一诺は感情を乱していた
一诺は馬車のところで待機しながら、酷く苛立っていた。
……ああ、忌々しい……!
自分も、他の全ても、全てが一诺を苛立たせていた。
ナージャにも一诺にも秘密にされ、水面下で進められていた案。本家当主と奥方が独断で進めていた案。ナージャが舞踏会に参加するというのを向こうに勝手に送り、ドレスを用意するという案。
……何故こういう時ばかり頭が回るんだ、アイツらは!
本家当主と奥方はかつて、一诺と契約した。
契約というよりも、正確には誓約書だ。それはナージャを無理矢理パーティなどに連れていったりしない事。違反すれば目的地に到着出来なくなる為、ナージャがパーティに無理矢理参加させられる事は二度と無い。
けれど、それには抜け道があった。
それは本家当主と奥方が連れていくのではなく、ナージャ自身が参加するというもの。勝手に参加するという事にすれば、ナージャは向こう側に迷惑を掛けたくないからと絶対に参加するだろう。ドレスを用意しておけば、それを無駄にするのは申し訳ないと言って参加する事になるだろう。
そんな、ナージャの心を利用した案。
……アイツらは全て、良かれと思っての行動なのだろうが……。
本人の同意も無く勝手に参加すると伝える事の、どこが良い事なのか。
ナージャがパーティを嫌がっている事は知っているはずなのに。あれ程嫌がり、パーティに参加する度に体調を崩していたというのに。挙句ナージャがパーティにトラウマを抱くに至った原因扱いされているヴァレーラだって居る。
……どうせ、かなりの時間が経ったからもう大丈夫だろう、一度行けば楽しいとわかるだろう、そこでヴァレーラ・マショーと和解出来ればきっともっと楽しい人生になるだろう、などというご機嫌な考えで実行したに違いない。
一诺のその推測は当たっていた。
つまりはまあ、結局のところ両親とナージャは他人でしかないという話だ。本家当主と奥方は似たもの夫婦であり、ナージャとは両方共似ていなかった。そして夫婦で似た考えであるせいで、他人と自分達の考えに相違があるという事をいまいち理解していなかった。
それがナージャにとっての悲劇と言えよう。
彼らはパーティなど、人が多いところが好きだった。会話する相手がおらず、静かな中で時間が経過していく事が苦痛に感じるタイプだった。誰かと共に楽しい時間を過ごす事が人生最大の使命なのだと、それこそが最高の幸福なのだと思っているタチだった。
当然、彼らからすればそれで合っている。
人間にだって沢山の種類が存在する。ポジティブも居ればネガティブも居る。そういった事を好む人間は居るし、誰かと共に楽しい時間を過ごす事がその人生最大の使命である人間も居るだろう。
けれどナージャは違うのだ。
彼らとは違う。彼らと同じ価値観では無い。一人、もしくは無言のまま共に居ても苦痛じゃない相手と一緒を好む。騒がしい沢山の人間と共に居るのが苦痛で、心を許すまでに時間が掛かるからこそ心を許していない相手を常に警戒するタイプ。外に出るより部屋で寝たり本を読んだり勉強したりするのが何より心安らぐタチ。
本家当主と奥方からすればパーティなどは自分達の群れでありフィールドという感じだったが、ナージャからすればパーティとは肉食動物の群れに放り込まれた仔ウサギのような感覚だった。
……ああまったく、アイツらの思考回路が理解出来ない!
本家当主と奥方がどれだけ浅く自分勝手で、自分達の物差しで測っているが故にナージャの感覚や気持ちを考えもせずこんな事をしたかがわかるからこそ、一诺は理解出来なかった。
……ナージャ様を傷付けている自覚が無いまま、また傷付けるのか。
自分達の考えこそが世界の中心であり常識だと疑っておらず、他の考えもある事を考えていない。
正しさとは固定のものではなく、人により可変するもの。彼らの正しさはナージャからすれば正しく無く、彼らが理解出来ないナージャの主張はナージャにとっての正しさである。
彼らはそれを理解していない。
その結果自分達の価値観を押し付けナージャにナージャの好みでも無いドレスを着せ、ナージャからすれば地獄でしかない舞踏会に参加するよう仕向けた事が、どうしても許せなかった。
浅はかな彼らが怪しい動きをしていようと、そう大した事にはならないだろうと高をくくって見逃してしまった、自分の事も。
……気付けたはずだ。
そう、気付けたはずなのだ。
徹底はされていたものの、不審な動きはあった。けれど他のところが連携しておかしな動きをしているわけでも無かった。屋敷でパーティでもしようとしているのかと思ったが、そういった空気でも無かった。
だから放置しても良いと判断した、自分の浅はかさも許せない。
……俺が浅はかにも問題は無いだろうと!そう勝手に思い込んで見逃した結果がこれだ!
