一诺は救いに行く
ナージャを迎えに行く途中、橋に差し掛かる際に見えた姿に一诺は思いっきり嫌な顔を露わにした。
……厄介な。
橋の上では、リーリカが真ん中で仁王立ちしていた。真っ直ぐに一诺を睨みつけている姿からして、確実に一诺を待ち伏せしているという事だろう。
……この橋を抑えられたのは面倒だ。
リーリカと対面する事自体が面倒だし、何より向かい合いたくも無い程に嫌悪する相手。誰だって嫌いな虫など視界に入れたくもないように、見る事すらも嫌だった。
しかしこの橋を迂回するとなると、それなりの時間がマイナスとなる。
……ナージャ様を待たせるわけにもいかないし、その間に万が一があっても困る。
まるでとても詳しい存在に入れ知恵されたかのような発想だ、と一诺は思った。
一诺は常に様々な情報を仕入れている。それはもう、ロマーシカ魔法学校の事なら一生徒の成績から個人情報まで。授業の事なら時間割から担当教師の癖、その担当教師は時間通りに終わらせるか少し伸ばしてでもしっかりと授業をやり切るかなども把握している。
その為、目の前に居るリーリカがあまり良い成績では無い事だって知っている。
……例えカーナ様自身が招待し勉強会を開こうとなったとしても、ああも勉強会に身を入れずナージャ様に接触をしようとしている以上全力で拒絶をしたいところだが……。
勉強会でもしないと駄目だろうレベルで成績が悪いのもまた事実であるが故に、勉強会をする必要性があるとなる。つまり正当性が出てしまうのだ。本当に成績が悪いからこそ、止めろと言うには一诺側の正当性が足りない。
一诺が知っている情報からすると、どうにも今まで縁が無かったせいか魔法関係に関する知識が皆無に近いらしいのだ。
……ああまったく、本当に存在自体が疎ましい……!
そもそも何故ここに居るのか。何故一诺が通るだろう橋で待ち伏せているのか。まだ授業は終わっていないはずなのに何故居るのか。予知能力があるというだけで入学出来た特待生の癖にサボったのか。
そんな疑問が一诺の中で湧き上がる。
……サボった結果この女が退学になればこちらとしては好都合だが、どうせまた小賢しい手段を用いたのだろうな。
不愉快や嫌悪の感情を隠しもせず、しかし通らねばならない為に一诺はリーリカの顔を見ないようにしながら橋の端を渡ろうとした。
「待ちなさい」
「……何か御用でしょうか」
……面倒臭い。
呼び止められた事への不愉快さを隠す気は無いが、一诺はとりあえずで目を細めて笑みを作る。それは貴様と関わる気は無いんだとっとと去ね、と言わんばかりの笑みだった。
リーリカは眉間にシワを寄せ、険しい顔で一诺へと口を開く。
「アンタに話があるのよ」
「そうですか。私にはありません」
「アンタの意見なんかに興味無いわ」
その言い草に一诺は苛立った。
一诺とて暇では無いのだ。今は一刻も早く学校から離れ安らぎがある自室へと帰りたいだろうナージャを迎えに行くという、とても大事な仕事の最中。それを邪魔されているというだけでも不愉快極まりないというのに、相手は嫌悪の対象。天敵でしかないリーリカ。
ナージャを迎えに行くという事に弾んでいた一诺の心は、すっかりどん底レベルの不愉快さに満ちていた。
「アタシが聞きたいのは、アンタは何者なのって話よ」
「おや、そんな事ですか」
……その程度の事で、俺の時間を無駄な事に使わせるのか。
不愉快さを隠さないが完璧にニッコリしている笑みを浮かべ、一诺は答える。
「それは大変申し訳ありませんでした。まさか私がナージャ様付きの使用人である事すら理解出来ない程脳みそが足りていないとは思わなかったものでして。流石は予知能力だけで入学した特待生様ですね。頻繁に勉強会を開いていながらも成績はいまいち向上していないと伺っていましたが、そこまでとは。勉強に精を出さずナージャ様に余計なちょっかいを出そうとしているからその程度の事も理解出来ないような頭の作りになるのでは?」
「あ゛?」
機嫌の悪さそのままにつらつらと嫌味を述べれば、リーリカは愛らしい顔を険しくさせて低い声を出していた。
もっとも一诺にとって愛らしいのはナージャ一択なので、天敵でしかないリーリカの美醜などに興味は無い。誰だって嫌悪する虫が可愛い顔をしていようが醜い顔をしていようが存在自体がアウトだし、そもそも面など認識もしてないのだから。
そんな事で上書き出来る程、生温い嫌悪では無い。
「……あのね、アンタが使用人なのはわかってるわよ。酷く不愉快だし認められないし、事実じゃないとしても、嘘では無いわけだし」
「事実ですが」
「アタシが聞きたいのはそういう表じゃないの」
リーリカもまた苛立ちに目元をピクピクさせながら、一诺を睨みつける。
「アンタ、どこからの回し者?」
その言葉に一瞬、一诺は言葉を失った。
「……何の事を仰っているのかわかりませんが」
「本当に?」
リーリカは髪と同じピンク色の瞳で、一诺を射抜くかのように真っ直ぐと見る。
「お姉様の敵じゃないって、言い切れる?」
言い切れない。
……言い切れるものか。
自分が誰よりも信用ならなくて信頼に足らない存在だという事は、自分自身である一诺が一番よく知っている。
一诺は得意としている嘘でも本当でも無い言葉で誤魔化したかったが、それは出来なかった。先程までの嫌味は何だったのかというくらいに言葉が出なくて、喉がからからする。言葉が出なくて、歯を食い縛る事しか出来ない。
それ程までに、リーリカの目には確信があるのが見えたから。
「アタシはアンタを敵だと思ってる。アタシの敵でお姉様の敵。お姉様に悪影響しか及ぼさない悪」
「……随分な言いようだな」
最早敬語を使う気にもなれず、一诺は睨みつけるようにしてそう告げた。
……ああ、そうだ、そうだとも、俺は憧れの侠客にはなれない。どれだけ見た目を取り繕おうと、結局は。
もう刺客では無い。裏切っている。けれど誰もそれを知らない。知られていないという事は事実上刺客であるという事だ。勿論それを利用しているからこそという部分はあるが、それでも。
どうしてもそれは、一诺の中に負い目として存在している。
悪影響とて、どうして悪影響など与えていないと言い切れようか。それも結局は個人差がある杓子でしかない。物差しの長さは人それぞれ違うのだ。故に一诺がナージャの為と想っての行動でも、その結果ナージャに悪影響を与えている可能性はある。
悪影響では無いなど、一体誰が言い切れるのだろう。
人付き合いを苦手としているからこそ、それを無理に克服させるのではなく人付き合いをしなくて済むように整えた。それはナージャにとても感謝されたし、今でもそれを維持しているからこそナージャは心の安定を保てている。けれどそれは本当にそうなのか。結果的にそう思えるだけじゃないのか。いっそ荒療治で克服させるという本家当主達の手法の方が、後々を考えると良いのではないか。
そういった気持ちは、いつだって一诺の腹の中でぐるぐると渦巻いていた。
……うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……!
