一诺は信仰を捧げる
一诺はナージャの部屋の隅にある椅子に腰掛け、室内にある別の椅子に座って本を読んでいるナージャの事をじっと見つめていた。
……気分転換に出てからあまり時間は経過していないが、それでも直後に誘拐などがあったからな。
本を読んでいるナージャは、いまいち本の内容に集中出来ていないようだった。
いつもナージャを見ている一诺だからこそ、それがわかる。物語に集中出来ない程に頭の中で様々な考えが堂々巡りして、視界からの情報を取り入れる事が出来ない程に脳が動いているのだろう。
立ちっぱなしというのは逆にこちらが気を遣うからという理由で置かれた一诺用の椅子に腰掛けながら、そう思った。
「……はぁ」
かすれた、本人も自覚していないかもしれない溜め息。
それは心の底から疲れているような溜め息で、一诺の心の中にどうにかしてあげたいという気持ちがむくりと膨らむ。けれど、出来ない。一诺には何も出来ない。出来る事が無い。
……俺は、ナージャ様の為にと思っているが、本当にナージャ様の為になっているのだろうか。
行動の全てが、良かれと思ってによる害だったら。ナージャからすれば喜べない事だったら。けれど喜んでいるような態度を取るしかなくて、そう振る舞っているだけだったら。
ナージャの表情や態度からある程度を察する事は出来るので、それは無い。
演技では無いとわかっているものの、どうしても懸念が湧いて出る。不安がこびりついて離れない。
……あの女。
全てはリーリカに言われた言葉のせいだ。
ナージャに悪影響しか及ぼさない悪という言葉が、脳裏にこびりついてどうしようもなかった。自己評価は高いものの自己否定と自己批判が強い一诺にとって、その言葉はとても痛い。
存在理由の全てをナージャに依存しているが故に、一诺の思考もまた堂々巡りを始めてしまう。
……いや、あの女は恐らく適当に言っただけ、なのだろうが……。
一诺以上にナージャを理解出来ているとも思えない、虫の羽音染みた雑音。
けれど一诺の中にその考えが無かったわけではない。だからこそ考える。考えてしまう。自分の判断は合っているか。本当に自分の行いは正しかったか。
刺客として来て、裏切ったとはいえ表面上はまだ刺客であり続けている現状が、本当に正しいと言えるのか。
一诺は一诺の信じる正しさを貫きたい。憧れの侠客のようにありたいと、そうあるとナージャから貰った服に誓っている。漢服、手镯、そして心に誓っている。それが揺らぐ事は無い。
そう、それは揺らがない、はずなのに。
……本当に害が無いと言えるのか。俺の存在がナージャ様の害になっていないという証拠はあるか。本当に役に立てていると言えるのか。そう思っているだけで、俺は、俺はナージャ様の足枷になっているだけで、本当は、俺がいなければ、ナージャ様はもっと、もっと。
もっと幸せだったんじゃないか。
そんな懸念が溢れてきて、泣きそうになる。けれど耐える。心労が募っているナージャの前で突然泣くなど、心配を掛けさせてしまう上に情緒不安定と判断されてしまいかねない。
ただでさえ不甲斐無いというのに、これ以上駄目な自分をナージャの前に晒したくはなかった。
……俺は、この気持ちは、どうすれば良いんだろうか。
ナージャを愛しているという気持ちは本物だ。
けれど、だからこそ駄目なのだ。格好良い自分だけを見ていて欲しいという格好つけが出てしまう。なのに一诺が思う一诺自身は、格好良いとは到底言えない人間だった。
ナージャが認めてくれるから良いように思えるだけで、侠客風の漢服を着こなせているとは、芯の部分では思えていない。
……服を着てそれらしく見栄えを整えているだけで、俺は、俺はいつまで経っても。
分家で蔑まれ迫害を受けていたせいか、絶対的な弱者であるという刷り込みがどうしても抜けない。
一诺にとってナージャはとても素晴らしい存在だった。それこそ生きた女神のようにさえ思えた。だから全てを捧げたいと思った。だから、だから。