ナージャは好みに合わないドレスを着せられ、舞踏会に出ざるを得なくなった。
……あのドレスは酷かったな、本当に。
苛烈なまでに噴火していた怒りが急激に冷め、今度は深海にでもいるかのように一诺の心が重く、冷たくなっていく。
……ナージャ様を客観的に見た時に似合うと思うドレスではあるだろうが、ナージャ様が望むものではない。
そもそもナージャはドレスを望んでいない。
仮に望んだとしても、アレは無い。確かにナージャは華奢な体格に比べて豊満な胸を持っているのでハートカットが良いとなるかもしれないが、それでもストールを重ねるなりすべきだった。
ナージャは露出のある格好を嫌がると知っているからこそ、一诺はそう思った。
……思い出すだけで苛立ちが湧き上がる。
どうにか長い手袋をつけさせる事に賛成させたものの、本家当主と奥方はストールでナージャの体を隠すなど勿体ない、と言い張った。
着るのはナージャなのだからナージャが決めるべきだろうに、だ。しかしナージャは既に、とっくの昔にあの二人を何でも言える家族では無く、あまり会話をしたくはない他人と思っている。故にナージャは、酷く嫌そうに唇を噛み締めて震えるしか出来ていなかった。
……恋愛をすれば世界が明るくなるだの、もっと楽しい世界を知るべきだの、素敵な人がきっと見つかるだの……ああ!ああ!あの脳内花畑共が!奴らの脳内の花畑を枯らすなり燃やすなり出来ればどれ程良いか!
いまにも感情を爆発させて大声で叫びそうな一诺だったが、歯を食い縛って深い深い溜め息を吐く事でどうにか抑え込む。
……ラインだってプリンセスラインよりも、ナージャ様であればマーメイドラインの方を好むだろうに。
正直に言えば、一诺だってナージャに素敵なドレスを着て欲しいと思った事はある。
だって彼女は美しいから、きっと似合うと思った。けれどナージャはドレスを着たがらない。豪華な物を好まない。だから一诺は時々こういったドレスならナージャに似合う、こういったドレスならナージャもそう厭わないだろう、と夢想してきた。
なのに現実はコレだ。
……いつだって、ナージャ様以外の現実は俺を嫌う。
ナージャの好みを一切調べていない、本家当主と奥方の趣味と好みと独断によるドレス。
ドレスを着たナージャを現実で見る事が出来たのは良い、なんて言えもしない。こんな不本意な形だというならば、見たくなど無かった。一诺が見たかったのは、似合うドレスを着て、それを気に入って微笑むナージャ。
断じて、好みでも無いドレスを着せられ微笑む事すら出来ない程に心に負担がかかったナージャの姿では無い。
……ん。
マグマのような苛烈な熱と深海のように深く冷たい感情の波に呑まれていた一诺は、ふと足音に気が付いた。
近付いてくるそれは、いつも聞いている足音。普段とは違う靴だが、間違い無く聞き慣れた足音。激しくは無いものの呼吸が荒いその影は、一诺の姿を見た瞬間涙を浮かべて腕の中へと駆け込んだ。
「一诺ぉ……!」
「ナージャ様、っぐ」
飛びつくような勢いで駆けこまれ、特に筋肉に力を入れたりなどしていなかった一诺はちょっぴりダメージを負った。
……普段ならどんな状況下であろうと他人を気遣うナージャ様が、それすら出来ないという事か……。
一诺は、冷静にそう判断する。
マグマのような熱も深海のような冷たさも、ナージャの存在と温もりによってどこかへと消えた。今残っているのは、いつも通りの一诺だ。
……舞踏会に一度参加するとなった以上、ナージャ様の性格からすればせめて踊りが終わる時間までは会場に居ようとするはず。
しかし時計を確認しても、まだその時間では無い。つまり自分の心身を可能な限り削ってでもそれらを全うしようとするナージャですら耐えられない程の、何かがあったという事だろう。
「ナージャ様、大丈夫で……ナージャ様!?」
声を掛けた瞬間、腕の中のナージャの体がずるりと落ちそうになり、慌てて抱え直す。
「……酷い熱じゃないか……!」
額に触れれば、既に熱があった。
元々パーティに苦手意識があり、久々の参加かつ不本意な参加ともなればパーティが終わるより早く肉体の限界が訪れるのは道理だった。触れている額から感じる熱からすれば、確実にこれからどんどん熱が上がっていくだろう。
……ああクソ、まさかとは思うがまたあの女か!?
