そんなナージャが、一诺が居てくれるからと言ってくれた。その言葉が嬉し過ぎて、ついそっけない返答をしてしまう。
じゃないと、こみ上げる嬉しさからみっともない反応を返しかねなかった。
「……それは、使用人には過ぎた言葉な気もしますが……」
「事実ですよ」
「…………谢谢」
ハッキリと言い切られた事に小さく礼を言えば、ナージャは眉を下げていたものの嬉しそうに微笑んでいた。
「………………んん、でも」
しかしすぐに、ナージャの表情は憂いへと戻る。
「これだけお話しておいて何ですけど、お家を出たくても、どう出たら良いのかわからないんですよね……」
「……今、考える事でも無いでしょう」
……可能であれば早い方が良いが、けれど、今すぐにと急いても良い事は無い。
最近分家の豚がどんどんやかましくなり、もうそろそろ抑えるのも限界が近づいてきていた。
今の辛く苦しそうなナージャを見ている身としてはいっそ家を出た方が諸々の問題が解決して良いと思うが、しかしそう簡単に考えられる程世の中も甘くは無い。
一诺はそれを、ナージャに出会う前に身に沁みて知っている。
「ただ家を出たいだけか、この町を出たいか、いっそ国を出たいか、行きたい場所があるか……具体的にどうするかを決めるより、先にそれらをハッキリさせておく方が良いかと」
具体的に行動するまで、もう少し様子を見ても大丈夫のはずだ。
それならば漠然としたその考えを練り上げ、もっと具体的にした方が良い。
ただ流浪の旅をしたいなら気候や言語に治安などを考える必要があるし、行きたい場所があるならそちらへ向かうルートの確保。
そして家を出たいだけでこの町に居続けたいなら、出来るだけ円満に諸々を済ませないと面倒事になる可能性もある。
「……えへ」
それらをしっかり考えなくてはと一诺が思っていると、ナージャは花をほころばせたような笑みを浮かべていた。
何だかその笑みは、とてもとても、それこそ心底嬉しそうな笑みに見えた。
ナージャは笑みを浮かべたまま、嬉しそうに目を細める。
「一诺、私が家を出たいって言うの、止めないんですね」
「ナージャ様の心身を想えば、その方が良いのは明白ですから。何よりナージャ様自身がその方が良いと選択するのであれば、私はただ応援し、協力するだけです」
……そう。俺はナージャ様のその判断を、間違いだとは思わない。
「その案に賛成する理由は無限にあれど、否定する理由などまったくもって無いのですから」
一诺の言葉に、ナージャは周囲に花が見えるような笑みを浮かべた。
・
無視するには厳しい程の呼び出しがあった為、一诺は渋々分家へとやってきた。
「そろそろあの娘を手籠めにする事だとは思わんか?」
「そうですね」
忌まわしい笑みを浮かべる忌まわしい豚の忌まわしい言葉に、一诺は自分自身に反吐を吐きたくなる程嫌だと叫ぶ心を押さえつけて肯定した。
いっそ今ここでその喉を潰してやりたいと思う心を宥め、一诺は服の下にあるナージャからの贈り物に触れて正気を保つ。
体温によりぬるくなった内側と、ひんやりしている外側。その金属らしい温度でどうにか心を落ち着け、一诺は笑みを浮かべながら豚の前に立っていた。
ナージャの前ではあまりしなくなった、目を細めて口角を上げるだけの笑みだ。
「確かに卒業もあと半年を過ぎましたから」
一诺の言葉に、豚は椅子にふんぞり返りながら言う。
「ああ、卒業は待たん」
「……さようですか」
何故ですか、とは問わない。
そう問えば必ずキレてくるからだ。意味の無いお叱りなぞに時間を食わせるつもりもない。一诺は今すぐにでもこの忌まわしくおぞましく疎ましい会話を終わらせ、帰りたい。
