ナージャは一诺が異性である事を意識した
「ナージャ様」
「はい?」
休み時間。
食材の買い出しついでに一诺が買ってきてくれた本を読んでいると、アデリナが声を掛けて来た。ナージャは東洋の方にある伝説などが纏められた本にしおりを挟んで一旦閉じ、机の上へと置く。
このしおりは一诺が「デザインがナージャ様のチョーカーにある花飾りに似ていたので」と言って買ってきてくれた物だ。
……使う度にぽかぽかした気分になれて、良いですね、これ。
ぽわりとした気分になりながらも、会話を避ける事は出来ないからとナージャはアデリナに首を傾げる。
「えと、どうかしました、か?」
「リーリカ……特待生が呼んでますわ」
「ナージャ様にチョコレートをお渡ししたい、って言ってます!」
言ってから、二人は視線を逸らして溜め息を吐いた。
「わたくし達は一緒扱いでクッキー一袋でしたけれどね」
「どうして俺とアデリナでセット扱いなのか……」
「こっちのセリフですわよラーザリ」
「酷く腑に落ちない部分は一致しているようで何よりですね。真似しないでください」
「は?」
「あ?」
……またやってますね……。
突然言い争いを始めるこの二人に溜め息を吐きそうになり、ナージャは堪える。
ナージャの取り巻きを自主的にしているこの二人は、とにかく言い争いが多いのだ。ナージャを挟んで言い争う事も多いので、本当に止めて欲しい。
言い争いでもなんでも、ナージャは争い全般が苦手だった。
……というか、特待生って……。
見れば、扉のところにリーリカが立っていた。
キラキラした目でそわそわとナージャを見ているリーリカの背後には、我関せずとばかりにただぼんやりと佇んでいるカーナが居る。弟に関しては何をしに来たのかよくわからないが、特待生のストッパーであり回収役である分、居てくれるのはありがたい。
そう思いつつ、ナージャは渋々立ち上がった。
……本当は関わりたくないから、近付きたくもありませんけど……。
しかし無視するわけにもいかないからどうしようもない。本を読んだまま気付かなければ良かったのだが。いっそこれからは本に夢中で聞こえていない振りをすべきだろうか。ナージャはそう考えた。
……駄目ですね。聞こえているのに聞こえない振りをするというのは、どうにも。
ナージャからすればそれは意図的に無視をしているのと何も変わらない。相手の受け取り方が変わるとしても、ナージャが感じる後ろめたさに変化は無いのだ。そもそもきちんと聴覚が備わった耳がある上に聞こえているのに、聞こえない振り。
聞きたくとも聞こえない人が居る事を知っているナージャは、折角耳があるのにそれが使えない振りをするのは嫌だった。
「……あ、の、用事、というのは……」
「チョコレートをお持ちしたので受け取ってくださいお姉様!」
「ぴ……っ」
突然の大声に加え、リーリカはいきなり素早く動いて手に持っていたチョコレートの箱を差し出した。急な動きを苦手とするナージャはそれに怯え、思わず一歩距離を取る。
「あ、の、あの、あの、ごめ、ごめん、なさ、あの、私、そういうの、あん、あんまり……」
……チョコレートは好きですけど、彼女からの贈り物は、あまり受け取りたくないです……。
ナージャは酷い事を考えていたし、それが酷い考えである自覚もあった。
けれど事実だ。好意を向けられているのはわかるが、ナージャからすればリーリカは苦手なタイプであり仲良くもない相手。もし受け取れば、その借りを返せと言われるかもしれない。
勿論普通、そんな意図で贈り物をする者は居ないだろう。
そもナージャ相手にそういった事を主張する輩も居ない。けれど、苦手な相手。リーリカはひたすらナージャが嫌がる部分、別に地雷では無いが限りなくそれに近い部分を踏み荒らしながら近付こうとしてくるのだ。
だから、受け取りたくなかった。
「大丈夫です!」
「ひぇ…………」
勢いの強い大声に、ナージャは無意識に身を守ろうと胸の前に腕を持ってきた。どこぞの三角形型の墓で眠っていた王様の如く、胸の前で交差させて。