耳に痛いリーリカの言葉に、自分の中で渦巻く言葉。
それらから逃れようと耳を塞ぎたくなるが、目の前にはまだ忌まわしきリーリカが居る。天敵を前にして動揺した姿を見せてはいけない。一诺がまだ事実上刺客という位置に収まっているのは、ナージャを守る為のもの。
ここでリーリカに一诺が刺客だという確証を与えてしまえば、きっともっと拗れていくだろう。
……崩させは、しない。
今の全てを崩させはしない。一诺はそう強く思い、意識と平静を保つ。
キリキリカチャカチャ。
少し離れたところにある町の時計の歯車の音がやたらと響いて聞こえて来る。まるで舞台が静まっている時、観衆達がひそひそと感想を言い合っている時のように。
それがまた、酷いプレッシャーとして一诺に襲い掛かっていた。
「あら、本性出したの?」
「貴様相手に敬う言葉を用いる理由が無い。上っ面ですらもな」
リーリカの言葉に、一诺はそう返した。
「無駄話に時間を潰す気は無いんだ」
「あらそう、でもアタシからすれば無駄じゃないわ。親愛なるお姉様の為にも、アンタが清廉潔白であるかどうかは重要よ。そうじゃないなら許さないし許せない。そんな人間がお姉様の側に居る事が、許せると思うの?」
……許せるはずが、無いだろう。
そんなもの、一诺こそが一番誰よりも許せない。
自分が清廉潔白とは言い張れないと理解しているからこそ、自分の存在が認められない。そんな事はわかっている。ずっとずっと知っている。自分は許されないと思いながらもナージャの微笑み一つでああ彼女の傍に居て良かったと心が安らぎ、しかし自分の立場を思い出してまた許されないという気持ちに陥るのだ。
酷く申し訳なくて後悔に満ちていて、けれどナージャの微笑みを見る度にその重みを忘れ、直後にその負い目を忘れていた自分の浅はかさに嫌悪する。
……俺は、自分の事しか考えていない。
それが酷く苦しくて仕方が無い。
ナージャの為を本当に想うのであれば、自分のような存在は早くに居なくなった方が良いとずっとずっと思っているのに。わかっているのに。どうしても名前を呼んで貰いたくて、必要とされたくて、微笑みかけて貰いたくて。
全てはナージャの為と言いながら自分が得る事を優先している自分に、反吐が出た。
「俺としては貴様の方こそ本当に清廉潔白と言えるのかが疑問だが」
けれどそれでも、一诺は平静を装ってそう告げる。
腹の中でぐるぐるしている自己否定や自己嫌悪などの葛藤を抑え込み、湧き上がるリーリカへの嫌悪を表に出す事でどうにか装っていた。その怒りも嫌悪もまた本物であるが故に、それらは真実として映るだろう。
一诺の内側で自己嫌悪の嵐が吹き荒れているとは、わかるまい。
「アタシは清廉潔白よ」
リーリカは仁王立ちのまま胸を張り、そうハッキリと言い切った。
「お姉様への最早崇拝に近い感情しか無いわ」
「ハ、随分と押しつけがましい崇拝のようだがな。前に言わなかったか?貴様がしつこく付き纏うせいでナージャ様が辟易していると」
「どこかからの刺客かも知れない不審の権化みたいな誰かの言葉じゃ信用性が無さ過ぎるのよね。お前に言われてはいそうですかと納得出来るわけないでしょ」
「……ふぅぅぅぅぅ……!」
否定するに出来ない、けれど貴様に言われたくはないという感情があふれ出るその言葉に、一诺は深く深く息を吐いて自分を抑え込んだ。まるで獣の威嚇のような音だったが、それ程の敵意が込められているのだからさもありなん。
……しかし、ここで足止めを食らっていても仕方が無い……。
いい加減にこの話を終わらせなくては。
あまりにも思考が渦巻いていたのでロマーシカ魔法学校の鐘の音は一诺の耳には届かなかったが、遠くに見える町の時計を見るにもう授業は終わっている。ナージャを待たせ、誰かに絡まれ心労を募らせるような状況を作るわけにはいかないのだ。
「貴様、いい加減に無意味な水掛け論をするような時間は俺には……」
その瞬間、ナージャに異変が発生した事がチョーカーに付与した追跡魔法越しに伝わって来た。
「っ!?」
意識無し。接触あり。複数人。既に把握済みの教師や生徒の反応では無い。運ばれている。連れ去られている。雑な馬車に乗り込んだ。魔法を封じるのだろう拘束具がナージャの手首と足首に装備される。
それらの情報が、チョーカーから得られる周辺の様子から察知出来た。
「……ナージャ様……!」
「は?あっ、ちょっと!」
最早目の前の虫に構っている暇など無い。
そう判断し、一诺は端の縁に飛び乗って走り向こう側へと着地する。向かう方向ならばチョーカーから得られる情報から察知可能だ。それは馬車という乗り物の中だろうと、問題無い。
……ただ気絶させられただけのようだが……!
