一诺はリーリカを嫌悪する
ナージャと共に歩く帰り道で、一诺はふとナージャがケーキ屋に視線を向けている事に気付いた。
「何か食べたいと思えるものがありましたか?」
「いえ」
気付かれたのが恥ずかしく我慢しようとしている時の「いえ」では無く、ただ単純に違うという返答の「いえ」だった。首を横に振ったナージャは、軽く目を伏せ下を見る。
ナージャより背が高い一诺の目線からは、長い睫毛によって影が出来ているのがよく見えた。
……真美。
「今日、また特待生に声を掛けられて」
「ほう」
思わず一诺の腹の底から低い声が出る。
……またあの女か……!
相も変わらずナージャに絡んでいるらしいリーリカ。
それを聞くと同時、一诺の中の殺意が膨れ上がった。ハッキリとお前の存在がナージャ様を傷付けると伝えたはずなのに、と。
……生粋の愚蠢だなあれは……。
言われた言葉を理解し引く事も出来ない程に愚かとは。そう思い、一诺は笑みを固定したまま内心で舌打ちをした。
気を抜けば、すぐにでも酷い顰め面になる事がわかっているから。
……ああまったく、可憎的……!
ナージャの隣を歩き、ナージャと共にある事が出来ている。
それは何物にも代えがたい幸福なはずなのに、リーリカを思い出すだけで臓腑が焼け爛れそうな程の殺意が湧く。生理的に、本能的に相容れない存在とはこれ程までに不愉快なのか。
「…………」
……いや、しかし。
明らかに不機嫌になってしまったし、一诺の事に関してだけ聡いナージャならその不機嫌さに気付くだろう。一诺がそう自惚れる事が出来るくらいには、ナージャは一诺関係にのみ聡い。
けれど不機嫌になっているのがわかっているだろうナージャは、一诺を見つめて目を細めていた。
それも悪い意味で目を細めているわけでも無く、作り笑いによる細め方でも無い。ナージャが一诺の事を理解している以上にナージャを理解している一诺には、その目に灯されている色の意味がすぐにわかった。
それは安堵や喜びなどの色だと。
……無意識なのだろうが、この目は……好意的と受け取って良いのだろうか。
少なくとも悪意や苦手意識などのマイナスな感覚は感じない。しかし何が好意的に受け取られたのかがわからない。ナージャの前であからさまに不機嫌になるというのはマイナスの感情を抱かれそうなものだというのに。
……いや、あれの話をして吐き出す事、そして俺がその話を聞いてくれるだろう事への安堵か?
それならばわからなくもない。
同じくリーリカを苦手としている者同士であれば、その苦手部分を共有する事が出来る。しかし万が一一诺がリーリカを気に入った場合、どうしようと考えていてもおかしくはない。何せ心配性のナージャなのだから。
一诺はそう思った。
……あのような人間を好意的に見る事など、例え天地が引っ繰り返ろうとあり得るはずもないが……。
少なくとも、一诺がリーリカを嫌悪しているという部分を良い意味で受け取られているのだろう。そう思うと、一诺の胸にもまた安堵が広がった。苦手意識と生理的嫌悪感などはまた別物だろうが、少なくとも好意を持たないという部分は同じだ。
そこが一致して、本当に良かった。
一诺はそう胸を撫でおろす。そうしていると、ナージャは小さな声でぽつぽつと話し始めた。
「お菓子作りに、誘われました」
「どう答えました?」
「包丁や火の扱いをした事が無いから、と断りました」
ふむ、と一诺は無言で頷く。
……それは確かに事実だが、包丁や火の扱いを知らないからとなると……作りたいという気持ちは、あったのだろうか。
リーリカと一緒に作りたいのではとは思わない。
ナージャがリーリカを苦手としているのはわかりきっている事だから。しかし作りたいのでは、という懸念が無いわけでもない。着替えや風呂を自分でしたがるナージャだからこそ、食事なども自分で作りたいと思うのでは、と。
もし、そうなったら。
……もしそうなったら、もう俺の作る食事を食べようとはしてくれなくなるかもしれない。
一诺は遠くをぼんやりと見ながら、それは嫌だなと思った。
