ナージャにとっての憩いの時間
休日、ナージャは私服姿で椅子に座って本を読む。
この部屋にはソファが無い。基本的に椅子かベッドに座れば良いからというのもあるが、ソファがあると来客が居座りかねないのだ。両親という、時々ノックも無しに無断で入ってくる存在が。
故にナージャの部屋は、貴族らしからぬシンプルさに満ちている。
年頃の乙女らしい可愛らしさも、貴族らしい華美さも無い。細やかな装飾が入った品の良いシンプルさがメインで、家具はどうせ使用しないしという事で最低限。
……必要以上にあっても邪魔ですし、結局碌に使用しないまま室内に放置するというのは、家具にも申し訳ありません。
付喪神が宿っていたら怒られそうな気がするくらいだ。
そのくらい、ナージャはあまり動かない。部屋の中だっていつも決まったルートを辿る程度なので、窓から外を見るなんて三か月に一回程度。もし一诺が掃除をしてくれていなければいつものルート以外に埃が積もるんだろうなと思える程には、同じルートでしか動かない。
ナージャにとって、部屋とはそういうものだ。
基本的には憩いの場所。安らげる場所。気を抜いても良い場所。
心労のあまり心身を回復させようと睡眠頻度が多い為殆ど寝る部屋みたいな部分もあるが、ここがナージャの世界なのだ。
……屋敷の中……部屋の外って実は食堂すらも場所が曖昧なんですよね。
行く予定が無い場所なので、記憶から完全に消えていた。
良い思い出が無いからというのもあるのだろうが、ただひたすらに興味がないというのが正解だろう。食堂以外も、全て。もっとも書庫だけは極稀に利用するのでそこだけは把握している。
とはいえ読みたい本があれば一诺が持って来てくれる為ナージャ自ら足を運ぶ事は本当に極稀で、年に一度あるかないかというくらいだが。
……最近は特に、部屋の外に出たくないです。
ナージャは飲み込まず、溜め息を吐いた。
普段なら過剰に心配される為溜め息などは飲み込むが、今は一诺と二人きりだから問題は無い。問題は、特待生であるリーリカだ。
……別に弟と仲が良いのも、勉強会をしにこの屋敷に来るのも、まあ、私一人の屋敷というわけでもないですし、どうせ一诺以外全員あまり得意じゃないから今更苦手な人が一人増えても変わりませんけど……。
しかしやはり苦手は苦手で、それは覆らない。
特にリーリカは駄目だった。弟であるカーナと共に、カーナの部屋で勉強会をする分には構わない。食事に参加していようと、元々自室で食事をしているナージャからすれば関係の無い事だ。関わってきたりさえしなければ、好きに行動すれば良いと思う。
なのにリーリカは、ナージャに接触してこようとするのだ。
……どうして毎回毎回、私に会おうとするんでしょう。
リーリカが勉強会でやってくる時は、休日以外だと丁度ナージャが寝ている時間でもある。
その為対応は一诺がしてくれるのだが、どうにも天敵同士なのか一诺が酷く不機嫌な様子になってしまう。ナージャ自身が寝ているのだから仕方ないとはいえ、申し訳ない。
……何せ彼女の目当て、私ですし。
本当に何故ああも好意的なのかわからない。
主人公だからと言えばそれまでなのかもしれないが、愛想笑いこそ浮かべはするが付き合いが良いわけでも無いというのに。攻略対象に接触するというならばともかく、何故登場人物でも無いような存在に絡みに来るのかとナージャは思う。
妹が気に入っていたゲームのパッケージくらいしか見た事が無いナージャは、自分がそのゲームのキーキャラクターである事に気付いていなかった。
……例え起きていたとしても、私が彼女に応対する事はありませんが……。
応対する事が無いと言うより、出来ない。
だって苦手だし、怖いのだ。ぐいぐい来る態度も圧も、そして大きな声も怖い。一诺もそれを理解しているからこそ、特待生がどれだけ言おうとナージャを出そうとしないのだろう。
ナージャはそう思い、安堵する。
……怖いのは、嫌です。
怖いというか、苦手が極まり過ぎて恐怖に近い。
好感度が上がるタイミングが皆無過ぎる。本当に、一诺がナージャの味方をしてくれて良かった。さもなければきっともっと酷い心労が募って、心が壊れていたかもしれないから。
そのくらい、ナージャはリーリカが苦手だった。
……仲良くないのに距離感が近いのも、急に動くのも、全部全部苦手です。
苦手なタイプオールコンプリートなのがリーリカだった。
尚両親もオールコンプリートタイプなので本当に困る。結果より一層一诺に頼ってしまい、負担を掛けているのではないかという不安が生まれる。
……もうちょっと自分で応対出来るようになって、あの特待生の相手も、私がやれるようになった方が、良いです、よね。