下衆の、そして外道の場合はナージャに手を出さないとも限らない。一刻も早く駆け付けなくては。もし万が一があれば。例え万が一が無かったとしてもナージャにトラウマが出来たらと思うだけで、ゾッとする。
……しかもこんな、虫に足止めを食らったせいという不快極まりない理由で……!
「敵前逃亡する気!?」
「黙れ足止め!貴様が時間を奪ったせいだろうが!」
「っ!?」
一诺はギリリと歯噛みしながらそう叫び、即座に素早い動きでナージャが連れて行かれた方へと走り出した。
振り返りはしない。振り返る必要も無い。そんな無駄な事に時間を使う気は無いのだ。
……ナージャ様……!
色々と聞かれたくない事もあるだろうという事で、普段は発動していない追跡魔法の音声部分を発動させる。
これは要するに盗聴するというものだ。年頃の乙女であるナージャの所在や状態を把握するだけでは飽き足らず盗聴までというのは、いくら安全の為とはいえ気が進まない。故に一诺は常にそれをオフにしていたが、今は発動する時だ。
そうでないと、ナージャが無事かどうかわからない。
「……どうやらしばらくは大人しくしてくれているようだな」
「……ああ」
「……しかし随分と良いカラダしてるじゃねえか」
「……手は出すなよ」
「……どうせ手を出す予定なんだろ?なら味見くらい……」
「……お前は食いかけを出されても良いと?」
「……チッ」
チョーカーから聞こえたのはそんな声。
ナージャの近くに居た気配が去って行き、扉の音とカギの音がしたのがわかる。ナージャはまだ気絶しているのか横になっているままだ。
……手は出されてこそいないらしいが……。
聞こえた会話からして、恐らく時間の問題だろう。
というよりもこれはいつも通り、分家が放った刺客で間違い無い。それらは全て一诺がナージャからの信頼を盤石のものとする為ですと言い張って潰しているが、分家当主としてはあわよくば上手く行ってそのままを期待しているのだろう。
一诺が信頼されるも良し、分家当主の手にナージャが回るも良し、と。
……ああまったく、反吐が出る!
長い襟足をなびかせながら、一诺は可能な限り速く駆けていた。
・
ナージャが誘拐された倉庫に到着すれば、分家周辺で目撃されていたチンピラ達が屯していた。分家が管理している倉庫の内の一つである事からしても、分家の関係者で間違い無いだろう。
「よう、従者サマ」
「今日は随分と遅い到着で助かったぜ」
「ようやくお嬢様を連れ去れたからな」
にやにやと下卑た笑みを浮かべるチンピラ連中に対し、一诺は舌打ちをした。
……あの女が俺の移動経路を把握しあのタイミングで待ち伏せしていたのは、コイツらにそそのかされたからか……?
その可能性が高いように思えたが、どうでも良い。そんな事は些細な事だ。全てはナージャが無事かどうか。その心に安らぎはあるか。
それ以外など、全て塵芥でしかないのだから。
「しかし、一人で来るとは俺達も舐められたもんだ」
「今まで迎撃し続けてたからっていい気になってんじゃねーぞ」
「それとも、ここで一人で助け出す事で好感度アップでも狙うってか?」
「ああ、あのお嬢様はそりゃあもう可愛らしい顔に、それに似合わないカラダをしてたしなぁ」
「さぞや可愛がりがあるんだろうよ」
「幼い頃から、あのお嬢様にどんないやらしい事を仕込めばあんなカラダに育つんだ?なあ、おい」
……口を利く価値も無い。
そう判断し、一诺は据わった目をより一層きつく細めた。
「……そういえば、お前」
ふと、年長者らしい男が言う。
「その東洋人らしい面、分家で見たな」
……よし、仕留めよう。
キュッと瞳孔が開いたのが一诺自身にもよくわかった。
かつて分家に居た頃か、報告をする際の事か、どちらの事を指しているかはわからない。しかしここでぶちのめせば、駆け付けた誰かにそれを言ったとしても負け犬の戯言という事になる。腹いせの虚言でしかないという事に。
「もし」
「あ?」
「もし俺の大事なナージャ様に少しでも手を出したと言うのであれば、生きてここから帰しはしない」
「ハッ」
完全に目が据わっている一诺の喉から放たれた低い声でのその言葉を、チンピラ達は鼻で笑った。
「出来るもんなら、ッグァ!?」
一诺が一歩を踏み出し肩による体当たりを食らわせた結果、チンピラの内一人が吹っ飛んだ。閉じられた倉庫の扉にぶち当たり、大きな音を立てて地面へと沈み込む。
……奶奶、太谢谢你了。
昔祖母が教えてくれた動きを、一诺はしっかりと覚えていた。ずっと繰り返しやって来た。身を守る為であり、芸があれば食べていけるという事でもあり、唯一の肉親であった祖母が教えてくれた事だから。
流石に体が出来てからという事だった槍は教わる前に祖母が亡くなり、そもそも祖母が存命の頃に槍は売り払ってしまっていたので、それは扱い方を知らないが。
けれど己の身で戦う事は出来る。そのお陰でナージャを守る護衛であれる。その術を教えてくれた祖母に深い感謝を捧げながら、一诺は動いた。
「って、めぇっ!」
腕を掴んで捻り、顎に掌底。そこらに転がす。
背後から襲い掛かって来た巨漢はそのまま背中で体当たりをして弾き飛ばした。
「……ナージャ様」