今ナージャが食べる物を作っているのは一诺だ。今のナージャは一诺が構築したとも言える。それはただ子供らしくない細さだったナージャの為に、味覚的に一致する東洋の料理を作るようにしただけ。そう、最初はそれだけだった。
けれどいつからか、ナージャを構成する要素を管理しているのは自分だという優越感が芽生えているのも事実。
それは偽れない。事実だから。誤魔化せない程に、それは事実だ。どうしてそんな思考回路になったかは、わからないが。
……きっと、それだけでも手に入れようとしたのだろうな、俺は。
どれだけ恋慕の情を抱こうが恋焦がれようが、無理だとわかりきっているから。
せめて何か一つでも手に入れる事が出来たなら、と無意識に思ったのだろう。手が届かないとわかりきっている相手を構成する要素を、自分が担う事が出来たら。そう思っていないとは、言えなかった。
……だが、ナージャ様がお菓子作りを望むのであれば。
一诺にそれを否定する理由は無い。
リーリカというあの憎たらしい小娘と一緒に作るというのは流石に止めた方が良いとしか言えないが、お菓子作り自体を否定する理由は無いのだ。ナージャには可能な限り自分の作る料理を食べて欲しいというのは、一诺の勝手なワガママでしかないのだから。
一方的な、押し付けなのだから。
「……もしナージャ様がお菓子作りを望まれるのであればお教えしますし、包丁や火が恐ろしいのであればそれを用いない工程のみやるという手も」
ナージャの顔を見ながら、一诺はそう告げた。
正直言って言いたくはないが、ナージャが望むならば応えよう。何せたかがお菓子作りなのだから、一诺がそれを拒絶するなど出来はしない。
それこそナージャが悪さをするというならば応えず、侠客に憧れる者として、そしてそれ以前にナージャを大事に想う従者として止めるだろう。
しかし悪さでは無く、お菓子作り。自分で出来る事は自分でやりたいと言うナージャが知りたがっても不思議では無い行為。着替えや風呂を教えた身として、一诺がそれを教えない道理は無かった。
「あ、いえ、そう言っただけで、やりたいというわけじゃないですよ」
一诺が様々な思考を巡らせて告げた言葉に対し、ナージャはさらりとそう返した。
「一诺にあげたいという気持ちはありますが、彼女の家で作るのはちょっと……」
ナージャは苦笑しながらそう告げる。
……そこで、俺に渡したいとなるのか。
自分で食べる物を自分で作りたいから知りたい。ナージャならそう言うだろうと一诺は思っていた。確信する程にはそう思い込んでいた。
けれどもナージャは、自分で食べる云々以前に、一诺に渡したいと言ってくれた。
自分で食べるという事以上に、一诺に渡したいという思いが前提として存在する。それは自分の手作りを、一诺に食べて貰いたいという事なのだろうか。
それは自惚れても良い、言葉なのだろうか。
……俺には、わからない。
恋は盲目。
ナージャのその言葉にそういう好意があるかどうか、恋をしている一诺にはわからない。無意識に良い意味に受け取ろうと曲解する可能性もあるから、わからない。あわよくば、もしかしたら。どうしてもそんな感情が前に出てきてしまうから。
わからな過ぎて、一诺は自分の中にある恋心が酷くくすぶっているのを感じ、泣きそうになった。
……恋心というのは、どうにも持て余す。
暴れ馬の方がまだマシだと思う程に、御せる気がしない。
「あまり長い時間一緒に居たくもありませんし、一诺以外に食べて欲しいと思う相手も居ませんし」
当然のように紡がれるナージャの言葉に、一诺の胸の奥がぎゅぅうんと締め付けられた。
「とはいえ正面からそれを伝えるわけにはいきませんけれど」
へにゃ、とナージャは笑う。
「相手を傷付けるかもしれない以上に、ならノヴィコヴァ家で、となる可能性がありますから」
「いっそあれは思いっきり傷つくくらいでようやく学習するのではと思いますが……その懸念があるとなると、言葉で叩きのめすわけにはいきませんね」
……事実、あれはこっちが駄目ならそっちで、と言いそうな厚颜无耻。
一诺の言葉も意に介していないらしい図太さは厄介だ。
どんな環境にも順応し適応し繁殖する虫けらのようで、酷く不愉快な気分になる。特に厄介なのは、あの性格だろう。ああいう誰とでも親しくなろうとする性格は、本家当主や奥方に通ずるものがある。
