ナージャは望まぬ言葉を口にする
「お姉様!」
ノヴィコヴァ家に来た際思いっきり一诺に拒絶されたはずなのだが、リーリカはまったくもってめげなかった。相変わらずのニコニコ笑顔でナージャの教室へやってきて、ナージャへと話し掛ける。
それは今日もまた同じだった。
……逃げそびれました……。
教科書をカバンに詰めて教室を出るところまでは上手く行ったが、廊下で捕まった。
ナージャを見るや否やすぐさま隣を陣取ったリーリカに、ナージャは顔を顰めそうになる。けれどリーリカのその表情からは悪意を感じず、好意しか感じない。
それがまた邪険にし辛い理由であり、ナージャを苦しめる原因だった。
……いっそ悪意があれば、ハッキリと拒絶出来たのかもしれませんけれど……。
非常に残念な事に、リーリカからナージャへの悪意は一切無い。
「あの、お姉様!お時間はありますか!?」
「…………用事は、無いです、けど」
……用事は無いですけど一刻も早く帰りたいです……!
用事が無いから暇というわけでは無い。
寧ろナージャの場合、疲労のあまり用事を入れる事すら出来ないというのが正しいだろう。そのくらい学校での他人とのやり取りに疲労していたし、頻繁にやってくるリーリカに疲弊していた。
油断すると即座に頭がくらくらしそうな中、ナージャはリーリカから気持ち距離を取ってじりじりと移動する。
「なら!一緒にお菓子を作りませんか!?」
しかし回り込まれてしまった。
ゲーム好きなバイト仲間がよくそう言っていたな、とナージャは死んだ目で思い出した。気付かれないよう取った距離はリーリカが一歩踏み出すだけで元通り。否、寧ろ先程よりも距離が近くなっていた。
距離が近くなると共に強くなる圧と、こちらに影響を及ぼそうとするような熱。
……主人公タイプ、と言うんでしょうけれど……。
それはナージャからすれば、プレッシャーでしかない。
普通なら好印象を与えるだろう笑顔と好意。話を進める主人公なだけあってぐいぐい引っ張ろうとする強さ。己を出したいが自力では出せないと言う人の心の殻を強引に割って外に連れ出してくれるような熱。
けれど、ナージャはそれを望まない。
己を出したいなんて思わない。変化を得たいとも思わない。違う自分になりたいとは思わない。
その勢いに、ついていけない。
……さながら、花と石ですね。
花は成長し、花開き、枯れて種を残しまた次へと続いて行く。
その様はまるで人生のようで、可変的なもので、だからこそ美しくて皆を魅了すると言えるだろう。一瞬咲いて散るから花火と呼ばれるように、花とはそういうものだ。皆に季節の変化を知らせ、目まぐるしく動き続ける。
対して石は、不変的な物。
どれだけ年月が経とうとそこにあるし、同じ姿であり続ける。例え割れようが砕けようが、その在り方を変える事は一切無い。不動であり不変なのが石なのだ。目まぐるしく命を燃やして次へと繋ぎ繁栄していくのが花ならば、石は変化を持たないまま永遠にそこにある。
増える事も変化する事も無いが、枯れる事も無い。
……石は花になれませんし、なろうとも思えません。
だって動きが早すぎて、時の流れが速すぎて、ついていけない。
例えばネズミなどの小動物は寿命が短い分、全てが素早く動いている。人間にそれを真似しろと言われて、出来る存在が居るものか。
そもそも別物なのだから。
ナージャからすれば、同じ人間であれどリーリカと自分はそのくらいに差があった。同じ哺乳類でも別物だと思うくらいには、違う。ナージャはそんな速さで生きてはいけない。
ゆっくりと頭の中で考えてから動くタイプだからこそ、その速さに合わせようとすると頭がついていけないのだ。
……花だって、石にはなれませんよね。
花が石になりたいと思う事は無いだろう。