だって怖い。
勢いが強くて、圧が強くて、声が大きくて、急に動くのが、全部怖い。一诺はナージャがそれらに怯える事を知っているから、そういった事は無い。優しくて穏やかで、出来るだけゆっくりとした動きをしてくれる。
……昔は、平気だったはずなんですけどね。
前世でそういったものに怯えたりした覚えは無い。
気付いたらナージャになっていたので前世の死因がそういうモノだったのかと思わなくも無いが、ナージャに死因関係の記憶はないのだ。気付いたらナージャになっていた、としか言えない。
つまりナージャが強い勢いや圧、大きな声や急な動きに怯えるのは、今世によるものだった。
全ては両親が、そういうタイプだったから。ナージャが苦手とする場所に連れて行き、苦手とする行為を強要し、ナージャが望む行為を遠ざけたから。
パーティは嫌だったし食事の時間は憂鬱だったし、本を読む事が出来ずに外に遊びに行こうと誘われるのが苦痛だった。
故にナージャはそれらを嫌う。苦手とする。例え好意的であろうが元気なだけであろうが、大声は苦手だ。圧の強い人間はよく大声で話すから。急な動きだって苦手だ。体の大きさが違う相手が急に動けば抗えないし、逃げる事も出来ずに捕まって好きでも無い外へと連れて行かれるから。
だから、それら全てを有する、主人公らしい主人公なリーリカの事も苦手だった。
「お姉様に渡すこれだけはちゃんと既製品ですので!手作りが駄目でも大丈夫です!」
……そういう以前の問題なんですが……。
ずいっとその箱を押し付けるように差し出してくるリーリカからじりじりと距離を取りつつ、ナージャは困る。正直受け取りたくない。受け取ったら、食べないといけないから。
食べ物を放置して駄目にするというのはいけない事だという考えが、ナージャの根底部分にあるのだ。
……妹を養っていた身として、賄いを多めに作ってくれて持ち帰らせてくれるバイト先は救世主のようでしたね……。
だから食べ物を粗末にする事が出来ない。出来ないからこそ、受け取ったらきちんと食べなくてはとなってしまう。しかし相手がリーリカだと思うと、どうにも尻込みしてしまって仕方がない。
「……とりあえずさ」
これまで完全に我関せず状態だったカーナが、扉部分の壁にもたれ掛かりながら静かに言う。
「リーリカは受け取ってもらえれば良いみたいだし、受け取るだけ受け取ってあげて。今食べる必要は無いし、合わないようなら捨てるなり他の使用人に渡すなりすれば良いんだし」
「……そう、ですね」
何故か生徒から異様に心配される為、溜め息を吐かないようにしながらナージャは頷いた。
カーナの態度から受け取らない限りリーリカは引いてくれないのだろうと察したのだ。仕方なく、ナージャはリーリカが差し出している箱へと恐る恐る手を伸ばす。僅かに指先を震わせてそろりと手を伸ばし、万が一にでもリーリカの手に触れないよう箱の表面に指先だけで触れ、そっと持ち上げた。
触れる部分は最小限だ。
「……えと、あの、チョコ、その、ありがとう、ございます」
「いえ!お姉様のお口に合えば良いのですけど!」
「それは、あの、ちょっとわからない、ですし、こういうの、その、念の為にって、一诺が調べてから、なので、あの、食べられない可能性も高くて、や、やっぱ、り、これ、わた、私が受け取るの、止め、た方、が……」
「それはお姉様の為に買った物ですから是非受け取ってください!可能なら目の前で食べていただきたかったですけど」
ぐ……っ、とリーリカは歯を食い縛る。
「あの野郎に塩を送るような真似をするのは十字架を引き千切って捨てたいくらいですけれど、でも、万が一アタシの知らない間に違う中身にすり替えられている可能性もある事を考えると一度持ち帰って調べるというのは道理で、くそ、あの野郎……!」
……何か悪い物でも食べたんでしょうか……。
ナージャにはよくわからないが、リーリカは突然歯を食い縛ったまま背を丸めて唸り、誰かへの恨みを漏らした。心配にもなるし突然そんな態度を取られると酷い不安に見舞われるが、しかし大丈夫ですかと声を掛けようと思える程の好意も無い。