他にも学校の生徒にはナージャが苦手とするタイプの人間は複数居る。
パーティなどに参加しない事で知られているナージャがドレス姿で舞踏会に居るとなれば、囲まれるなり絡まれるなりするのは必須。それが敵意の無いただの好意であれ、ナージャからすればギリギリで張り詰めている最中に声を掛けられるというのは、酷い地獄だっただろうに。
ナージャの目尻に浮いている涙を指先で拭いながら、そう思った。
「すぐに、いや、屋敷までの途中にかかりつけの医者の家があったな。診療所も兼ねていたはず……」
屋敷に到着してから呼ぶよりも、一旦医者のところに行って馬車に乗せて共に屋敷に行く方がナージャの為にも良いだろう。
そう判断し、一诺はナージャを馬車の中へと寝かせる。
「……非常抱歉」
二度とそこまでの負担を掛けたくない、掛けさせないと思っていたのに、結局守り切れなかったという不甲斐なさが一诺を襲う。
キリキリカチャカチャ。
まるで舞台を楽しむ観衆のように、遠くにある時計の歯車が弾んだような音を立てた。
・
翌日、一诺は酷い高熱を出したナージャの看病にあたっていた。
……医者はまともな感性を持っていてくれて助かった。
ナージャがあまりのストレスからとんでもない高熱を出していた為、無理矢理そんなストレスの強い場所に行くよう仕向けた本家当主と奥方に対し、医者は医者として全力で怒ってくれた。
一诺が医者に詳しい事のあらましを語った甲斐もあるというもの。
……嘘偽りを一切混ぜ込んでいない真実だけで、医者があれだけ怒るんだ。
今回の件で、本家当主と奥方がいい加減にナージャと価値観がまったく異なるという事を理解してくれれば良いのだが。一诺はそう思い、内心で溜め息を吐いた。
あからさまに溜め息を吐くのは、寝込んでいるナージャに対するプレッシャーになりかねないから。
「……ナージャ様、大丈夫ですか?」
「…………大丈夫、です」
一诺は一瞬無言になる。
……どこが大丈夫だというのか。
酷く真っ赤な顔。熱のせいか殆ど開いていない目。荒い呼吸。碌に回らない舌をどうにか動かしたような声。
どこからどう見ても、大丈夫ではない。
「今のは私の質問が間違いでした」
……ナージャ様に大丈夫かと問い掛けても、大丈夫としか返さない人だったな。
どれだけ辛かろうとも大丈夫と返すのがナージャだと、一诺はよく知っている。
「ナージャ様、辛い時は辛いと言ってください。可能であれば具体的にどう辛いのかも」
じゃないと、どんな状態なのかがわからない。
「…………」
一诺の言葉に、ナージャは思案するように視線を逸らしてから目を伏せる。
「……首が、熱い、です」
「わかりました」
ナージャの言葉に、一诺はすぐさま濡らしたタオルをナージャの首に巻いた。
「……ナージャ様」
「ん……」
「申し訳ありませんでした」
首を冷やした事で少し落ち着いた様子を見せるナージャに、一诺はそう告げる。
「こんな時に言う事では無いでしょう。今のナージャ様には少しの音ですら頭痛の原因になるでしょう。ですが、言わせてください。本当に申し訳ありませんでした」
「……どうして、ですか……?」
「私が気付いていれば、舞踏会の参加を止められたはずです」
そう、一诺が動けば、止められたはずなのだ。ナージャにこんな辛い思いをさせずに済んだはずなのだ。
「それに気付く事も出来ず、いえ、何か違和感を感じはすれど放置していた私の責任で」
「用意したのは、お父様とお母様、ですよ」
熱で上手く喋れないだろうに、ナージャは言う。
「……んと、一诺に責任無いって、もうちょっと、沢山、ちゃんと、り、理由も言いたい、ですけど、今、私、ちょっと」
「良いんです」
一诺はそれ以上は大丈夫だと告げる。
酷い高熱にうなされている今、頭を使うという事は相当に負担があるだろう。喋るだけでも辛そうなのに、そこに加えてきちんと思考するというのは、かなり厳しい。
それがわかるからこそ、一诺は微笑む。
酷く泣きそうな顔であるという自覚が無い笑みは、何とも酷いものだった。
「そう言っていただけるだけで私は、俺は救われましたから。こんな時に言う事ではありませんでした。無理をさせてしまい、申し訳」
「一诺」
ナージャの熱い手が、一诺の手を取った。
濡れタオルを絞ったりした為少しひんやりしている一诺の手が、ナージャの手の熱でだんだんと熱くなっていく。対照的にナージャの手は少しだけ熱が下がり、体温が近付いた。
ひんやりしていた手に熱の辛さが少し引いたのか、ナージャは安堵したような表情で告げる。
「……私、一诺が居てくれなかったら、駄目でした。一诺が居てくれて、本当に良かった。一诺が居るお陰で、私は安心出来るんです」
先程飲んだ熱冷ましの薬の副作用で眠気が襲ってきているのか、ただ熱が辛いのか、ナージャは殆ど目を伏せた状態でそう言った。
「あなた以外による非を、あなたが思いつめないで」
「…………ナージャ様」
それは、本家当主と奥方を止める事が出来なかった己の不甲斐なさをずっと責め続けていた一诺の心を軽くする言葉だった。
「……それをあなたが言いますか」
「えへ」
誰よりも自分以外の非を自分のもののように思い詰めるナージャが言うのかと告げれば、ナージャは可愛らしい笑みを見せる。自覚があるが故に誤魔化そうとしているのだろうその笑みに、一诺はくしゃりとした笑みを浮かべていた。
ナージャの熱は薬が効いて来たのか、僅かではあれど下がり始めているようだった。