石の花になって永遠に美しいままで居たいと思う花くらいは居るかもしれないが、しかしそれでは花の良さが死んでいる。可変的であり、一時の美しさであり、いつか枯れる有限性を有するからこそ人は花の美しさ、儚さを愛でるのだ。
要するに同じ世界で生きる事は出来るが、相容れない存在という事である。
……日本の神話で出て来た石、岩の女神も、そういえば姉でしたっけ。
ナージャは前世の妹を思い出す。
……あの子はこの特待生に似た性格だったから、花……確か花の女神が妹だったはずですし、そういうものなのかもしれませんね。
姉妹というのは、そういう風に分類されるものなのかもしれない。当然個人差はあるだろうが、何となくナージャはそう思った。
「あの、お姉様?」
長々とした現実逃避も空しく、リーリカはナージャを逃がしてくれはしなかった。
覗き込むようにナージャの顔を窺うリーリカから、ナージャは一刻も早く離れたい。すぐにでも校門前で待っているだろう一诺の下へと駆け寄りたかった。
「……その、お菓子作り、は、えと、やった事、な、無い、ので……」
「なら教えますよ!一緒に作るんですからそのくらいは当然します!」
……別に教わりたくないですし、前世のやり方なら一応覚えてます……。
そもそも作るだけならともかく、リーリカと一緒に作る気は無い。
前世で家事を一人でこなしていたナージャからすれば、お菓子作りも出来ない事は無い。料理は目分量が多かったが、お菓子は分量をしっかり量れば失敗もしないものなのだから。
お菓子を作って一诺に、というのも考えなくはない。
けれどその為に苦手なリーリカと一緒に居るのは嫌だった。リーリカと一緒に居るのも嫌だし、上手に作れるかわからないし、一诺がナージャの手作りを食べてくれるかわからないし、何よりもし家で作るとなれば両親が出張ってくるだろう。
自分達の為に作ってくれてるんだろうと期待してくる可能性の高さを思うと、辟易してやる気がずんと無くなる。
……第一私のおやつ、というか点心は全部一诺が作ってくれてますし……。
いまいちやる必要性も感じられない。
「あ、もしかして場所を心配されてます?うちに来れば大丈夫ですよ!うちは教会の孤児院なのでキッチンが結構広いんです!孤児院のメンバーでクッキーなんかを作って近所の子に配ったりもしてるので、一緒に作りながら教えるのは得意ですよ!」
リーリカは得意げな笑みを浮かべ、むん、と可愛らしく力こぶを作った。
……だから、別に作る気無いんですけれど……。
孤児院出身というのは初耳だが、それでも興味は湧かなかった。
そもナージャはリーリカの名前すら覚えていない。主人公で特待生で苦手なタイプ、というくらいだ。そんな相手が孤児で孤児院育ちだの、わざわざ気にするはずもない。苦手であり人生で関わったりもしたくないタイプのプロフィールを覚えるなど、ナージャからすれば無駄な事でしかないのだ。
関わりが無くなった途端全てを忘れる事が出来るような、そんな最低限の記憶以外は全て不要として処分した方が容量にも空きが出来る。
……というかどうしてわざわざ苦手な子の家に行くみたいな話に……。
苦手な子の家など、敵地でしかないだろう。完全なるアウェイであり、全てがリーリカの味方でありナージャの敵。ナージャからすればそうとしか思えない。
そのくらい、ナージャの心の壁は分厚かった。
「……包丁、とか」
「はい?」
「包丁とか、火とか、その、そ、そういうの、使う、の、危ないです。わた、私、やった事無い、ので。あの、だから私、いか、行かな」
「大丈夫!ちっちゃい子でも出来るんですから、指示通りにやってくだされば問題ありません!しっかりと教えますよ!」
……ふぇ……。
まったくもってナージャの拒絶を理解してくれないリーリカに、ナージャは泣きそうになった。
……嫌ですけど、こう言うのは本当に嫌ですけど、凄く申し訳ないですけれど、でももうこう言うしか……!