「って、にぎゃっ!?」
おろおろとしていると、カーナがリーリカの腹に腕を回して持ち上げた。
「じゃ、目的は達成したから回収してくね。そろそろ戻らないと、ここから遠い分間に合わないかもしれないし」
「あ、ええと、はい……」
「お姉様!あの野郎には気を付けてくださいね!イヤな事があったり言われたりしたら言ってください!ラスボスだろうと叩きのめしてやりますから!」
「はいはい、戻るよリーリカ」
叫ぶリーリカを抱えながら、カーナはいつも通りのテンションで帰って行った。残されたナージャはよくわからないと首を傾げつつ、とりあえず受け取った箱をカバンの中へと入れる。
……あの野郎って、誰なんでしょう。
ナージャがハッキリと認識しているのは一诺だけなので、よくわからない。どうもお互い犬猿の仲のようなので一诺の事を差している可能性が高いが、一诺はナージャの嫌がる事はしない。
それはもう、
……彼女とは違って。
そう思い、ナージャは内心で溜め息を吐いた。
溜め息一つすら吐けない空間である校内は、何とも息苦しい。せめて一诺が居ればもう少しマシだっただろうに。頼れる先であり、気を緩める事が出来る相手。
一诺の傍を思い出し、今の息苦しさにほんの少しだけ眉を顰めたナージャは喉に触れる。
……あ。
触れたチョーカーの花飾りが、しゃらんと鳴った。
……うん、大丈夫です。これがある限り、一诺がずっと傍に居てくれるのと同じ、ですもんね。
ほ、とナージャの胸の中が軽くなる。
しゃらんという音に、心の中のもやもやが浄化された気分だった。否、きっと音によるものでは無いのだろう。ただただ、一诺の存在を感じる事が出来たから。このチョーカーをつけている間はずっと居場所についてが一诺に伝わっている。
一诺はずっと、ナージャの事を感じている。
……一诺が私の事を感知してくれている間、私は一人じゃありません。
チョーカーをつけていれば、一诺が傍に居なくとも一緒に居るも同然になる。改めてそれを思い出し、それによる安堵に呼吸が通常へと戻った。深く息を吸って吐けるようになり、体の重さもどこかへ行った。
一诺が毎朝つけてくれるこのチョーカーとは、一诺同様十年以上の付き合いとなる。
……頼もしくて、嬉しいです。
ナージャが再び喉へと手を持って行けば、再び花飾りがしゃらんと鳴った。
・
学校から帰って来たナージャは、寝間着に着替えて髪を下ろす。
「……あ」
そうしてふと、リーリカが渡して来たチョコを思い出した。
「どうかされましたか?ナージャ様」
ナージャが寝間着に着替えている間にいつもの漢服へと着替えた一诺がそう問い掛ける。
「あの、そういえば今日、特待生が私にチョコレートを渡して……」
「人体に有害な毒物かもしれないので捨てましょう」
「わあ…………」
一诺はキラキラなエフェクトが見える程の綺麗な笑みを浮かべてそう言い切った。
「でも、ええと、既製品って言ってたので、その、わざわざお金を支払って用意してくれた物を捨ててしまうのは、その……」
「あれが勝手に用意しナージャ様に押し付けただけの物なのですから、あれの財布事情などナージャ様が考える事ではないと思いますが……」
ふむ、と一诺は頷く。
「ナージャ様が勿体ないと言うのでしたら、一応確認しましょう。カバンの中ですか?」
「はい」
「では失礼します」
一诺はカバン掛けにあるカバンを開け、中からチョコレートの箱を取り出した。
「ふむ」
手に持ったそれを、一诺は狐目を細めてじっと見定める。
「……既製品である事は間違い無いようです。開けた痕跡も無いので、中身を入れ替えたりも恐らく無いかと。しかし念の為私が開けますが、良いでしょうか」
「はい」
……いつもはそこまでしないのに……。
誰かからの贈り物を前にした時、護衛でもある一诺はそれを警戒する。
しかしここまでの警戒では無い。周囲を観測出来る追跡魔法の応用で中身をある程度確認出来る為、開ける作業までする事は無いのだ。けれど、一诺はそれすらもやろうとした。