けれど一诺の恋心は、ナージャに捧げるにはみすぼらし過ぎる。
ナージャから同じような恋心を貰えるだなどと、分不相応な事は考えない。考えはするが、すぐにあり得ないという結論が出る。そしてそれに納得してしまう。
……釣り合わない。今こうしてそばに居る事すら、俺は。
相応しいのか。分不相応が過ぎる。似合わない。そばに居るだけでナージャ様の品格を落としてしまうのでは。
キリキリカチャカチャ。
ナージャを慕うあまり最早信仰とも言える域に到達している思考は、ぐるぐると巡る。ナージャの部屋にある時計の歯車の音と思考が一緒になってぐるぐると脳内を巡り、一诺は今自分が座っているのか立っているのか寝ているのか起きているのか、何もわからなくなった。
それ程までに思考に呑まれ、自分というものを見失う。
「一诺」
「はい」
けれどその思考は、ナージャの声一つですぐさま止んだ。
ナージャは開いていた本を閉じていて、じっと一诺の方を見つめている。いつもの青い瞳。青空のように美しい瞳。それに自分が映っている事が違和感のようで、けれどナージャが視界に入れても良いと判断しているという事実もある。
一诺にとっての女神に等しいナージャが一诺を拒絶しないと判断しているなら、それで良い。
そう決定されているのだから良いじゃないか。女神の判断に逆らう余地など無い。
そんな思考が一诺の中で展開され、先程まで雑音しか響いていなかった脳内が途端に凪いでいく。
キリキリと、カチャカチャと歯車の音が耳元でする。時計の中の歯車の音がやけに近くで聞こえているような気がした。
それはまるで、ナージャを女神と盲信する事自体を否定しているような。
……そんな事があるはずもないか。
誰を信仰しようと、それは一诺の自由のはずだ。
一诺にとってナージャが全て。生きる理由も何もかも、ナージャの為のもの。一诺を認めてくれたナージャを神聖視するには充分な理由があって、それにより神聖視する事に一体何の問題があるというのか。
……口に出す気など無い密やかな信仰を否定される気は、無い。
例え否定するそれが神であろうと、ナージャに否定されない限りは否定されたとは言えない。
一诺はリーリカの言葉により酷く不安定になった精神を安定させる為、盲目的にそう思った。ナージャが世界なのだから、他の誰に否定されようとナージャが否定しない限りは平気なのだと。
そう思う事で心を無理矢理落ち着かせた一诺は、ナージャに微笑みを返す。
……ああ、そうだ、大丈夫なんだ。ナージャ様が居る限り、俺の心が死ぬ事は無い。
それは恋心を盲目的な信仰に変化させる事で強烈な鎮痛剤のような役割をさせているようなもの。
劇薬とも言えるそれは、必要なもの。だって一诺の心はリーリカの言葉一つでズタボロになった。
正確には、その言葉によって自分自身の中で様々な意見がぶつかり合い、崩壊していった。
恋心を信仰に近い形として強めなくては一瞬にして情緒不安定な部分が表に出て涙がぼろぼろと出そうになる程に、一诺は自縄自縛に囚われていた。
「あの、今、私、考えて、思ったんですけど」
「はい、何でしょう」
言葉を詰まらせながらも自分の意見を言おうとするナージャを見つめ、一诺は微笑みを浮かべながら待つ。女神に等しいナージャの言葉を待つのに何の労もありはしない。頭の隅で、そんな気持ちを揺蕩わせながら。
ナージャは意を決したように、ぐっと拳を握って言った。
「つ、次からはちゃんと、私があの特待生に応対します……!」
「駄目です」
不安定な心をナージャへの盲信で無理矢理安定させていた一诺の心が、一瞬でピキリと凍り付いた。絶対零度とも言えるその温度は不安定な心を固定し、安定させ、頭を冷やす。
「駄目です」
あんな虫の相手を一诺にとって女神に等しいナージャにさせるなど、許せる事ではない。絶対にさせられない。それだけは出来ないと、一诺の腹の底でぐつぐつとマグマが煮立つ。