つまり本家当主や奥方が気に入るタイプでもあるという事。
……もしあれがナージャ様とお菓子作りをしたいなどとほざけば、本家当主と奥方はかなり乗り気になるだろう。
「まあ!お友達が出来たの!?」
「そうかそうか、カーナだけじゃなくナージャの友人でもあったのか!よし!好きなだけ使って良いぞ!」
「娘にお友達が出来て、しかもお菓子作りだなんて!とっても素敵だわ!」
どれだけナージャの顔色が悪かろうとか細い声で拒絶していようと、それに一切気付く事なく喜ぶあの二人の姿が目に見える。あの二人はきっと、善意と愛でナージャの心にダメージを与えるだろう。
そしてあれはナージャの気持ちを察して気遣おうとはしないだろうから、ただひたすらにナージャが苦しむ事となる。
……あれがナージャ様とお菓子作りをすると言ってしまえば、恐らく本家当主と奥方はそれを鵜呑みにするだろうな。例えナージャ様が拒絶していようが部屋に居ようが、教えてくれれば良かったのにと言いながら部屋に入って来てあれの待つキッチンに連れて行く気しかしない。
だから嫌になる。
自分が大事に大事にして整えて綺麗にして磨き上げた宝。宝のように大事な、爱的人。なのにその意思を無視し、何なら傷付けようとするその行為。
到底許せるはずもない。
「でも、私の言い方のせいか、聞き入れてくれませんでした」
やはりあれは、ナージャの言葉を聞き入れなかったらしい。
「そのせいで、その、一诺の名前、出しちゃいました。許可が出たら、って」
一诺が許可を出さない限りそれに頷く事は無いと告げた、という事だろう。
……良かった、ちゃんと言えたのか。
前にそう言ったが、ナージャは一诺を悪者にしてしまうからと言おうとしなかった。
しかし正直に言って、それが一番早い説得なのだ。そも、それは一诺自身が提示した拒絶方法。
「だから、その、すみません」
なのに、ナージャは酷く申し訳なさそうな表情でそう言った。
「元々そういう時の理由に用いてくださいと言ったのは私です。ナージャ様が謝る理由などどこにも無いのですよ」
そう、言ったのは一诺だ。
断っても聞いてもらえない時はそうすれば良いと言ったのは一诺なのだから。憂う必要も悲しむ必要も、申し訳ないと思う必要だって無い。
そう思い、一诺はナージャを安心させる為にと目を細める。
「元はと言えば、ナージャ様の言葉をまともに聞こうともしないあの蠢材のせいなのですから」
一诺の言葉に、ナージャはきょとんとした表情で首を傾げた。
「チュンツァ?」
「あ、いけません。今のはあまり良くない言葉ですので、出来れば口に出さないように」
無垢な子供のように復唱する姿は可愛らしいが、今の言葉はあまりよろしくない。本人がわかっていないとはいえ、東洋の言葉で愚か者、など。
……ナージャ様の口から聞きたい言葉では無い。
どんな言葉を紡ごうとナージャはナージャだが、不要な罵倒用語を教える必要はないだろう。
ナージャは不思議そうな表情で、言わない方が良い言葉なのに一诺は言ったのかと問い掛けるような目で一诺を見ていたが、一诺はそれには無反応を返す事にした。
「しかし、あれは随分と面倒かつ厄介かつ粘着質だったはず」
ついでにそう言って一诺は誤魔化す。誤魔化すというより、事実気になっている部分なのだが。本当では無いが嘘でも無い話術は一诺の得意分野だ。
「私の名を出した程度で引きましたか?」
「引いては……くれませんでしたね」
一瞬言葉選びの為に視線を宙へ泳がせた後、溜め息混じりにナージャは言う。
「昔髪を切れなかった私に、一诺が言ってくれた言葉。私は私で、他人は他人」
……ああ、そういえば、そんな事を昔ナージャ様に――……。
「それに似た事を言われましたよ」
「 ほ う 」
一诺本人ですら、冷静な部分が自分の喉からここまで低い声が出るのかと感心するような声が出た。
思わず溢れそうになる殺気をナージャに浴びせるわけにも、それに怯えさせるわけにもいかない。なので一诺は、溢れ出した殺気を咄嗟に背後へと噴出させた。背後やその周辺に居た鳥達が物凄い勢いで慌てたように飛び立ったが、些細な事だ。