……そんなに特待生が嫌いなんですね。
それ程までに、彼女は信用ならないという事なのだろう。一诺が凄まじい警戒を露わにする程に。
「……中身も問題は無いようですね。ただしこれは店、形状、香りからするとアルコール入りのチョコレートです」
「お酒、ですか」
……私、お酒の耐性ってどうなんでしょう。
ナージャの前世である筑流は、お酒を飲まなかった。
お金的な問題があるからというのも理由だが、一番の理由はビールが苦かったからである。なのでお酒好きという事は無いが、耐性があるかどうかもわからない。
増してや転生した新しい体なので、筑流だった時とはアルコールへの耐性もかなり変化している事だろう。
「酒に興味がありますか?」
無言のままナージャがチョコレートに視線を向けていたからか、一诺は薄く目を細めてそう言った。
「お酒、というか……お酒の耐性が気になって。今まで飲んだ事がありませんでしたから」
「……まあ、それはそうですね」
「それに大人になった時、万が一両親が無理矢理パーティに連れ出してお酒を飲ませようとしてきたらどうしよう、という心配もあるんです。もしお酒に弱くて変な酔い方をしてしまったらと思うと……」
絡み酒だったりはしゃいだり泣き出したり怒り出したりと、想像するだけで顔から火が出そうだった。
前世では居酒屋などでのバイト経験もある為、酔って醜態を晒す客は結構見た。真面目そうなサラリーマンがべろんべろんに酔っ払い、クラゲのように骨を抜かれたんじゃと心配になるくらいぐでんぐでんになっていた。
……あのお客様は同僚らしい人が居たから大丈夫だったと思いますけど、記憶があろうと無かろうと誰かの前であんな姿を見せるのは無理です……!
両親の性格からすると、その醜態を悪気も無く話題にするだろう。最悪の場合、知り合い貴族に語って聞かせかねない。うちの子自慢のノリでやる人達だ。
一诺が専属になってから必要以上に関わる事も無くなった存在だが、それでも両親がそういうタイプである事をナージャはよく知っていた。
「……ではまず私がこれを味見し、味が問題無いようでしたらナージャ様が食べるという事に致しますか?」
「えと、良いんですか?」
味見を頼んでしまって申し訳ない。リーリカがくれた食べ物を食べても良いのか。そんな二つの意味での「良いんですか」だった。
「ええ」
一诺は笑顔で頷く。
「チョコに使用される程度の酒でしたら酔う事も無いでしょう。万が一それで酔うようならば、普通の酒を飲み酒の許容量を知ろうとする方が危険です。それが例えどれだけ少量の酒であろうと、菓子に含まれる酒で酔う程に弱ければ猛毒に等しい物でしょうから」
「成る程」
確かに、それはある。
先にお菓子に含まれるアルコールで大丈夫かを判断するというのは、良い考えだろう。基本的にお菓子に含まれるアルコール分は少ない。チョコレートボンボンでも、ビール一杯分に匹敵する量を摂取しようとしたら相当な数を食べる必要があるくらいだ。
しかし、酔う人はそれでも酔う。
……奈良漬で酔った事があるって言ってたバイト仲間が居ましたね。
そのくらい弱ければ、普通の酒など本当に毒物並みの物だろう。
万が一を考えまずお菓子で摂取し大丈夫かを知り、お酒が飲めるようになってから初心者向けの酒で許容量を知った方が良いのも事実。許容量をわからず飲み過ぎて急性アルコール中毒になったら一大事な上、下手すればぽっくりあの世コースになってしまう。
「じゃあ、ええと」
「はい、まず私が」
「お願いします」
ナージャが軽く頭を下げると、一诺はそれに苦笑しつつも箱の中のチョコレートを一つ口の中へと放り込んだ。少しの間もごもごしていた一诺はチョコレートを飲み込んだらしく、ゴクリという音と共に一诺の喉仏が嚥下した際の動きをする。
改めて認識する喉仏や首の太さが異性だという事を強く知らせ、ナージャの胸がドキリと高鳴った。
……な、何だかドキドキします……。喉を見てドキドキするというのは、ええと、これ、ちょっと異常な部分にときめいているのでは……?