呻くチンピラ連中を転がしたまま、一诺はナージャが目覚めた事を察知した。酷く恐怖し、怯え、震えている事も。
即座に一诺は肘打ちで倉庫のシャッターを破壊した。
……いけない、怯えさせてしまった。
中で驚いているチンピラ達はどうでも良い。しかしチョーカーから感じるナージャの気配は、突然の轟音に怯えていた。すぐに駆け付け謝罪し、もう大丈夫だと安堵させなくては。
そう思い、一诺は向かってくる男達に対し再び一歩を踏み出した。
・
転がっている男の内一人の胸倉を掴んで持ち上げ、ナージャの居場所を吐かせる。
場所自体はナージャが身につけているチョーカーから把握出来ているが、念の為だ。それに何故居場所がわかるのかとチョーカーの事に気付かれれば、今後まずチョーカーを奪われるという危険性もある。そう思うと、可能な限りこの場に居るヤツに聞いて気付いたというていを取るべきだろう。
邪魔臭くはあるものの威嚇になるので男の胸倉を掴んだまま引きずり、襲い来る邪魔なチンピラ達を転がしていく。
……防御は攻撃される一瞬で力を込めて、かつ攻撃に転じれば良い。そう思うとこれは本当に邪魔臭いな。失敗だったか。
防御や攻撃に使うにもぐったりしていてあまり使い勝手が良いとは言えないそれを引きずり、言われた場所へと向かう。
一诺がここまで来た事に気付いた見張りが身構え、油断を無くし魔法を放とうとするもそれより早くに踏み込んで懐に入る。そのまま鼻の下の位置に掌底を放てば、その見張りは吹っ飛んだ。
周囲を見渡し追跡魔法の応用で隠れている敵が居ない事を把握して、一诺は扉の中へと呼びかける。
「ナージャ様!」
「一诺!?」
声には多少なりとも明るさがあり、チョーカーから感じるナージャの様子は安堵を得ているようだった。けれど先程まで怯えていたのも事実なので、悠長にもしていられない。
……チッ、碍事的。
邪魔臭いものが扉にあるのを見つけ、一诺は扉をゴンと叩いた。
扉には外から南京錠が掛けられている為、追跡魔法で今からカギを探すのは無駄に時間が掛かってしまう。そう判断し、すぐさま一诺は扉を壊す事に決めた。
「ナージャ様、少々荒っぽく扉を破りますので、可能な限り扉から距離を取って直線状には居ないようにしてください!」
「はい!」
ナージャが中でゆっくりとだが確かに部屋の隅へと移動したのがチョーカーの魔法越しに伝わってくる。
「大丈夫です!」
「では、失礼!」
一诺は踏み込み、肩による体当たりで扉を破った。南京錠どころか蝶番が壊れた扉は、そのまま他のチンピラ同様に直線状で吹っ飛ぶ。
「ご無事ですか、ナージャ様!」
無事なのはチョーカーからの情報でわかっていた。
わかっているが、それで焦らないわけでは無い。一诺にとって世界に等しいナージャにもしもがあれば。そう考えるだけで、酷く嫌な汗が垂れ落ちる。
「一诺!」
中で座り込んでいるナージャを見れば、ナージャはその青い瞳からボロボロと涙を流していた。その姿を見て、一诺は息を呑む。
……しまった。
ナージャは大声や大きな音を嫌い、当然ながら暴力なども嫌っている事は誰よりも知っていたはずなのに。
「一诺、一诺、一诺……!」
その涙に、恐怖を抱かせてしまったと一诺の背に冷たいものが落ちる。
下卑た奴らに気絶させられ誘拐され、怖かっただろうに。そんな中で突然の轟音に、悲鳴に、そして暴力。それらは一诺によるものだ。いくら焦っていたとはいえ、挙句に大声を上げたり扉の破壊。
……嫌われたくない。
けれど無理だろう。
酷く怯えさせてしまった。足止めがあったとはいえ誘拐を許してしまった。否、足止めがあったとはいえという思考に至る事自体が最早逃げと言える。本当に優れているのであれば、そういった状況であろうとも誘拐出来ないよう策を講じるべきだった。
ナージャに嫌われたかもしれないと思うだけで、一诺の頭はくらくらした。
頭が真っ暗になって、血の気が引いて、目や喉が酷く乾燥して、視界が揺らぐ。呼吸が浅くて、息が苦しい。世界とも言える、一诺の全てとも言えるナージャからの拒絶。
それは海の底へと落とされて、息が出来ずにもがき苦しむかのような心地だった。
「……ナージャ様、失礼致します」
回復されても困るので左手に持っていたままの男の胸倉をグイッとやって首に圧迫をかけてから、その辺へと放り投げる。泡を吹いているようだったが、死んではいないから大丈夫だろう。仰向けでも無く横向きに転がっているので泡で窒息死はすまい。
全てを他人事のように把握する冷静な部分でそう判断しつつ、一诺はナージャに近付いて跪く。
「今拘束を解きますので」
気を抜けば、今すぐにでも縋りたくなる。
お願いだから捨てないで欲しいと。嫌わないでくれと。あなたが望むならあなたが望む限りの全てをやってみせるからと。そんな見るに堪えない縋り方をしそうになるのを、必死で耐えた。
……これは、魔力錠か。
ナージャの手首につけられていた拘束具はカギが無く、魔力で操作し開けるもの。しかしこの程度の魔力錠であれば、追跡魔法の応用で何かを把握する事に長けている一诺にとっては何の障害でも無い。
中の型を把握して、その通りに魔力を操作すればすぐに外れた。
……!