先程までの不安定な心であれば壊れていただろう圧だが、冷たい怒りで安定しているお陰かただただリーリカへの敵意にしかならなかった。
「あれは有害です。流石に有害物質に人の形を与えたような滅びる以外に人類の益になる事は出来ないだろうゴミ程ではありませんが、それでもわざわざ接触する程の価値はありませんよ」
「わあ」
一诺の言い草に、ナージャはよくわかりませんと顔にありありと出ている表情でそう言った。
しかし一诺からすれば、それが事実だった。分家当主である豚程ではないとはいえ、接触して利益があるとも思えない存在。それが一诺から見たリーリカだった。
……五十步笑百步。
もっとも分家程ではないだけで、どちらにせよナージャに害を為す存在である事に変わりはないが。
そう考えた一诺は一瞬自分はどうなのかという発想が浮かび心がぐらつくも、リーリカに対する怒りに転換する事でひたすら自己批判のループに苛まれる事は回避した。心はまだ、冷たい怒りによって安定している。
「勿論、ナージャ様がそれを望むのであれば私は止めませんが……」
嘘だ。
絶対、何が何でも止めたい。けれどナージャが何が何でもとそれを望むのであれば、そうしたいと言うのであれば、一诺に何かを言う権利など無い。ナージャ自身で決定した事を一诺が否定するわけにもいかない。
ナージャが自分で決断するという行為を、妨げたくないから。
もしそれが間違いで悪であるならば一诺だって止めはする。けれどリーリカに関しては分家当主のようにナージャに害を為そうとしているわけではなく、ただナージャに合わない好意の示し方をしているだけ。
そう、一诺だってそのくらいは冷静に把握している。
ただナージャの様子を見ているにナージャの性格からして本気でリーリカを苦手としている事から、無理をさせるわけにはいかないと思うのだ。そこには当然ながら一诺がリーリカを生理的に全力で毛嫌いしているからという私的な理由も混ざっているが、それを抜きにしてもナージャに掛かる心労を思うと十二分に余りある理由だった。
だから、一诺は告げる。
「正直に言って、止めた方が良いと思います。あれは接触しても百害あって一利なしの存在でしょう。他の人間からすれば益になるかもしれませんが、私達のような人間にとっては害でしかありません」
益虫だろうと虫嫌いからすれば虫である以上全てが害虫に等しいように、一诺にとってのリーリカはそんな扱いだった。そのくらい無理なのだ。
益があろうが無かろうが滅べと思う程には、溢れるくらいの生理的嫌悪感が湧いて出る。
……もっとも、それはあれも同じだろうが。
好意が皆無で純度と濃度が高い嫌悪のみがお互いに向いている事くらいは自覚している。寧ろ、そうじゃない方が体中の皮膚を掻きむしりたい程に不愉快なくらいだ。
「ん、んん……」
一诺の中々な言い草に苦笑しつつも、ナージャは否定しなかった。
眉を顰めているならば一诺の言い草をちょっとどうかと思っていると判断して良いだろうが、困ったように眉を下げている辺り恐らくその言い草に納得してしまったのだろう。一诺はそう思いつつ、ナージャに問いかける。
「そもそも、何故あれ程までに苦手としていたあれとわざわざ接触しようとなったのですか?」
「…………いつも、一诺に任せっきりでしたから」
「?」
……何の話だろうか。
よくわからないと一诺が首を傾げると、ナージャは一瞬ふわりと微笑んだ。しかしすぐにその笑みは消え、膝の上でスカートを握りながら目を軽く伏せ、下を見つめる。
「一诺の負担になると思ったんです」
ぽつり、とナージャは言った。
「特待生が頻繁に来て、一诺にその応対を任せていて、それは、申し訳ないなって思ったんです。お互い彼女が得意じゃないの、わかってますから」
ナージャは顔を上げ、眉を下げながらも優しげな笑みをパッと浮かべた。
「一诺に任せてばっかりじゃなくて、私が出るようにすれば、もしかしたらそれだけで終わるかもしれませんし」
「ありません」
「え」
「あり得ません」