「……でも、駄目ですね」
ナージャは困り眉でへにゃりとした、けれどどこか嬉しさが滲み出ているような笑顔を浮かべた。
「一诺は私の本心を見抜いた上で言ってくれましたけど、彼女は私の本心を見抜いて言ったわけではありませんでした。寧ろ、一诺に無理矢理そう言わされているんじゃないか、とでも言うような感じで……」
「まあ、あれはそう思うでしょうね。そう思わせるのが目的でもありますが、あれは随分と私を嫌っていましたから」
……こちらとしても、あれに好意を抱かれたいとは微塵も思わないが。
寧ろ好意なぞ抱かれたら寒気どころじゃない。そのくらいには無理な相手だ。害虫の方がまだ和睦の道があると思えるくらいには無理。
相手もそう思っている事だろう。
……寧ろ、そのくらい相手に嫌悪されている方が安心出来る。
少しでも好意だの絆だのがあるなど、想像するだけで内臓ごと吐きそうだ。
それなら虫けら以下と嫌悪されている方がまだマシだった。当然ながら、一诺もリーリカの事を虫けら以下と思っているから。まあ普通に虫けら以下という認識をされるのは不愉快極まりない上、虫けら以下という認定をされる男が従者というのはナージャの顔に泥を塗る行為なので絶対に認めないが。
一诺自身にそれなりにプライドがあるというのもそうだが、それ以上にナージャの顔に泥を塗るというのが耐えられなかった。
「……一応断るのは私の意思だとは告げましたけど、わかってくれたでしょうか」
「あれは随分と頭が足りていないようでしたので、理解出来ていない可能性が高いかと」
「…………一诺、何と言うか、彼女に対してだけやたらと当たりが強いですね?」
ナージャはパチクリと目を瞬かせて、青空のように澄んだ瞳で一诺を見た。マイナス感情は無いようだが、不思議そうな目。ほんの少しキラキラしているのはどういう感情なのだろうか。
……どう、返答したものか。
表情を笑みに固定し、一诺は思案する。
誤魔化す事も出来るだろうが、リーリカへの敵対心は既にちょいちょい漏れているから今更だ。それにナージャ相手に嘘を吐きたくもない。主であるナージャには、可能な限り誠実でありたい。
……例え言う事が出来ていない大きな秘密があるとしても、だからこそ、それ以外は。
刺客であると、一诺は告げる事が出来ない。
告げて恐怖されたくない。今までの行為は偽りだったのか、策略だったのかという疑いを向けられたくはない。今ある信頼を、信用を失いたくはない。
刺客であるという真実を告げるという事は、イコールで一诺の今という夢のような時間が終わるという事。
幸せな夢が消え、幸せなど無い現実へと戻ってしまう。それは嫌だった。それだけは嫌だった。だから一诺は刺客である事をナージャに告げない。既に分家を裏切って刺客の振りをしているだけだという事実も、言わない。
ナージャと共にあれるという夢のような今を、終わらせたくなかった。
「……恐らく、生理的に無理だと判断したからではないでしょうか」
「生理的に」
正直過ぎる一诺の返答に、ナージャはきょとんとした表情で復唱する。
「本能的に天敵と判断した、という方が合っている気もしますが」
「そ、そこまで合わなかったんですか?」
「それはもう」
一诺は我ながら素晴らしいと思う笑みを浮かべて言い切った。
「わあ……」
その笑顔に、ナージャは苦笑しながらも納得したように頷いていた。
「……あ、でも」
ふ、とナージャは何かを思い出したように笑みを浮かべる。
「お菓子、作ろうとしたら絶対にお父様やお母様が乱入してきたりねだってきたりしそうなので、作ろうとかは思いませんけれど……」
……やはりナージャ様もそう思うのか……。
あの二人はわかりやすい性格なので、その結論に行き着くのもさもありなん。
「今日はすぐに寝てしまう程じゃなくて、まだちょっとだけ余裕があるから、仮眠を取る前に一诺と飲茶がしたいです」
「一緒に、ですか?」
「はい」
ナージャはふわりとした微笑みを浮かべ、上目遣いで一诺を見た。
「ここのところ、学校から帰ったらすぐに私が寝ちゃって、飲茶をする時間もありませんでしから」