外れたナージャの手首を見て、一诺は己の至らなさにくしゃりと表情を歪める。
「……申し訳ありません。私が迎えに遅れたせいで、ナージャ様の手首にこのような……」
その白く美しい手首には、赤い痕が出来ていた。謝って許されるものではない。折角の肌に傷がつき、その上既に一诺は嫌われたはず。そう思うともう、死にそうだった。泣きそうだった。許される気がしない。ギリギリと内臓が締め付けられているような気がして、足元がぐらぐらした。
リーリカによって動揺していた一诺の心が、自分はただの役立たずだと叫んでくる。
「一诺……!」
「!?」
けれど、ナージャは一诺の胸の中へと飛び込んできた。
ナージャは自由になった腕を一诺の背に回し、しっかりと抱き締める。もう二度と触れ合う事は無いのだろうと思っていた温もりに、一诺の頭の中に犇めいていたマイナスの思考が一瞬にして遠くへと吹っ飛んでいく。
「こわ、怖くて、起きた、起きたら、ここで!」
カタカタと震えながら、ナージャは必死に一诺の上着を握り締めていた。それはまるで、先程までの一诺がしそうだったように。縋るように。
ナージャの青い瞳からは尚もボロボロと涙が零れ落ちている。
……俺は、駄目な従者だな。
ふっと一诺は目元を緩ませ、そう思う。必要とされた事に心が安堵し、ナージャが泣いている事にも安堵していた。
そもそも主が泣かないでいられるようにするのが一诺の仕事。
なのにナージャの涙に安堵する。それは人間的にも良いとは言えない感情だろう。けれど自分の中に抑え込んで泣く事すらしようとしなかった昔のナージャを知っている身として、一诺はナージャの涙に安堵せざるを得なかった。
「一诺、居なくて、校門前にも居なくて、それで、誘拐されて、だから、一诺、一诺に、なに、何か、う、あ、あったんじゃ、ない、かって!あと、あと、怖くて、怖くて、心配で、不安で、ず、ずっと、ふ、ずっと……!」
「……ナージャ様」
ナージャは必死で言葉を紡いでいた。
自分がどんな気持ちだったか。どれだけ一诺を心配していたか。それらがよく伝わってくる。
……ナージャ様は、抱いた恐怖と同じくらいに俺の心配をしてくれていたのか。
申し訳ないという気持ちと、心配してもらえたという喜びが一诺の中に発生する。相反するそれは、何とも不思議な心地だった。
「だ、だか、だから……!」
ひっ、ひっ、としゃくりあげながら、ナージャは言う。
「一诺、無事で、それで、たす、助けに来てくれて、嬉しくて、安心で、よか、良かったってなって、うえ、あの、あの、ありがとう、ございます……!」
ナージャは一诺の胸に額を押し付けているので、一诺からその表情は窺えない。
けれどナージャは嘘を言うタイプでは無い。基本的に本当の事だけを言っている。そして他人を観察する癖のある一诺からしても、本音の声色に聞こえた。
……ただ俺がそう思いたいと、自分に都合の良い解釈をしてそう聞こえていると錯覚しているだけという可能性もあるが……。
それでも、その言葉で救われる。リーリカとの言い合いによって酷く搔き乱されていた心の内が、ようやく落ち着いた気がした。
「……ナージャ様」
「ひっ、う、あい……!」
「いえ、そのままで構いませんよ」
顔を上げる為に泣き止もうとするナージャの頭に手を置いて、そう告げる。
左腕で抱き締めるようにナージャの腰に回せば、その細い腰は簡単にホールド出来た。ナージャはそれを拒絶する様子も無く、寧ろ安堵したように吐息を漏らす。他人との接触は服が擦れ合う事すらも嫌がるナージャが一诺に対してだけはこうして心を許してくれるというその事実は、一诺を自惚れさせるには充分だった。
それが自惚れでは無いと思う思考回路は、一诺には存在していない。
「……ナージャ様は、恐ろしくはありませんでしたか?」
「?えと、ずっと、その、怖かった、です。でも、チョーカーがありました、から」
ぐり、と胸にナージャの頭が擦り付けられる。
「一诺、来てくれるって信じてました。だから、怖くて、凄く怖かったですけど、冷静でも居られましたよ」
「…………」
自分は信頼に足るとも、信用出来る存在だとも思えない。
一诺はいつだって自分の事をそう思っている。そう認識している。これ以上無い程に信用ならない存在だと。それでも、一诺が感じている負い目を知らないとはいえナージャは絶対の信頼を寄せてくれる。
その事実に一诺はニヤけそうになる顔を抑え込み、おかしな表情になっていた。
「……それは大変嬉しいのですが、そうではなく」
「?」
息を吸って吐き、一诺は喜びによる浮ついた気分を落ち着かせる。だってこれは、そんな気分では聞けないものだから。
腹を括って、一诺は口を開いた。
「私が恐ろしくはありませんでしたか?」
一诺の言葉に、ナージャはピタリと泣き止んできょとんとした表情になる。生憎とその顔は一诺の胸に埋められていた為、一诺からは見えなかったが。
「……えと、それは、どういう?」
「暴力、破壊、大声。どれもナージャ様が厭うものでしょう」
それを一诺は、よく知っている。
「もし、ナージャ様に恐れられたらと思うと」
「恐れませんよ」
「!」
「恐れません」
自分の意見は自分の意見でしかないからと言って、ナージャは普段あまり断言をしない。
そのナージャが断言した。しかも基本的に言葉を構成する為に返事をするにはシンキングタイムを設ける必要があるのがナージャだというのに、そのシンキングタイムすらも無かった。
ナージャはハッキリとした声で、言い切っていた。