一诺の断言に、ナージャは頭上に沢山の疑問符を浮かべていた。
「あれは調子に乗る質でしょう。ナージャ様が一度出れば、また出せと騒ぐのが目に見えています。そしてナージャ様が応対するようになれば、この部屋に入り込み居座ろうともするでしょう。先輩であるナージャ様に教わりたいなどという理由をつけて」
「う……想像出来ちゃいます……」
ナージャも一诺の意見に同意らしく、困ったような、そしてイヤそうな顔をした。もっともイヤそうな顔というのは一诺が見て気付く変化であり、他の人が見たところで困った顔にしか見えないだろうが。
「……でも」
少ししょんぼりとしつつ、ナージャは言う。
「そうしたら、一诺に迷惑が掛かっちゃいます」
「迷惑を掛けているのはあの女であり、ナージャ様ではありません。そしてあの女による迷惑を被っているのは、ナージャ様もなのですよ」
一诺は立ち上がり、ナージャの頭を優しく撫でる。
使用人が主の頭を撫でるなどもっての外だが、ナージャ本人からの許可は得ている。内心お前はそんな事が出来る立場に無いだろうと叫ぶ自分に対し、一诺はそれを大義名分として掲げる事で黙らせた。
「そう、私一人というわけではありません」
……一番の被害者は、ナージャ様だ。
そこで自分を勘定に入れないところが高尚だとも思うが、それでは駄目なのだ。一诺は、ナージャが自分の身を削ってボロボロになる姿などは見たくない。
既に嫌と言う程、ナージャは心身を削りボロボロになっているというのに。
……俺は。
何も出来ない自分が歯痒くて、一诺は己の無力さを噛み締める事しか出来ない。
けれどナージャに悟られぬよう。心配を掛けさせたくないという表の本心と、そんな自分を見せたくないという裏の本心の総意により、一诺は感じている無力さを微笑みという表情で内に隠した。
「迷惑というなら、ナージャ様だって被害者です。それもターゲットにされている被害者。ストーカー相手にストーキング対象を出すなど、ネズミの前に餌を置くようなもの。それだけはしてはいけません」
「な、成る程……」
ようやくナージャはリーリカの危険度を実感したというか、初めて客観的に今の状況を認識したのだろう。納得し、神妙な表情で頷いていた。
「そしてそもそもですね」
「?」
きょとんとするナージャに、一诺は告げる。
「私はナージャ様に仕え、ナージャ様の為に動き働ける事がなによりも嬉しいんですよ。それ以上の幸いなど無いと思う程に」
ナージャは明言こそしなかったが、恐らくは一诺の負担になり過ぎれば一诺は去って行くのではないかと懸念したのだろう。故に自分がその負担を請け負おうとしたのだろう。
そう判断した一诺は、きちんと言葉にして伝える。
……そんな事は、あり得ない。
「何があったとしても、ナージャ様が私を手放そうとしない限り、離れるつもりはありません」
「一诺……」
……ああ、そうだ。何があろうとも、ナージャ様に拒絶されない限り、離れたりなどしないとも。
もし離れる時は、一诺が己の不甲斐なさに耐え切れなくなり、命を捨てると決めた時だ。
もっとも流石にそれを正直に告げるわけにもいかない為、一诺はそれ以外の気持ちを告げる。重くはなく、けれど偽りではなくちゃんとした本心を。
「あとナージャ様の傍に居るだけで回復するのであの女との言い合いで心労が募ろうとも問題ありません」
重く感じ取られるかもしれないからこそ、重く取られたりしないよう言い方に気をつけつつ。
「その後ナージャ様と時間を共有する事が出来れば、それで俺は幸せなんです」
「……ん、んむ……」
ナージャは赤くなった顔を誤魔化すように、むにむにと頬を揉んでいた。
「…………えへ」
へにゃり、とナージャは破顔する。
「そんな嬉しい事を言って貰ったら、照れちゃいますね」
……ああ、愛らしい。
ふにゃふにゃした笑みを浮かべるナージャに、一诺の胸の奥がきゅんと締め付けられる。