物凄く嫌だが、今はその嫌な事を一诺に押し付けているようなもの。
ナージャはリーリカを苦手としているが、一诺はそれ以上に酷い嫌悪を抱いている。それならまだ、一诺に比べれば比較的まだマシであるナージャが応対すべきだろう。
そう思い、ナージャは膝の上で開いているだけだった本に再び栞を挟んでパタンと閉じた。
「一诺」
「はい」
部屋の隅に座っていた一诺に声を掛ければ、一诺は目を緩く細めた笑みを浮かべてそう返す。
普通使用人は立ちっぱなしである事も多いが、それはナージャが無理だった。相手を立たせて自分は座るというのが、どうしても性に合わなくてもやもやしてしまう。落ち着くに落ち着けなくて、そわそわして、どうしようもない。
だからナージャはかつて、言ったのだ。
「あの、その、お仕事、無くて、二人きりで、待機してるだけの時間の時とか、その、椅子とかに座って、一緒に休んで、ください。わた、私、じゃないと、えと、んと、ごめんなさいって気持ちになっちゃうので、だから、休める時、あの、一緒、一緒に、休めると、嬉しいなって、その、思います」
まだ一诺に心を許したばかりの頃で酷くどもりながらの言葉だったが、一诺は根気強く聞いてくれた。当時の一诺は今のナージャよりも年下だっというのに、とても根気よく。
そんな昔を思い出しながら、ナージャは一诺に向かって口を開く。
「あの、今、私、考えて、思ったんですけど」
「はい、何でしょう」
微笑む一诺に、ナージャは言う。
「つ、次からはちゃんと、私があの特待生に応対します……!」
「駄目です」
晴れですよと言うようなさらっとした言い方で、けれどピシャリとした拒絶を感じる声だった。
「駄目です」
一诺は笑みを貼り付けたまま首を横に振り、再びそう言う。
「あれは有害です。流石に有害物質に人の形を与えたような滅びる以外に人類の益になる事は出来ないだろうゴミ程ではありませんが、それでもわざわざ接触する程の価値はありませんよ」
「わあ」
……何だか今、物凄い言葉が聞こえたような気がします……。
罵倒などにいまいち縁がないナージャにはよくわからなかったが、多分罵倒だろう。長々しいのと罵倒との縁がないのでいまいち聞き取れなかったが。
何せナージャ、前世では妹を育てる立場だったので、そういった事を言わないようにと育てて来たのだ。
そういった言葉を知って用いるようになると要らない火種が発生するし、そんな言葉を使用するような人間と関わっても火種が発生する。そう思っていた為、ナージャに罵倒系のスキルは無い。
当然ながらそれは、妹である紡にも罵倒スキルが無いという事になる。
「勿論、ナージャ様がそれを望むのであれば私は止めませんが……」
一诺は仮面のような笑みを止め、眉を顰めて心配そうにナージャを見つめた。
「正直に言って、止めた方が良いと思います。あれは接触しても百害あって一利なしの存在でしょう。他の人間からすれば益になるかもしれませんが、私達のような人間にとっては害でしかありません」
「ん、んん……」
……確かに、そうなんですよね。
ナージャは納得し、納得してしまった事に苦笑する。
だが事実だ。ナージャや一诺のように、静かな時間を好み一人の時間をそれなりに必要とするタイプ。気が乱れるのを嫌い、いつも通りを好むタイプ。そんなタイプからすれば、リーリカのようなタイプは嵐でしかないのだ。
音を溢れさせ気を搔き乱し誰かととにかく接触しようとするというタイプは、近くに居るだけで不快になる。
「そもそも、何故あれ程までに苦手としていたあれとわざわざ接触しようとなったのですか?」
「…………いつも、一诺に任せっきりでしたから」
「?」
よくわからないと言いたげに、一诺は首をわずかに傾げる。
……えへ、可愛いです。
そんな一诺を見て、ナージャの胸の奥がぽかぽかした。
他人からすればいまいち変化が無いのだろう表情。けれどナージャからすれば、それはとても雄弁だった。ナージャに対する時だけ表情豊かなのか、ナージャがそれだけ読み取れるようになっているからかはわからないが、とにかくわかる。
……一诺、他の人に対しては笑顔を貼り付けてる事が多いですから。
そう思うと、嬉しい。
ナージャと一緒の時の一诺の表情は笑顔だけでは無く、様々な表情を見せてくれる。それはまるで心を許してくれているという証明みたいで、何だか嬉しい気持ちになるのだ。
……それに。
あくまで使用人としてという前提があるとはいえ、一诺はナージャを大事にしてくれる。大事に扱うというのは使用人である以上当然だろうが、ちゃんと気遣ってくれるという部分は当然じゃない。