必要とはいえこんな言葉に肯定してしまって申し訳なかった許してくれと、寝ているナージャにそう懺悔したくてたまらないのだ。
……もっとも、そんな事をする気は無いが。
いつどこで誰が見ているかわからない以上、そんな事を口にする気など毛頭なかった。
「しかし一诺、貴様は随分と邪魔をしてくれたな」
「刺客の一人とはいえ、護衛でもある以上誘拐を見過ごすわけにも参りませんので。何よりあまり早くに収穫しても良い事など無いでしょう。熟し切っていない実など渋くて酸っぱくて、到底食えた物では無いのですから」
「ふむ、それもそうだ」
豚はにまにまといやらしい笑みを浮かべていて、その笑みの気味悪さに一诺は思わず胃袋の中身を全部その面にぶちまけてやりたくなった。
やらないが。
……ああ、反吐が出る。
しかし本気で吐きそうな気分ではあった。
過去では常だった、偽りの言葉。本心など皆無の言葉。
けれど今の一诺からすればその偽りの言葉は酷くおぞましい言葉でしか無い為、吐き気がする。
誰かがそんなことを言っているのを聞けば、一诺はきっとその瞬間に拳を叩きこむだろう。
そんな言葉を自分自身で言っている事が、何より許せない事実だった。
自分自身を許せず、自分自身を嫌う理由にしかならない、事実だった。
……必要なのはわかっているが、それでもこれ以上は誤魔化しきれそうにもなく、このまま続ければナージャ様が……。
引き際を誤れば、逆にナージャの身を危険に晒してしまう。
どうにか良い手を考えなくてはと思う一诺の耳に、豚の声が届いた。
「しかしそれはそれだ。いい加減待ち飽きた。何より熟し切っていないとはいえ、ある程度熟しているのは見ればわかるのだからな」
一诺は後ろ手に組んだ腕を掴む手に力を込めた。
これは今にも殴りそうな両手を押さえる為である。片腕は握り締める力に集中し、もう片方は握り締められる痛みに集中する為、少なくとも意識は紛れる。
「一週間」
豚は忌まわしくもいやらしい笑みを浮かべてそう言った。
「あれを捕まえる。決行はすぐにでも……そうだな、一週間以内に行おうではないか」
その笑みに、一诺のハラワタが煮えくり返る。
「貴様のような東洋人にも役立てる機会がある事を喜ぶが良い」
……貴様に言われずとも、俺はナージャ様のそばにいる事で、役立てる俺であれるんだ。
「長い年月をかけて得た信頼による油断、存分に活かせよ」
「畏まりました」
そう返し、一诺はさっさとその部屋を出た。
酷く苛立たしくて、苛立たしくて、苛立たしくて、苛立たしくて。あんな言葉を喋った歯を、舌を引っこ抜いてしまいたかった。いっそ唇を縫い合わせてしまいたい程にイヤだった。
あれと会話する度に口が腐る気がしてならなくて、不愉快極まりない。
……猶予は、一週間。
それまでにどうにかしなくては。最悪、それまでに分家を滅ぼすなりする必要がある。
……ナージャ様は家を出るという選択肢を考えていたが、一週間では出るのに心許なく、出ればこの問題は解決するだろうがたった一週間の準備期間では逆に別の問題が発生する可能性がある……!
問題とはいえこのおぞましい問題よりはマシだろうが、ナージャに苦労はさせたくない。どうすれば最善を得られるのだろうか。
キリキリカチャカチャ。
酷い顔色のまま必死にナージャを逃がそうと思考を巡らせる一诺の頭の中で、歯車の音がやかましく響く。その音があまりにもうるさくて、気付かなかった。
思考に集中していた事とその歯車の音により、一诺は気付く事が出来なかった。
「……ど、どうしよ…………」
特待生と親しくしている分家の三男が物陰に潜み、先程の会話を断片的に聞いていた事に。
「それに、今のって…………」
その姿をしっかりと見られてしまった事に、一诺は気付く事が出来なかった。