その笑みが愛らしいのもそうだが、一诺の言葉に喜び、思わずといったように笑ってくれたという事実。それがまた一诺の胸の奥を締め付けて、不安定なはずの心をゆっくりと繋ぎ合わせて修繕してくれているようにも思えた。
「でも、あの、でも、私いつも一诺に頼りっぱなしで、申し訳なくて……その」
「はい」
「……負担にならないようにって思って、あの」
ナージャはもごもごと口ごもりつつ、指先をくるくるしながら上目遣いで一诺を見つめる。
「いつものハグとかも、止めた方が良い、ですか?」
「…………」
……ハグ、とは、つまり、いつも、の。
「………………」
一诺は目を伏せて考える。
ハグは正直言って、一诺からしても最高の憩いの時間なのだ。ナージャが一诺を必要としてくれる喜びというのもあるが、もう何か、とても心の安寧に繋がる大事な儀式に近い。
しかし、だ。
「………………」
一诺は錆びたロボットのような動きで背を丸めた。
ハグの度、一诺は常々ナージャに対して言っていた言葉がある。大きくなってからは男女で、恋人でも無いのにこういったハグはするものではないと。今の内にハグ離れをしなくては、将来的に良くない事になってしまう。
そう思っているしそう告げてはいるものの、一诺の気持ちとしては、止めて欲しくない。
しかしそれはワガママであって、正しくはない。本心ではあれど正しくはない。一诺の勝手な気持ち一つでそう言うわけにはいかないだろう。
例え、ナージャがハグを心の癒しにしている、と、して、も。
……ナージャ様がそれを求めているのであれば、良いんじゃないか?
そんな大義名分が一诺の中でむくむくと膨らんでいく。
「…………負担、では、無いです」
けれど図々しい事も厚かましい事も言うに言えず、言おうとしても自分からそれらを主張する事に慣れていない。もう少し主張をするようになど、ナージャに対してどの口が言っているのか。
そう思うくらいに、一诺もまた一诺自身の主張をいまいちできないタイプだった。
一応出来るには出来るのだが、対ナージャだと途端ポンコツになってしまう。ナージャにだけは嫌われたくないからこそ、曖昧な言葉しか口に出来ない。
「……ナージャ様からすれば酷く不快な感情を抱くかもしれませんが」
「はい」
ナージャは一诺の言葉を否定しなかった。
いつもならば不快な感情など抱かないと言うだろうに、まるでいつも一诺がやるような、続きを促す相槌。それに何だかホッと安堵して、一诺は言う。
「…………とても正直に言わせていただきますと、あの時間は私にとっての憩いの時間でもあるんです」
「そうなんですか?」
「はい」
一诺は笑顔を貼り付け、何でも無いように振る舞った。
恋心なんて、そんな邪な感情は向けていないとでも言うように。というよりも、そうやって取り繕わないと零れてしまいそうだったから。
いずれ腐って廃棄になる予定の、出す予定の無い恋心は、零さないようにしなくては。
……ナージャ様の負担にだけは、なりたくない。
ナージャに頼られる事自体はまったくもって負担では無く、寧ろ頼られているという事実が嬉しいので、寧ろもっと頼ってくれても良いくらいだが。
「……その」
……どうして憩いの時間扱いされているのかは、説明した方が良いだろうか。
一诺としては説明した方が良いだろうなと思う。けれど当人でもある為、真正面から言うにはどうにも恥ずかしい。
「あなたに恋をしているから、あなたに触れている時はとても心がドキドキすると同時、同じくらい心が安らぐんです」
そんな事、言えるはずがない。想像するだけで体温が上がってしまう。
そもそも使用人である以上、想いを伝えるなんていう未来は無いのに。
……期待を抱いてしまうという悪癖も含まれているからこそ、早めにこの恋心は、どうにかした方が良いだろうな。
そう思いつつ、嘘は言いたくないが本当を言うわけにもいかない一诺は苦渋の決断で口を開く。
「具体的にどうしてそれが憩いの時間になっているのかについては三十路目前の歳である事などから少々黙秘をさせていただきますが」