「どれも、一诺がしたくてやった事じゃないですから。全部私を守ろうとして、私を取り戻そうとした、私の為のものでした。そもそも私が校門から出なければこうはならなかったんですから、一诺が気にするような事は」
「気にします」
……全部、俺のせいだ。
もっとやりようがあった。
足止めを食らったって遠回りをすれば良かった。まともに取り合わず無視して横を通り過ぎれば良かった。一诺が遅れても学校の敷地内で待機するよう言えば良かった。いっそ分家への報告の際、もう少し言いようがあったんじゃないか。そうすれば、こうやって誘拐されるような事は。
後悔が津波のように一诺へと襲い掛かり、黒い瞳からじわりと涙が零れ落ちそうになっていた。
「そもそもと言えば、そもそも私が遅れなければ良かっただけの事。思いもよらぬしつこい足止めがあったとはいえ、その結果ナージャ様をこのような目に遭わせてしまうなど……」
「今助かったから、良いんです」
本当にそう思っているとわかる、リラックスしている時の声。
まだ倉庫内だというのに、ナージャは完全に気を緩めていた。触れている体の力が抜けているのもよくわかる。一诺が相手だからこそ強い安堵を得ているのだろうと思うと胸が温もりに締め付けられるようで、けれどそれは自惚れだろうと冷静な部分が囁いてきた。
確かにその通りだと思い、一诺は自分の感情を落ち着けさせる。
「でも」
眠気を感じている時と同じような声色で、ナージャは言う。
「一诺が足止めされるなんて、怖い人が足止めに行ったんですね……」
「……いえ、あれはまったく無関係な足止め、どころか向こうからすればそのつもりは忌々しい事に皆無だったのでしょうが……」
……その結果がこれというのが許しがたい。やはりアレは瘟神か……。
そう思っていると、一诺が抱き締めていたナージャの重みがぐんと増した。
「……眠っている、だけだな」
それに安堵しつつ、無理も無いと一诺は思う。
……ただでさえ苦手とする学校の後に誘拐されたんだ。
普段から学校終わりに自室に戻るとすぐ眠りに落ちるからこそ意識も限界だったんだろう、と一诺はナージャの頭を優しく撫でた。
「そういえば、まだ足の拘束は解除していなかったな」
忘れていた足首の拘束具も解除してそこらに放り投げ、ナージャを抱き上げる。
「早く帰るとしよう」
そう言って、一诺は歩き出した。途中転がっているチンピラの中に居る、抵抗出来そうなくらいに回復している奴らの背を踏みつけながら。
そして倉庫から出て早々視界に入って来た存在に、一诺は一瞬にして機嫌が最下層まで落ちる。
「…………何をしている」
そこにはリーリカとカーナ、そしてナージャとの接触禁止が出されているはずのヴァレーラにラヴィルと、先日ナージャに声を掛けていたゴーシャの合計五名が居た。
……そもそも、何故カーナ様とその二人が共に居るのか。
ヴァレーラとラヴィルが接触禁止になっているのはノヴィコヴァ家の本家が対象。つまりカーナだってその対象のはず。校内であるならばともかく、外でまで共に行動というのはいただけない。他人が見たら、接触禁止が解かれたのかという誤解に繋がりかねない行動だ。
腕の中にあるナージャの存在以外機嫌を損ねる理由しかないその現状に、一诺は苛立ちを隠せなかった。
「ここは学生が遠足に来るような場所では無いはずですが」
どうにか取り繕おうとしても、表情までは取り繕えない程に不愉快さが湧いて出る。
「あ、アタシ達はお姉様を助けに!」
その言葉に誰のせいでこうなったと思っているんだという感情が、ぶわりと堰を切ったように溢れる。
「邪魔臭い遅いそもそも貴様が足止めしたせいでこうなったんだろうナージャ様に余計な心労を掛けさせるなと何度言えばわかる蠢材!」
叫び、一诺はギロリとリーリカ達を睨みつけた。
「そもそも、何だこのメンバーは。ナージャ様の弟であるカーナ様とパトソールニチニク魔法学校の生徒らしきそこのゴーシャ・ボーンは構わない」
跡継ぎでもあるカーナが来るのはいただけないが、しかし親族というだけで来る理由には充分だろう。それを否定する気は無い。ゴーシャに関しても似たようなものだ。親族では無いにしろ、特に確執があるわけでも無い相手。疑問符を浮かべるような表情からしても、ただ巻き込まれただけなのがよくわかる。
流石に巻き込まれただけの存在を糾弾する程、一诺は浅はかでは無いつもりだ。
……だが、だが!
「しかし俺を足止めした貴様に接触禁止を言い渡されているはずの二名が居るという事が理解出来ん」
「ラヴィル先輩が家で聞いた事をアタシ達に教えてくれたからアタシ達は駆け付ける事が出来たのよ!ヴァレーラ先輩だってお姉様を一緒に助けようとしてくれて」
「間に合っていない駆け付けに何の意味がある」
耳障りでしかないリーリカの声と言葉に腹の底を煮立たせながら、一诺はそう言い放った。
「大体、そこの分家の三男が教えてくれた?つまり知っていたという事だろう。事前に伝える事はしなかったのか。事が起きてから報告したのか。そもそも貴様の親が当主である分家の関係者がここに転がっている奴らだ。本家羨ましさという勝手な理由で、ナージャ様をこんな目に遭わせたのは貴様の責任だろう」
「ぼ、僕?」
首を傾げるラヴィルを見て、リーリカは噛み付くように言う。
「ラヴィル先輩は関係ないじゃない!」
「分家という関係以上に関係ある存在が居ると?」
……主犯が分家である以上、三男にも当然ながら責任があるに決まっているだろうが……!