ときめいた理由は異性である事を強く感じたからなのだが、そこは恋愛偏差値がゼロなナージャ。
何故か喉仏フェチ、または首の太さフェチなのではという思考に至ってしまった。いつも一緒に居た一诺が男なんだと認識すればそのドキドキに恋愛感情という名が付けられていたかもしれないが、非常に残念な事にそうはならなかった。何せ恋愛偏差値ゼロなもので。
キリキリカチャカチャ。
はやし立てるかのように、室内の時計の中にある歯車が鳴る。ドキドキする鼓動の音をより一層強く感じさせるその音に、ナージャは困った。
油断すると、鼓動の高鳴りに合わせて顔が赤くなってしまいそうだったから。
「……あれが用意したと思うと癪ですが、味としては問題無いかと。ナージャ様好みのシンプルなチョコレートでしたよ」
「あ、ひゃい!」
自分があまりメジャーでは無いタイプのフェチなのではと思考をぐるぐるさせていた為、一诺に声を掛けられたナージャは思わずテンパッた返事を返してしまった。随分と珍しく、普段に比べて大きな声。しかも裏返った声で、よく見れば赤くなっていく顔。
「?」
何故そうなったのかと言うように、一诺は不思議そうに眉を顰めて首を傾げた。
「……まさか、酒の気配がするだけで酔ったのですか?」
「ち、ちが、違くてですね、その、あの」
「落ち着いてくださいナージャ様」
ベッドに座ったまま赤面してわたわたするナージャに、一诺は静かにそう告げた。
「私は急かしたりしませんから」
「…………そ、の」
その言葉を聞くと同時、反射的に安堵がナージャの胸に広がる。
……ほ、本人に言うのはあれですけど、誤解をさせてはいけませんし、一诺に対して思った事だからちゃんと言わないと、ですよね……!?
頭の中も目の奥もぐるぐるしているんじゃないかという混乱の中、ナージャはそんな結論に至ってしまった。
「ちょ、チョコレートを飲み込んだ時に、一诺の喉が動いてて、何だか凄く男らしく見えて、こう、ドキドキしちゃったんです……!」
「へ」
ぽぽぽと赤くなった頬を両手で覆うナージャのとんでもない発言に、一诺は虚をつかれたようなぽかんとした表情になった。そして、じわじわと耳と首が赤く染まっていく。
「……そう、ですか」
しかし本人はそれに自覚が無いからか、まだ少し目を見開きながらも冷静な声色でそう返した。
「ええ、と、そう、ですね。私は男なので、男らしく見えるのは当然かと……」
「ですよね、そうですよね、すみません……!」
混乱しながらもそう言う一诺に、明らかに失言をしてしまった事に気付いたナージャもまた混乱した。穴があったら入りたいが、穴は無い。
しかし逃げる先の酒はあった。
「あ、えっと、チョコ!チョコ、あの、いただきます!」
「は、はい」
とりあえずチョコを食べてアルコールへの耐性を確認するという当初の目的を果たし、この何とも言えない空気をうやむやにしたい。
微妙過ぎる空気だという事は双方察していた為、どうにかしたいのは双方同じ。故にナージャの言葉に一诺もすぐ反応し、チョコレートが入った箱をさっと差し出した。
「い、いただきます」
「どう、ぞ」
ナージャは指先で摘まむようにしてチョコレートを手に取り、一口サイズのそれを口へと入れる。噛み砕き、味は確かに美味しいと思いつつ飲み込んだ直後。
「 ふ ぇ … … ? 」
くらり、とナージャの視界が歪み、回る。
「ナージャ様!?」
一诺のその声を認識するや否や、ナージャの意識はふっと途切れた。
・
眩しい光に、ナージャは目を覚ます。
「……ええと、あれ?」
「お目覚めですか、ナージャ様」
横を見れば、目の下にうっすらと隈を作った一诺が座っていた。
「具合が悪いなどはありませんか」
「いえ、特にありませんが……」
「……良かった」
一诺はナージャの手を握り懇願するように頭を下げて背を丸め、心底安心したと言わんばかりの深い息を吐く。
「……私、どうしたんでしたっけ?」
「アルコール入りのチョコレート一つで酔い、眠りに落ちました」
「うわあ……」
……我ながらお酒への耐性が無さ過ぎますね……。
「あ、もしかしてそれで一诺、ずっと部屋に?」