両親も他の使用人達もナージャの意をくみ取ってくれなかったからこそ、ナージャの中で一诺はとても大きい存在になっていた。
思い浮かべるだけでホッとして、心がぽかぽかする存在。子のような妹は知っているものの、親や恋人を知らないナージャからすると、その感情がどういうものなのかわからない。好意である事はわかるが、定義出来ない。
親のような存在を慕う親愛なのか、恋をしている恋愛なのか。
……でも、どっちでも良いですよね。
ナージャからすれば、一诺と一緒に居られる事の方が大事だ。
「一诺の負担になると思ったんです」
だから、負担になりたくなかった。
リーリカの相手はしたくないが、それは一诺だってしたくない事。やりたくないからと言って押し付けるというのは駄目だろう。例え嫌な気持ちになろうが精神が擦り切れようが、それは変わらないはずなのだ。
それなら、ナージャが応対出来ないという道理は無い。
「特待生が頻繁に来て、一诺にその応対を任せていて、それは、申し訳ないなって思ったんです。お互い彼女が得意じゃないの、わかってますから。一诺に任せてばっかりじゃなくて、私が出るようにすれば、もしかしたらそれだけで終わるかもしれませんし」
「ありません」
「え」
「あり得ません」
一诺はいつも通りにハイライトの入っていない目で、真顔になってそう断言した。
「あれは調子に乗る質でしょう。ナージャ様が一度出れば、また出せと騒ぐのが目に見えています。そしてナージャ様が応対するようになれば、この部屋に入り込み居座ろうともするでしょう。先輩であるナージャ様に教わりたいなどという理由をつけて」
「う……想像出来ちゃいます……」
……あの特待生ならやりそうですね……。
実際ナージャの教室に来た際、ナージャに対して似たような事を言った。当然ながら普通に断った結果、近くに居たラーザリとアデリナが前に出てくれた為その二人が勉強を教えるという形になっていたが。
ナージャからすればリーリカが同じ教室内に居るだけでも圧を感じたが、それでもあの二人が相手をしてくれているだけでかなり気が楽だった。
……で、あの二人ってどういうお名前でしたっけ。
どうにも名前が覚えられなくていけない。
「……でも、そうしたら、一诺に迷惑が掛かっちゃいます」
「迷惑を掛けているのはあの女であり、ナージャ様ではありません。そしてあの女による迷惑を被っているのは、ナージャ様もなのですよ」
椅子から立ち上がりナージャの方へとやってきた一诺は、荒れてこそいないものの家事をしているとわかる大きな手でナージャの頭を優しく撫でた。
「そう、私一人というわけではありません。迷惑というなら、ナージャ様だって被害者です。それもターゲットにされている被害者。ストーカー相手にストーキング対象を出すなど、ネズミの前に餌を置くようなもの。それだけはしてはいけません」
「な、成る程……」
その言葉はとてもわかりやすくて、ナージャはすんなりと納得する。
確かにリーリカの行動はとってもストーカー染みていた。ほぼ毎日会いに来て、弟経由とはいえ家まで押しかけてきている辺り相当だろう。恋愛ゲームの主人公というものは基本的に攻略対象をストーキングするものだとかつてバイト仲間に聞いた事はあったが、もしやそういう事なのだろうかとナージャは思う。
……そう思うと、確かに私が前に出るのは駄目ですね。何があるかわかりませんし……。
そもそも何故ストーキングされているのか、とナージャは思う。
自分がキーキャラクターである自覚が無いナージャからすれば、理解不能でしかないのだ。リーリカが主人公である事はわかっているからこそ、何故攻略対象ではないだろうナージャにしつこく声を掛けるのかがわからない。
それがまた不思議で、不審で、不気味だった。
「そしてそもそもですね」
「?」
一诺は少し不機嫌そうに眉間にシワを寄せながら言う。
「私はナージャ様に仕え、ナージャ様の為に動き働ける事がなによりも嬉しいんですよ。それ以上の幸いなど無いと思う程に」
その黒い瞳には相変わらず光が無いが、けれど同時に嘘も無い瞳だった。
「何があったとしても、ナージャ様が私を手放そうとしない限り、離れるつもりはありません」
「一诺……」
「あとナージャ様の傍に居るだけで回復するのであの女との言い合いで心労が募ろうとも問題ありません。その後ナージャ様と時間を共有する事が出来れば、それで俺は幸せなんです」
一诺は本心からそう思っているとわかる、とても優しい笑みを浮かべていた。
「……ん、んむ……」