知っていた以上ラヴィルが事前に何か行動をしていれば、ナージャは誘拐されなかったかもしれない。怖い思いをせずに済んだかもしれない。手首足首に痕をつけなくて済んだかもしれない。
そんなかもしれないを考えると、八つ当たりだとは自覚していても苛立ちが溢れて止まらなくなる。
「待て貴様!」
かつてに比べてすっかり声変わりが済んだらしい、けれど当時と変わらない赤く長いマフラーを装備しているヴァレーラが前に出て来た。その存在を認識するだけで、不快指数がぐんぐん上がる。
「そこのラヴィル・ノヴィコヴァは確かに分家だが、ラヴィル・ノヴィコヴァがやらせたわけじゃないだろうが!」
「黙れ接触禁止。俺は貴様がナージャ様のぬいぐるみを取り上げ泣かせた事を忘れはしない」
正義面している男に対する怒りで首筋に血管を浮かび上がらせながら、苛立ちを露わにして一诺は言う。
「大方貴様はここで助ける事であわよくば好印象、もしくは対価として接触禁止を取り下げさせようとしたのだろうが、そんな事があり得ると思うのか。貴様が許される事などありはしない」
完全なる拒絶としてそう言い放てば、ヴァレーラはしおしおしながらゴーシャの背後へと戻って行った。
「……とにかく、今はナージャ様の保護が最優先だ。そこを退け」
邪魔な位置に居るリーリカに、一诺はそう告げる。
「ナージャ様が誘拐されたという事実を今の俺は許せそうにない。誘拐の関係者である分家三男も、そして誘拐される原因である俺の足止めをしたそこの貴様もだ」
「リーリカよこの野郎」
「貴様の名に興味は無い。貴様に名を呼ばれる気もない」
「それは同意見だけど、分家という関係以上に関係ある存在が、って言ったわよね?」
「だからどうした」
「ならアンタも分家の関係者じゃないの?」
「…………随分と、不愉快な事を言う女だな」
……黙れ、黙れ、黙れ……!
「そこの男が、アンタの事を分家の犬って言ってたわよ?」
「ハッ!」
得意げに言うリーリカを、一诺は鼻で笑った。
……ああ、そうだろう。貴様はそう言うだろうと思っていた。
それもあるからこそ、叩き潰したのだ。
リーリカの確信っぷりから恐らく誰かから一诺が分家の刺客だと聞いたのだろう。けれどもしその証拠があればもっと堂々と、どころか先に本家当主辺りにリークするだろう性格を考えると恐らく証拠は有していない。
足止めをしていた事からしてもここに転がっているチンピラ連中に吹き込まれ利用されたのだろうと思いながら、利用されナージャを慕うと言う口でナージャを危険な目に遭わせたその浅はかさが不愉快だった。
嫌悪。憎悪。天敵。不倶戴天の敵。相容れない存在。水と油。虫。
一诺にとって、リーリカとはそのくらい不愉快な相手でしかない。
「苦し紛れの腹いせとして、情報操作として言ったのだろう言葉に踊らされるとは随分と頭が足りないらしい」
……そう、既に叩き潰してさえおけば、それはただの虚言という扱いに出来る。
「頻繁にナージャ様に会おうとして勉強会などという小賢しい真似をしておきながら中々成績が上がらないだけはある地頭の悪さだ」
「なっ、むぐっ!?」
言い返そうとしたリーリカは、背後から伸びたカーナの手によってその口を塞がれた。
「リーリカ、今のは確証無しに言ったリーリカの負け」
「むー!」
抑え込まれているリーリカの目はまだ負けていないと雄弁に語っている程に、一诺への敵意に満ちていた。その目がまた、一诺の内心を荒立たせる。
「良いからいい加減に、そこを退け。道を開けろ」
苛立ちのまま、強い口調で一诺はそう言い放った。
「俺は酷く不愉快だ。貴様のせいでナージャ様が誘拐される原因が出来た事、今回は無事でも二度目無事で済むかわからない事、そして貴様らが遅れている癖に正義面して来た事が、酷く不愉快極まりない」
気をつけなければすぐにナージャの肩に酷い痣を作りそうな程、手に力がこもりそうだった。
何かにぶつけなくてはと思うくらいに酷く苛立つ。今すぐにでもその頭を殴りたいと思う程に嫌悪しか湧かない。けれど、ただでさえ綺麗とは言えないのに、汚らわしさまで増えた手でナージャに触れるわけにはいかない。
……そして、それをナージャ様に向けるわけにもいかないな。
そう思って、一诺は必死に耐える。怒りのままに腕の中で安らかに眠っているナージャの肩や足を、触れている手が強い力で握り潰しそうでも。そんな事などあってはいけないから。
指の筋肉がビキビキ言っている事に気付きながらも、一诺は耐えていた。
「三度目だ」
これ以上は耐えられないと思いつつ、一诺は低い低い声で言う。
「退け」
邪魔な位置に立っていたリーリカは、抑え込んでいるカーナによって退かされた。
・
夜。
ナージャにねだられたので一诺はベッドに座り、膝の上にナージャを座らせる。少しの間そうしていれば、ナージャは安堵の息を吐いた。
「……一诺、今日は本当にありがとうございました」
「いえ。元はと言えば私が間に合わず、ナージャ様に心配を掛けさせてしまったせいですから。礼を言われるような事など、何もありません」
……そう、叱られる理由はあるが、礼を言われるような事などありはしない。
「んと、それだけじゃなくて」
「?」
どういう意味だろうと一诺が首を傾げると、ナージャは言いにくそうにもごもごしながら口を開く。
「帰って来てから、お父様とお母様が、その、心配してくれているのをこう言うのもあれなんですけど、ちょっと、どころじゃないくらいには……しつこかったじゃないですか」
「ふはっ」
凄まじい言い草に、けれど事実でしかないその言葉に、一诺は思わず吹き出した。どうにか耐えようとするも、今日は苛立ちが多かった反動なのか中々収まらない。