「……申し訳ありません」
「え?」
一诺は思いつめたような表情でナージャの手を握りながら、目を伏せる。
「不快だったでしょう」
「な、何がです?」
何が不快だったのか本気でわからず、ナージャはそう問い掛けた。
……昨晩お風呂に入れなかった事でしょうか?
しかしそれはお酒入りチョコレート一つで酔って寝落ちた自分が悪いし、幸いにも今日は休日。普通に朝からシャワーを浴びれば良いだけの話だ。
「……一晩中、寝顔を見られる、というのは」
目を伏せる事でナージャの顔を見ないようにして、一诺はそう言った。
……え、でも、それって。
「それ、私がチョコに入っていたお酒で倒れちゃったからですよね?万が一が無いようにと、一诺は自分の睡眠まで削ってくれました」
微笑み、ナージャは握られていない方の手指で一诺の目の下の隈をするりと撫でる。
「申し訳ない気持ちや感謝の気持ちが溢れはしますけど、不快だなんて思いませんよ。寧ろ一晩中心配を掛けてしまって、すみません」
「……いえ」
一诺はナージャの手を握る手に力を込めた。
力を込めたと言っても僅かなものであり、まるでワタが潰れないよう優しく触れているだけのよう。家事をしているとわかるその大きな手は、少しだけ震えていた。感情を抑え込んで震えているのか、強く握ろうとする手を抑え込んで震えているのか、ナージャにはわからない。
わからないけれど、一诺がそこまで心配してくれたという事実が嬉しかった。
……心配を掛けてしまった事自体は、喜んじゃいけない事ですけどね。
相手に心労を掛けて喜ぶような人間になってはいけません。
ナージャはそう思う。心配されて嬉しいという乙女心は、そういった道徳によって押しのけられる。故にナージャは、一诺への想いに恋愛感情という名をつけられないでいるのだ。
道徳を重んじるが故にそれらを後回しにしてしまうから、ナージャは自覚出来ないままなのである。
「……本当に」
ナージャの手を握ったまま、一诺は懇願するかのように頭を垂れ、震える声で言う。
「何事も無く、幸いでした」
「……ありがとうございます」
「次からは二度と酒入りなどという猛毒物はナージャ様の前に出しません」
「わ、私が特別弱いだけで猛毒物では無いと思いますよ?」
「特別弱いナージャ様からすれば猛毒物に等しい物です」
酒入りチョコ一つで寝落ちたナージャは何も言い返せなかった。
自室で、かつ一诺の目の前で食べて寝落ちしたから良かったものの、そうじゃなかったら。例えば特待生であるリーリカの前だった場合、色々と面倒そうだ。
もっとも、リーリカ以外の前でも面倒事になる気しかしないが。
……それに、万が一川べりとかで食べたら最悪の場合溺死しちゃいますよね……。
寝落ちして川にドボンして溺死コースが目に見える。
「ぅぁ」
「おや」
そんな事を考えていたら、ナージャのお腹がくぅと鳴った。
夕食無しで寝落ちて、そのまま朝を迎えた為に今日のナージャはいつも以上に空腹だった。故に珍しく、腹の虫が鳴いた。普段はナージャと同じように随分と大人しいというのに。
「……そうですね、では食事の準備を致しましょうか」
顔を上げた一诺はナージャの腹の虫の鳴き声で少し気が抜けたのか、ふわりとした笑みを浮かべていた。
「しっかりと、けれどサッパリとした物にしましょう」
「あ、ありがとうございます」
立ち上がった一诺に続くように、ナージャもベッドから降りようとする。
「じゃあ私はその間に、着替っ!?」
まだ酒が残っていたのだろうか。足に一瞬上手く力が入らなくなったナージャは、立ち上がる事に失敗してそのまま床に倒れ込んだ。
額が床とぶつかり、ゴヅンという鈍い音が響く。
「………………忘れてください……」
「そういうわけにもいきません」
あまりの羞恥にナージャが丸まると、一诺はそう言ってナージャを抱きかかえて体を起こさせる。そのままベッドに座らせ、ナージャの前髪を指先で払って額を確認した。
……うう、額の様子を確認する為とわかっていますし、事実ちょっぴり痛いですけど、でも、今の今でこうして顔を突き合わせるのは恥ずかしいです……!