……確かにそうだ。
最初の頃に半分こしたからか、ナージャは一诺と共に飲茶する事を厭わなかった。
寧ろ、一诺と一緒に飲茶するのを楽しみにしていたくらいだ。けれど最近のナージャは仮眠と普通の睡眠によりトータルの睡眠時間が長くなっている。休日ならばともかく、学校がある日は共に居られる時間が少ない。
一诺はナージャの寝顔を見るだけでも飽きないので何時間でも見ている事が多々あるが、それはそれとして共有する時間がもう少し欲しいというのは事実だった。
「私、久々に一诺が作ってくれる、甘い点心……ええと、鹹点心?が食べたいです」
「……ナージャ様、甘い点心は甜点心ですよ」
折角ナージャが東洋の言葉を使って歩み寄ろうとしてくれたのに申し訳ないし、指摘したらもう東洋の言葉を使おうとしなくなるかもしれない。けれど間違えたまま覚える方が良くないので、一诺はそう指摘した。
一诺が指摘すると同時、ナージャはピタリと動きを止める。
「今私が言ったのは……」
「甘く無い方ですね」
「忘れてください」
ナージャの顔が真っ赤になって、ぷしゅうと湯気が出るのが見えるようだった。
「慣れない言語を用いたのですから、間違うのも無理はありません」
その言葉に反応し、うるうるしている瞳でナージャは一诺を見上げる。
もっとも見上げるというよりも、上目遣いと言うべきだろう。顔を真っ赤にして少しでも縮こまろうと肩を狭めるその姿は小さくて愛らしくて、大事にしたいと強く思った。
「発音はきちんとしていましたから問題もありませんよ」
「うう、でも、恥ずかしいです……」
真っ赤な頬を誤魔化すようにナージャは頬を揉む。
しかし元々色白なナージャの肌だからこそ、赤くなったその色は誤魔化せない。頬に手を当てるようなその仕草は可愛らしくて、けれど本人は本気で恥ずかしがってその頬の赤みを隠そうにしている事がわかって、
「ふは」
あまりの愛しさに、一诺は思わず少年のように笑ってしまった。
……もうすぐ二十九になるというのに、いけないな。
そう思い笑いを耐えようとするが、どうしても顔がはにかんでしまう。赤くなった頬をむにむにと捏ねるナージャが愛おしくて堪らない。
その感情から湧き出る笑みは、抑え込めなかった。
「では気合を入れて、甜点心を作るとしましょう」
なのでその笑みを誤魔化すように、一诺はそう告げる。
「ナージャ様、请求……リクエストはありますか?」
「…………」
誤魔化しきれていない笑みを浮かべているからか、ナージャはほんのちょっぴりジトリとした目で一诺を見上げた。けれど人を睨む事に慣れていないからか、可愛らしいものだ。
可愛らしい拗ねたような表情は普段のナージャなら絶対にしないだろう表情で、またもや嬉しくなってしまう。
……ああ、勿体ない。
帰り道なのが勿体なかった。
こんなにもレアで愛らしいナージャの姿が見れたのはとても嬉しいが、通行人が多数居る。ナージャの事を見ていない人間も多いが、それでも勿体ないと思った。その感情は完全に無意識だったが、しかし本心でもあった。
可能なら自分だけが知っている姿であって欲しかったという、その気持ちは。
……いや、俺はこうしてナージャ様の傍にあれるだけで幸せなんだ。
油断するとすぐに欲望が膨らんでしまう。
今の時点でこれ以上ない程幸せなはずなのに、これ以上を求めてしまう。身の程知らずに過ぎた幸福を得ようとしても、コップの容量以上に酒を注がれれば溢れるのと同じく、取りこぼしてしまうだろう。
欲を出して今の幸せを失うのだけは、嫌だった。
だから一诺は蓋をする。恋心を殺しはしないが、笑顔の裏に隠しておく。愛しているのは事実だし揺らぎもしないが、それはそれ。叶わぬ想いであり、蓋をしても飛び出してくる厄介さはあるが、やはり己の恋心。
ナージャへの想いでもあるソレを粗末に扱うなど、一诺には出来ない。
「……平たい」
恥ずかしそうにまだほんのりと頬を染めているナージャは、ぽつりと告げる。
「お月様のような点心が良いです」
「月饼ですね。了解」
一诺が笑みを浮かべながらそう頷けば、ナージャは照れながらもとても嬉しそうにへにゃりとした笑みを浮かべていた。