「わかりました」
深く聞いたりもせず、あっさりと受け入れてくれたナージャに一诺はとても安堵した。
具体的にどうしてそれが憩いの時間になっているかを伝えようとすると、どうしてもナージャへの告白になってしまう。親愛だと誤魔化す事は可能だろうが、一诺がナージャに抱いている感情は親愛では無く恋愛なのである。
恋に蓋をして腐らせいずれ捨てるのはともかく、偽ったり誤魔化したりはしたくないという漠然とした感情が一诺の中にはあった。
だからこそ、ナージャがあっさりと受け入れてくれた事に安堵する。もし受け入れてくれなければ、言うしかなかったから。嘘を吐くのも誤魔化すのも嫌で、黙秘を却下されればもう話す以外に一诺の中には選択肢が存在していなかった。
故に一诺は、ナージャへの想いをまだ胸に秘める事が許された事に安堵した。
「んと、その、あの」
「はい」
揺らがせていた視線をナージャに向けた瞬間、一诺は驚愕に目を見開いた。
……期待したいが、期待をさせないでくれ。
赤く染まったナージャの頬には、どんな意味があるのだろうか。
一诺と同じ気持ちであれば良いが、きっと違う。へにゃりと微笑むその顔はとても愛らしくて、一诺の胸がきゅうんと締め付けられるが、けれどきっと同じ気持ちでは無いのだろう。
何とも不毛な感情が虚しくて、けれどもナージャを見るだけで胸の奥が弾んでいた。
「……今、抱き締めてもらうのって、良いです、か?」
そんな弾みも一瞬で止まる。どころか一瞬、呼吸や心臓が止まったかと思った。
……いや、こう、抱擁をねだられる事は何度もある、が。
そわそわしているような、その表情。その表情に一诺の恋心が期待しそうになって、弾んで、温かくなって、大きくなって、けれどもあり得ないと一诺自身でその恋心を押さえつける。
それ以外、一诺は自分の恋心と向き合う方法を知らなかった。
「……念の為に言っておきますが」
しばらくの無言の後、一诺は反射的に浮かべていた笑顔のままで手をピンと立てて前に出した。
「これは拒絶の無言では無く、己の中にある色々な葛藤による無言です」
主に立場や感情など、その他諸々の色々だ。
「は、はあ、成る程……?」
ナージャはよくわからないというように頷いていた。
……しかし、どうするか……。
可能なら抱き締めたい。
けれど、でも、と思う気持ちも確かにある。しかし一诺としてはナージャを抱き締めたくて、それをナージャの方からねだって貰えるというのはとても嬉しい。
そうなるように誘導、刷り込みをしたんじゃないか。
そんな思考が湧き出ても来るが、それには蓋をする。今重要なのはナージャを抱き締めるか否か、それだけだ。
……答えは、単純だな。
色々考えはしたし葛藤もしたが、結局は一つだ。
「……ふぅ」
ナージャが望み、それが一诺の望みとも一致しているならばそれで良い。一诺はそんな結論に達し、葛藤に強張っていた体の力をふっと抜いた。
「…………その、ですね」
「はい」
「私もナージャ様を抱き締め、触れ合い、確かにナージャ様が居るというのを感じる事が出来る時間はとても嬉しいものです」
「それ、んと、言って貰えたの、嬉しいです」
ふわりとした笑みを浮かべながらナージャが告げた言葉に一诺の思考が一瞬停止するも、どうにか自力で再起動する。
「ただ私はあくまで使用人の立場ですので、私から言う事は不可能。故に抱きしめたくとも抱き締めたいと言う事は無いのですが、先程の会話で少々そういった気持ちが無いわけでもなかった為」
「?」
「あー……」
立場的に、一诺の方からハッキリと明言するわけにもいかない。
けれどナージャは理解していないとわかる、きょとんとした表情になっていた。故に一诺は少し言葉を止め、頭の中で文章を構築する。
「……要するにですね、ナージャ様からそうやってお誘いいただける事がとても嬉しいという事です」
「あ、成る程!」
その言葉で理解したのか、ナージャはパッと明るい顔で頷いていた。