穴が合ったら入りたい級の恥。
ベッドから立ち上がる事に失敗し額を打つとは、何ともドジな動きだった。恥ずかしさのあまり顔が熱い。そして赤面しているだろう顔を、額メインとはいえ真面目な顔の一诺に覗き込まれるというのは、何とも言えない心地だった。
あまりの恥ずかしさに、どんどんナージャの顔に熱が溜まる。
「……腫れてはいないようですが、赤くなってしまっていますね。冷やしますか?」
「いえ、えと、ちょっと痛みはありますけど、でもそこまでじゃないので大丈夫、です」
ナージャのその言葉に嘘はないと判断したのか、一诺は安堵したように優しく目を細めた。
「了解」
ちう。
「ひゃ」
……え、今、何、が……?
微笑んだ一诺が、とても自然な動きでナージャの額にキスをした。
「いっそこれで治れば良いのですが……やはりそうは行きませんね」
赤くなっているのだろうナージャの額を撫で、一诺は眉を下げながらそう言う。
「ですが今ので少しでも、はや、く、に……」
一诺と目が合ったので、ナージャはさっと目を逸らした。
だって顔が真っ赤になっているのがわかるから。一诺の目から視線を逸らすも、しかし気になってついちらちらと見てしまう。
目の前の一诺は、数秒間目を見開いた表情で硬直していた。
「ァ」
小さく裏返った声が一诺の喉から出ると同時、ぶわ、というより最早、どば、という勢いで一诺は汗を垂らす。耳と首は人体的に大丈夫なのかと心配になる程赤く染まっており、普段なら赤くなる事も無い顔すらもほんのりと桃色に染まっていた。
「も、申しわけありません!今のは、その、つい、いえ、あの」
「だ、大丈夫です!心配してくれたのわかってます!|今の一诺は睡眠不足でもあるんですから無理もありません!寧ろそこまで無理をさせてしまってごめんなさい!」
「いえ、ちが、今のは、あの」
明らかに照れている顔をしながら、一诺はだらだらと汗を掻いて視線を下へと逸らす。
「……すみませんでした」
「いえ、気にしないでください」
自分よりもテンパッている存在が居るからか、存外落ち着きながらナージャはそう返した。
「従者失格です」
「そんな事はありません」
目の前にある頭の誘惑に勝てず、ナージャは一诺の頭を優しく撫でてそう言った。
「寧ろ、えへ、ちょっと、嬉しかったです。早く治るようにってやってくれて」
キスが嬉しかったのか、心配が嬉しかったのか、治るようにという願掛けをしてくれた事が嬉しかったのか、それはわからない。ナージャはその辺りの感情に明確な名称をつけていない為、それが親愛なのか恋愛なのかわからない。
でも、口がにへらと笑って胸がぽかぽかするくらいにとても嬉しい気持ちになったのは、まごう事無き事実だった。