頑張ってどうにか抑え込み、一诺は咳払いでそれを誤魔化す。
「ん、んんっ……確かに当主様と奥方様は、少々どころでない程に心配していましたね」
「はい」
思い出してなのか、ナージャは憂いた表情で溜め息を吐いていた。
……事実、それ程までの二人だからな。
誘拐の話を聞いた結果、一诺の腕の中で眠っているナージャを起こして安否を確認しようとしたくらいだ。
当然それは抱きかかえていた一诺が「疲れ果てて眠っているナージャ様を叩き起こし事のあらましを聞いて心労を掛けるというのは例え当主様方であれど許される事ではありません!」と言って全力で拒絶した為、無理矢理ナージャを叩き起こされるという事態は回避したが。
というかそもそも、誘拐に遭って心労が募り回復の為に眠っているとしか思えない娘を見た結果、そのまま寝かせて回復させようでは無く自分の安心の為に起こして安否確認をしようという発想が一诺には理解出来ない。
「追い出してからも何度か入ってこようとするのを説得するのは、中々に時間が掛かりましたが……どうにか説得が成功したのは幸いでした」
……だから、ナージャ様からすればあの二人もまたあの女並みに苦手と認識されているんだろうに。
一诺があまり接触させないようにしているとはいえ、十数年の付き合いでもまだそれを理解していないらしい。随分と察しの悪い本家当主とその奥方に、辟易する。
あまりにもナージャの事を思いやっていない二人は、一诺からしても好意的に見れる対象では無かった。
「……一诺」
「はい」
「今日助けてくれたり、お父様とお母様を説得してくれたり、いつもお世話をしてくれたり、こうしてワガママに付き合ってくれたり……」
ナージャは一诺が着ている漢服を掴む。
それはシワにならない程度の力で、けれど確かに掴んでいる。どうにも邪魔な人物達のせいで一進一退の状態だが、しかしゆっくりとではあるもののナージャが自然に自分を主張出来るようになっている事が、嬉しい。
密かに喜ぶ一诺を見上げて、ナージャはふわりと微笑んだ。
「本当に、ありがとうございます」
「……いえ」
締め付けるような様々な感情の波に溺れそうになりながら、一诺は言葉を返す。
「ナージャ様が無事である事が、私の本懐ですから」
「えへ」
ナージャは、へにゃと緩んだ笑みを浮かべながら一诺の肩に頬を摺り寄せた。
「……大好きですよ、一诺」
「…………私は」
愛している。
……そう言えたなら、どんなに良いか。
言えるはずのない想い。気持ち。
告げてどうなる事も無く、告げれば無駄にナージャの心労になるだけだろう言葉。
だから言えない。
言えるはずがない。
そもそも、そういう立場でもないのだ。
貴族と使用人である以上、土俵が違う。
しかし「私は」まで言って途切れさせるのも良くは無い。そう思い、恋愛的な意味である事を伏せて大好きですよと返そうとナージャを見る。
「……すぅ……」
ナージャは、既に寝ていた。
「…………まだ、疲れが残っていたんだな」
その安らかな寝顔に安堵しながら、一诺はそう呟いて微笑んだ。
一诺が得た安堵がナージャの安らかな寝顔に抱いたものなのか、返答をせずに済んだ事についてなのかはわからない。
わからないが、確かに助かったという気持ちが一诺の中には存在していた。
・
殆どの人間が寝静まっている夜中、一诺は分家にやって来ていた。
使用人服では無い、ナージャと共に居る時は着ないだろう私服。到底好みでは無い私服だが、変装としては丁度良い。
長い襟足は服の中へと隠している為、一見して一诺とは特定し辛いだろう。
明らかに東洋人である部分を思うとすぐにバレそうな気もするが、そこは東洋人が夜闇に紛れやすく認識されにくいという部分に祈るしかない。
「一诺!貴様また!」
「ご安心を、当主様」
一诺は昔よりも肥えている豚を前にして、最早反射的に浮かべるようになった笑みを浮かべる。昔通り、目を細めただけの笑みだ。
かつて分家に居た時に比べ表情豊かになった一诺だが、分家ではどうしてもそれらを見せる気にはなれなかった。
……そもそもここに真実を知らせる気など無いのだから、嘘っぱちの笑みが妥当だろうがな。
「当主様が手配した誘拐犯達の手から彼女を取り返す。それにより彼女から私への信頼はより一層盤石のものとなりました。全て当主様のお手柄と言えましょう」
「……ふん!当然だ!」
……アホ臭い。
適当な、いつも通りのおべんちゃら。
上っ面でしかないと少し考えずともわかるだろう言葉に、分家当主は頷いていた。簡単に丸め込めるのは良いが、こんなものが無駄な地位と無駄な野望を持って存在しているという意味がわからない。
「では、私はこれにて」
一诺は笑みを顔に張りつけたまま、分家当主の部屋を出た。
……神は何を思って、こんな有害物質に人間の姿を与え生かしているのか。
表面上は笑みを貼り付け、内心では溜め息を吐きながらそう思う。害虫がこの世に存在していても、その意味も必要性も無いだろうに。
……ああ、気持ちが悪い。
分家という場所に居るという事実。
トラウマに近い過去の忌まわしき迫害の記憶。ナージャとの幸せな時間で塗り潰されたはずのそれらは、分家に来るだけで容易く浮かび上がってきた。酷い不快感から来る吐き気に襲われながら、一诺は一刻も早く分家から立ち去ろうと歩を進める。
キリキリカチャカチャ。
壁掛け時計の歯車の音が夜の無音の中、うるさい程に響いている。
まるで一诺の不安を煽るように、または一诺の心境に手を叩いて笑っているかのように、響いていた。