その笑みを真正面から見たナージャはちょっと顔を俯かせ、両手で頬を覆って揉む。
「…………えへ、そんな嬉しい事を言って貰ったら、照れちゃいますね」
誤魔化そうとしても間に合わず、ナージャはへにゃりとした笑みを浮かべた。どうにか誤魔化そうと頬を揉むが、一诺の言葉に喜んでにへにへしている口角は中々下がってくれなくて困ってしまう。
もっともそれは、嫌な心地の「困る」では無かったが。
「でも、あの、でも、私いつも一诺に頼りっぱなしで、申し訳なくて……その」
「はい」
もごもごと口ごもるナージャを急かしたりせず、一诺は微笑みを浮かべて待ってくれた。その優しい細められ方の目と、急かす事のない空気。
それに安堵したナージャは、ぽそぽそとした声で告げる。
「……負担にならないようにって思って、あの、いつものハグとかも、止めた方が良い、ですか?」
……一诺、いつも「大きくなってからはあまりするものじゃありませんから、今の内にこうしなくても良いようになれると良いのですが」って言ってますし……。
ナージャの心が疲れた時、癒してもらう為のハグ。
けれど一诺はいつもそう言っているので、不本意な行いなのかもしれない。一诺が強い拒絶をしない事に甘えてナージャの回復を優先していたが、もし負担だったのであれば。
その時は潔く止めようと思いながら、ナージャはそう問い掛けた。
「…………、………………、………………」
一诺は驚いたように目を見開き、次に目を伏せ考え始め、最後に背を丸めぎぎぎという擬音が聞こえるような動きで小さくなった。
「…………負担、では、無いです」
そう言う一诺の耳は俯いているせいで髪に隠れて見えないが、長い襟足が重力に従いさらりと下に流れている。故にそこから覗く一诺の首が真っ赤になっているという事実が、ナージャからはよく見えた。
それはその言葉が嘘ではないという事の、何よりの証明と言えるだろう。
「……ナージャ様からすれば酷く不快な感情を抱くかもしれませんが」
「はい」
一诺の言葉を否定せず遮らず問い掛けもせず、ナージャはいつも一诺がしてくれるように相槌を打った。
「…………とても正直に言わせていただきますと、あの時間は私にとっての憩いの時間でもあるんです」
「そうなんですか?」
「はい」
顔を上げた一诺は、いつも通りだった。薄く微笑んでいる、いつも通りの表情。その顔色にも変化は無い。
けれど、耳と首は湯気が出そうな程に真っ赤になっていた。
「……その、具体的にどうしてそれが憩いの時間になっているのかについては三十路目前の歳である事などから少々黙秘をさせていただきますが」
「わかりました」
……好意を持つ相手とのハグは、ストレス軽減になるって言いますもんね。
一诺がナージャをとても大事にしてくれるのは、流石のナージャでもわかる。どれだけ自分を後回しにしがちなナージャでも、だ。
故にナージャは、そう思った。
……向こうが好意を持っててもこちらが好意を持っていない場合、例えば苦手な人……特待生とハグをする事になったら、きっと私は気絶しそうになる程「無理」という感情が溢れるでしょうが……。
一诺はそうではない。心の底から大好きな相手。それがどういう愛なのか定義は出来ないが、愛を抱いている事は確かなのだ。
故にこそ、一诺とのハグで心を安らがせる。
……えへ、でも、良かったです。一诺があの時間、嫌がってなくて。
十年以上の付き合いだからこそ、ナージャも一诺のある程度の感情は読み取れるようになっていた。憩いの時間というのが嘘でない事もハッキリとわかる。
それが嬉しくて、ナージャはまた少しだけへにゃりとした笑みを浮かべた。
「んと、その、あの」
「はい」
にやける顔を両手で覆い、止めるように揉みながらナージャは言う。
「……今、抱き締めてもらうのって、良いです、か?」
「……………………」
一诺はニッコリとした笑みを浮かべ、数秒程停止した。
「……念の為に言っておきますが、これは拒絶の無言では無く、己の中にある色々な葛藤による無言です」
「は、はあ、成る程……?」
……よくわかりませんが、拒絶されたわけじゃないなら良かったです。
長い無言にまさか本当は嫌なのではと思ったが、そういう事では無かったらしい。
……葛藤って、何かあるんでしょうか。
ナージャにその辺りはよくわからない。けれど一诺の中で葛藤があるというのなら、それが落ち着くまで待った方が良いだろう。
いつも一诺が、言葉に詰まるナージャをちゃんと待ってくれるように。
……んん、主と使用人がハグをするのはとか、年頃の乙女がこういった事をするのはってよく言ってますし、そういう系統の葛藤……なんでしょうか?