「あ、あの、あの、それじゃあ!」
ナージャは椅子に座ったまま、ずいっと身を前に乗り出した。
基本的に前に出る事すら滅多にしないナージャにしては、とても珍しい動き。その上青空のように美しい瞳をパチリと開いて、キラキラとした目で一诺を映している。
一诺は思わず、その目の美しさに心を奪われ見惚れていた。
「こ、これから、もっと沢山、その、ぎゅってしてもらいたいって思った時、限界じゃない時でも、そういう気持ちの時、あの、お願いとか、しても良い、ですか……!?」
「……!?」
しかしその思いもよらない願いに、一诺は思考を停止させて即座に顔を背ける。
嫌というわけではない。ただ、予想外だっただけだ。
……誰かに縋らなくてはいけない程限界になっている時以外に、抱き締めてもらいたいと思う事が、あるのか。
それも恐らくは、ナージャが一诺に対してそう思うという事。
他に抱き締めて貰うに値する人間が居ないからではなく、一诺だから。一诺はそう思いたいし、現状はそれが真実だろう。
けれど、そんな事は考えた事がなかった。
喉が渇いているのであれば、水を求めるのは道理と言える。けれど喉が渇いていない時でも、水が飲みたいと思った時に飲んでも良いか。今ナージャが言ったのは、そういう事だ。必要な時に求めるのは道理だが、必要と思っていなくとも欲するのは、それを好んでいるからと言えるだろう。
限界だからと仕方なく、必要だからとそれを求めているわけではない。
……お願いして良いかと聞いて来たという事は、今までにそう思った事が、ある、と。
熱い。
顔が熱い。体が熱い。熱に頭がくらくらしてきた気さえする。
今までも限界では無い時に、自分に、俺に抱き締められたいと思ったのか。
……ああ、まったく、自惚れてしまう。
「…………」
何かを返したい。
何か言葉を返したいのに、熱のせいか自惚れのせいか、声が出ない。声が出ても、何を言いたいのかわからない。熱に浮かされた頭は真っ白で、なのに色々な感情がふっと出てきては消えていく。酷い葛藤で、熱くて、ぐるぐるするというのに嫌では無くて。
だから一诺は、よくわからないながらも素直な自分の感情に従って頷いた。
「やったぁ!」
「っ、ナージャ様!?」
直後、ナージャが抱き着くように一诺の腕の中へと飛び込んできた。
ぎゅう、と体が密着する。柔らかくて、細い体。いつものナージャは寄り添うに近い抱き着き方だというのに、今のナージャは強く抱き締めるという抱き着き方で。
ぶわりと一诺の中で言語として纏まっていない感情が嵐のように吹き荒れ、じわりとした汗が首や背中に滲み出たのがわかった。
……ほ、んは、落ちてない、な。
混乱にぐるぐるした頭で、椅子に置かれている本を見てそう思った。
これは現実逃避だろう。ナージャの膝の上にあった本が落ちたのではなんて、些細な事だ。今この瞬間気にすべき事では絶対に無い。けれど、今の状況を理解しようとするとどうにも頭がくらくらしてしまう。
それ故の現実逃避で、一诺は重要では無い部分に意識を向けていた。
「ふふ」
ナージャの腕の力が強まり、胸元にぐりぐりと頬擦りをされる。
……ああ、ああ。
愛おしいだとか、愛しているだとか、恋だとか好きだとか嬉しいとか歓喜とか、そんな感情が一诺の中で爆発したような気分だった。
「…………ナージャ様」
一诺は可能な限り腕の力を制御して、ナージャの背に手を回して抱き締めを返す。
感情のままうっかり強く抱き締め、締めあげてしまわないように気をつけながら。大事な宝を守るかのように、愛しい人を抱き締める。
……出会った頃は、あれ程までに小さかったというのに。
「昔に比べて、大きくなりましたね」
当時は食事の形式やら何やらが合わず、酷く小食だったナージャ。
その上で引きこもる事すら出来なくて、まだ五歳という幼い身でありながら酷く弱っていた事を思い出す。それはもう、すぐに寝込んでしまう程にはか弱かった。
……すぐに寝込んでしまうのは、今もまだあるな。