「せ、めて」
カバンの持ち手を手が白くなるくらいぎゅうと強く掴みながら、ナージャはか細い声で言いたくも無い言葉を絞り出す。
「一诺に、聞いて、許可が出たら……で」
……ああ、これだけは言いたくありませんでした。
理由を他者に擦り付ける行為。
一诺本人が困った時はこう言えば良いと教えてくれたものだが、ナージャは決して言いたくなかった。だってそれを言えば、一诺が悪者になってしまう。ナージャが自分の意思で拒絶しただけだというのに、一诺の意見だという一文を加えるだけで「一诺のせい」になってしまうのだ。
……私自身の声で拒絶の意思が届けば、言わずに済んだのに……。
聞き入れてもらえない自分の主張の弱さが、嫌になる。
「…………一诺、ですか」
ナージャの前ではいつでも笑顔で騒がしいリーリカが、笑みを消して静かにそう言った。その目は剣呑な光が灯っていて、眉間にはシワが寄り、ここには居ない敵を見据えているかのよう。
……い、一诺も彼女を相当嫌っていたようですが、特待生の方も一诺に敵意を……?
先日のアレコレに関しては一诺から聞いた簡単な説明しか知らないナージャは、困惑した。まさか一度会っただけでここまでの犬猿の仲になるとは思わなかったから。それも、ナージャがどれだけ拒絶しようと達磨のように必ず起き上がって復活し再び迫ってくるリーリカが、だ。
主人公らしく全ての人間が好きなのだろうと思っていたリーリカが、一诺への嫌悪を隠していない。
……一体全体どんな会話をしたらそうも一触即発のような仲に……?
よくわからないが、リーリカが静かになってくれたのでここが勝機。
「あの、では、これで」
「待ってください!」
別れを告げて立ち去ろうとしたが、大声でそう止められた。
今すぐにでも走り去りたいが、止められたなら止まらなければ。そう思ってしまうナージャは、止まるしか無かった。突然の大声が怖くても、止まるしかない。
「お姉様がお菓子作りをするかどうかはお姉様の事であり、あの男が決める事じゃないですよね!?お姉様はどうしたいのか決めるのは、あの男じゃなくてお姉様です!」
その言葉に一瞬、ナージャの目が無意識に敵意を持って細められた。
……いやだから、私が決めた事を聞き入れてくれなかったから一诺の名前を出す羽目になったんですが……。
かつて一诺に言われたのと同じであり、けれど決定的に違う言葉。
ナージャの意思をくみ取って言ってくれた一诺と違い、リーリカはナージャの意思をくみ取らずに言っている。ナージャが拒絶している事を受け入れもせずに。
理解しようともしていない癖にと一瞬思い、ナージャはカバンの持ち手を強く握る事でその考えを払拭する。
……そういう事を、人を悪く言うような事を思っては、いけません。
例え事実であっても、そういった思いを抱く事はとても疲れる事だから。
「……私は、ちゃんと自分で決めてますよ」
こういう時、本当はきちんと相手の目を見て言い切るべきなのだろう。
そうする事で相手に本気だと伝えるのが人間なのだ。けれどナージャはリーリカと目を合わせたくなかった。リーリカの目に自分が映る姿を見たくなかったから。相手は好意を持ってくれているのに、それを返す事が出来ない自分が酷い人間に思えてしまうから。
だからナージャは、リーリカから視線を逸らしてそう告げる。
「やりたいって思わなくて、お、思えなくて、だから、一诺を口実にした、した、んです。断る口実に、したんです。わた、私、わからない、から。断り方。だから、今の、ちゃんと本心です」
「お姉様……」
「…………それでは」
リーリカの顔が見れなくて、ナージャは早足でその場を去った。
・
一诺と隣り合って歩きながら、ナージャは帰り道にあるケーキ屋にふと視線を向ける。
「何か食べたいと思えるものがありましたか?」
「いえ」
ナージャの視線にすぐさま気付いてそう問い掛けてくれる一诺に、しかしナージャは首を横に振って否定した。
……食べたいって思ったわけじゃないのは、事実です。
ナージャが見ていたのは、ケーキ屋に置いてあるクッキーなどの焼き菓子だ。