よくわからない、とナージャは首を傾げた。
「……ふぅ」
対する一诺は色々な葛藤をどうにか治めたらしく、力を抜いたように息を吐く。
「…………その、ですね」
「はい」
「私もナージャ様を抱き締め、触れ合い、確かにナージャ様が居るというのを感じる事が出来る時間はとても嬉しいものです」
「それ、んと、言って貰えたの、嬉しいです」
ナージャが笑みを浮かべながらそう告げると、一诺は一瞬虚を突かれたように目をパチクリさせた。一瞬口元を緩ませ、しかしすぐに真面目な表情へと変化する。
「ただ私はあくまで使用人の立場ですので、私から言う事は不可能。故に抱きしめたくとも抱き締めたいと言う事は無いのですが、先程の会話で少々そういった気持ちが無いわけでもなかった為」
「?」
「あー……」
むぐ、と一诺は口をもごもごさせた。
「……要するにですね、ナージャ様からそうやってお誘いいただける事がとても嬉しいという事です」
「あ、成る程!」
……一诺からだとハグのお願いが立場的に出来ないって意味だったんですね!
「あ、あの、あの、それじゃあ!」
でもそれなら、もしかしたらとナージャは期待に胸を弾ませて椅子に座ったままずいっと身を前に乗り出す。
「こ、これから、もっと沢山、その、ぎゅってしてもらいたいって思った時、限界じゃない時でも、そういう気持ちの時、あの、お願いとか、しても良い、ですか……!?」
「……!?」
一诺は一瞬目を見開いたかと思うと、すぐさま顔を背けた。手の甲で頬の汗を拭うようなポーズを取る事で顔を隠しているが、隠れていない耳の赤さから拒絶されていないのがわかる。
「…………」
無言で顔を背けたまま、一诺は口を何度かはくはくさせながらコクコクと頷いた。
「やったぁ!」
「っ、ナージャ様!?」
嬉しさのまま、ナージャは一诺に飛びつくように抱き着く。
膝の上に置いていた本は、立ち上がる時に椅子に置いた為落ちる心配もない。なのでナージャは許可を得る事が出来たからと、思いっきり抱き着いた。
……ずっと、こうやって思いっきり甘えてみたかったんです。
自分からどーんと行くのは、どうにも難しい。
どーんと来られて困っている身だからこそ、やれなかった。前世でもそうやって甘えていた記憶が塗り潰される程、妹の世話や自分の世話で精一杯だったのだ。
もっともそれは、そもそも甘える事が出来た期間がとても短かったからとも言えるだろうが。
……結局、私のこの感情って何なのでしょう。
愛ではある。
けれど親愛か恋愛かわからない。こうして思いっきり甘えたいというのは、親のような存在を求めてだろうか。それとも恋をしている相手だから甘えられるという、そういうものなのだろうか。
「…………ナージャ様」
考えていると、ふわり、と抱き締め返された。
「昔に比べて、大きくなりましたね」
抱き締められ、すり、と優しく頬擦りをされる。まるで親猫が子猫に頬擦りをするように。温かい温もりを、共有するかのように。
耳元で低いながらも穏やかな一诺の声に囁かれつつ、ナージャは思う。
……やっぱり、どっちの愛でも良いですよね。
今こうして抱き締められている事がとても嬉しくて幸せで、この素敵な時間がずっと続けば良いのにと願う気持ち。それは親愛でも恋愛でも、同じように抱くものだろう。
強く感じる一诺の温もり、香り、感触の全てがナージャの心に深い安堵を広げていった。
「細さは相変わらずですが……こうして今まで生きて、立派に育って、そして私と出会ってくれて」
ぎゅ、と痛く無い程度に、けれど強く抱き締められる。
「太谢谢你了」
日本語以外の東洋語に詳しくないナージャには理解出来なかったが、谢谢がありがとうという意味だという事は知っている。故に、恐らくは感謝の言葉で合っているはずだ。
「私こそ、ありがとうございます」
だからナージャも、そう告げた。
「一诺と出会えて、本当に幸せなんですよ」
その言葉に一诺は答えない。けれど体を震わせ、また少しだけ抱き締める力を強めていた。必然的に温もりが近くなり、香りがより深くなり、密着度が上がる。
ナージャは、それに再びへにゃりとした笑みを浮かべていた。