仮眠を取り、自室にこもる事で他人との接触を可能な限り最低限にしているからこそ数日寝込むような事態になっていないだけ、と言えるだろう。
けれど、当時はもっと酷かった。平均的な五歳児よりも幼いくらいには虚弱な体。小食で栄養が不足していた以上に、合わない家族に無理矢理合わせなければいけなかった心労。
笑う事も泣く事も主張する事も出来なかった当時を思えば、何と嬉しい成長だろうか。
「細さは相変わらずですが……」
かつてに比べては成長しているが、町の人間を観察して把握した平均からすれば、ナージャはやはり細い部類に入ってしまう。
「こうして今まで生きて、立派に育って、そして私と出会ってくれて」
しかしそんな事は些細な事だ。
平均より細い程度で、健康状態はちゃんと維持されている。今生きていてくれる。生きようと思ってくれている。自分の考えを主張出来るようになってくれている。一诺の事を認めて受け入れてくれる。
……ああ、そうだ。
何よりも、自分を必要としてくれて。
「太谢谢你了」
……尊く素晴らしいあなたに、深い感謝を。
「私こそ、ありがとうございます」
ナージャは一诺の抱擁を一切拒絶せず、腕の力を強める。
抱き締めている体に、ほんの少しの拒絶反応も無い。反射的にビクリとする事も無い。寧ろ嬉しそうな声色で、ぐりぐりと額や頬を擦り付けながらそう言った。
一诺が用いる東洋の言葉は、断片的にしか把握出来ていないだろうに。
……だから、いや、そういうところも。
好きなんだ、と一诺は思う。
さらりとそう返せるところが。そう返してくれるところが。
愛おしくて、愛おしくて。
「一诺と出会えて」
ナージャは本当に嬉しそうな声色で、言う。
「本当に幸せなんですよ」
「っ…………!」
言葉が出ない。
嬉しくて嬉しくて、一诺は背を丸める。ナージャを抱き締める為に。抱きすくめるように。宝を腕の中へと隠すように。
……大丈夫、大丈夫だ。
沒問題。
……俺はまだ、我慢出来る。
感情が渦巻いて、今すぐにでもナージャの背骨が折れる程の力で抱き締めたいとさえ思う。
けれどそんな事はしない。したくない。感情のままに傷付けるなどあってはいけない。女神のような存在である以上に、愛する人なのだから。相手を想うが故にこそ、自分勝手な感情を無理矢理相手に押し付ける事だけはしてはいけない。
ナージャがそれを嫌っているのは、十年以上ずっと見てきて、よく知っている。
……もし、俺が我慢出来なくなった時は。
その時はもう、ナージャと共には居られない。
傷付ける自分を傍に置くわけにはいかないと、一诺もその他も皆思うはずだ。
信頼も失い、必然的に全ても失う事になるだろう。ナージャが居ない世界など、考えられないから。もしそうなれば、ナージャに嫌われれば、生きたまま地獄に落ちたに等しい絶望が襲い掛かってくるに違いない。
一诺は、そう確信していた。
……ああ、けれど。
けれど、と一诺は思う。
……この立場でナージャ様のそばに居られるというのは、俺にはあまりにも過ぎた幸福か。
我慢できるかどうか。出来なければ生き地獄。女神のようなナージャのそばに居る為だと思えば、それは妥当にも思えた。女神のそばに一诺のような者が立つには、そのくらいのリスクやデメリットがあってしかるべきと言えるだろう。
自己評価が高くとも、自己否定や自己批判が強い一诺にとって、それは道理に思えるものだった。
……ナージャ様。
ナージャの言葉に歓喜して、一诺は知らず知らずくしゃりとした顔になっていた。
泣きそうな、嬉しそうな、けれどどうしようもなくて最早悲しみを覚えているような、そんな顔。今にも涙が零れそうな顔に自覚は無いが、自覚している心のどこかがナージャにそんな顔を見られていない事に安堵する。
キリキリカチャカチャ。
観衆の話し声のような、歯車の音。楽しんでいるような、弾んだ歯車の音。
それは室内に響き反響しより大きく不安定な音になった上で、一诺の耳に届いていた。