「今日、また特待生に声を掛けられて」
「ほう」
一诺の笑みが固定され、顔に影が差し、声色が三段階程低くなった。
普通なら怯えるだろうし、ナージャだって他の人間がそうも態度を変えたら肩を跳ねさせて怯えるだろう。しかし相手は一诺。あれからリーリカの話をする度に不機嫌さを露わにしていた為、すっかり慣れてしまった。
そも一诺はナージャに不機嫌さを見せる事はあっても、その不機嫌さをナージャに向ける事は無い。
ナージャが不機嫌の原因というわけでも無い為敵意を向けられもしないので、ナージャは恐怖しなかった。一诺が自分にその感情を向けないのであれば、一诺は自分の絶対的味方。そう意識的に、そして無意識的にも理解しているから。
……寧ろ正直言って、一诺がこうして私の前で感情をハッキリ出してくれるの、嬉しいです。
素を見せてくれる程に心を許してくれているんだと思うと、嬉しい。
その原因が苦手な特待生であり、その素を見る度に一诺は不機嫌になっているのだと思うと喜んでばかりもいられないのだが。それを理解しているものの、絡まれ疲労した分を吐き出す為ナージャは特待生の話をせざるを得ない。
吐き出せば一诺が不機嫌になるとはいえ、吐き出さなければナージャに心労が募って倒れてしまいかねないから。
「お菓子作りに、誘われました」
「どう答えました?」
「包丁や火の扱いをした事が無いから、と断りました」
「…………」
歩きながら、一诺はナージャの顔をじっと見つめる。
「もしナージャ様がお菓子作りを望まれるのであればお教えしますし、包丁や火が恐ろしいのであればそれを用いない工程のみやるという手も」
「あ、いえ、そう言っただけで、やりたいというわけじゃないですよ」
やり方がわからないから断ったのでは、という可能性を考えたのだろう。一诺の説明にそう察したナージャは、すぐさま首を横に振る。
「一诺にあげたいという気持ちはありますが、彼女の家で作るのはちょっと……」
ナージャは既にリーリカが教会の孤児院で生活しているという事を忘れていた。
「あまり長い時間一緒に居たくもありませんし、一诺以外に食べて欲しいと思う相手も居ませんし」
……前世だったら、妹に食べて欲しいと思ったかもしれませんね。
けれど今、妹は居ない。
よく似た性格の子は居るが、苦手なタイプだから普通に嫌だ。妹も同じような性格だったが、アレは血の繋がった唯一の家族だったから愛する事が出来ただけ。自分しか愛を注げないから全力で愛を注ぎ、だからこそ可愛がれた。
もし妹が他人だったなら、苦手な性格故に早々に距離を取っていただろう。
前世からナージャはそう確信していたし、そのくらい冷静にお互いを判断していた。家族だから良いが、他人だったら絶対に相容れないのだろうと。
「とはいえ正面からそれを伝えるわけにはいきませんけれど。相手を傷付けるかもしれない以上に、ならノヴィコヴァ家で、となる可能性がありますから」
「いっそあれは思いっきり傷つくくらいでようやく学習するのではと思いますが……その懸念があるとなると、言葉で叩きのめすわけにはいきませんね」
……あれ、今私、言葉で叩きのめす話なんてしてましたっけ?
そもそもナージャは言葉を脳内で色々精査してから話す為、言い争いには強くない。罵倒を人に言える程のメンタルでも無いのだ。しかし一诺はいつも通りの表情で当然のようにさらりとそう言っていたので、ナージャはとりあえずスルーを選んだ。
「でも、私の言い方のせいか、聞き入れてくれませんでした。そのせいで、その、一诺の名前、出しちゃいました。許可が出たら、って。だから、その、すみません」
「元々そういう時の理由に用いてくださいと言ったのは私です。ナージャ様が謝る理由などどこにも無いのですよ」
目を細め、一诺は微笑む。
「元はと言えば、ナージャ様の言葉をまともに聞こうともしないあの蠢材のせいなのですから」
「チュンツァ?」
「あ、いけません。今のはあまり良くない言葉ですので、出来れば口に出さないように」
……一诺は口に出してましたよね……?
どうやら東洋の罵倒言葉を引っ張り出してくるくらいにはリーリカが嫌いらしい。
「しかし、あれは随分と面倒かつ厄介かつ粘着質だったはず。私の名を出した程度で引きましたか?」
「引いては……くれませんでしたね」
どころか、
「昔髪を切れなかった私に、一诺が言ってくれた言葉。私は私で、他人は他人。それに似た事を言われましたよ」
「 ほ う 」
一诺の表情が貼り付けたような笑みに固定される。
だというのに青筋が浮かんでいる上、頬がビキビキと引き攣っていた。どこから出たのかと思う程の低い声、もしくはナージャに向けないよう背中側から放たれた殺意という圧に反応してか、周囲の鳥達がその場から逃げるかの如く一斉に飛び立った。
……わ、また始めて見る表情……。
普通なら逃げるだろう圧。ナージャだって相手が一诺じゃなかったら泣き出していただろう。けれど相手は一诺で、初めて見る表情をしていて。
またもや初めて見る顔に、ナージャは胸がちょっぴりトクンと鳴った。
「……でも、駄目ですね」
一诺の新しい一面を知る事が出来た嬉しさにへにゃりとした笑みを浮かべつつ、ナージャは言う。
「一诺は私の本心を見抜いた上で言ってくれましたけど、彼女は私の本心を見抜いて言ったわけではありませんでした。寧ろ、一诺に無理矢理そう言わされているんじゃないか、とでも言うような感じで……」
「まあ、あれはそう思うでしょうね。そう思わせるのが目的でもありますが、あれは随分と私を嫌っていましたから」
ナージャは一瞬一诺もまた物凄い勢いで彼女を嫌っているのではと思ったが、言わない事にした。わかりきっている事をわざわざ指摘する必要も無いと判断したからだ。
「……一応断るのは私の意思だとは告げましたけど、わかってくれたでしょうか」
「あれは随分と頭が足りていないようでしたので、理解出来ていない可能性が高いかと」
「…………一诺、何と言うか、彼女に対してだけやたらと当たりが強いですね?」
あまりの強さに、ナージャは思わず目をパチクリしてしまう。
「………………」
ナージャの指摘に、一诺の表情が再び笑みのまま固まった。
「……恐らく、生理的に無理だと判断したからではないでしょうか」
「生理的に」
「本能的に天敵と判断した、という方が合っている気もしますが」
「そ、そこまで合わなかったんですか?」
ナージャの言葉に、一诺は爽やかと言っても良いような笑みを浮かべた。
「それはもう」
……わあ、良い笑顔……。
ナージャは性格がリーリカと合わないし、分かり合えないと思っている。
しかし一诺の態度や露わになっている嫌悪感からすると、一诺の方が重症だ。リーリカを思い出すとあちらも一诺に対し敵意を持っていたので、お互いがお互いを天敵と認識したのだろう。
……でも、その方が良いですね。
もしも一诺がリーリカを気に入ったり、リーリカが一诺を気に入ってしまったら。
その時ナージャはきっと、嫉妬するだろう。一诺の視線を奪うリーリカに嫉妬していたかもしれないし、一诺に迫るリーリカに不満を覚えていたかもしれない。
ナージャにとって、一诺は唯一無二の存在だから。
それが恋愛感情から来るものなのか、ナージャにはわからない。愛しているというのは確かだが、それが家族愛なのか依存的な愛なのか盲目的な愛なのか恋愛なのか、わからないのだ。前世では恋愛と無縁で生きてきた為、比較対象が存在しない。
当然比較対象が無くとも恋愛感情かどうかはわかるだろうが、ナージャは無意識に主張を少なくする癖がある。
それは自分の感情を抑え込み、見なかった事にするというもの。無かった事にして、無かった事に出来なくとも可能な限り希薄にする。だからナージャにはわからない。
恋愛感情だと確信出来る程、感情が強く動く事が無いのだから。
「……あ、でも」
「?」
ナージャは微笑み、一诺を見つめる。
「お菓子、作ろうとしたら絶対にお父様やお母様が乱入してきたりねだってきたりしそうなので、作ろうとかは思いませんけれど……」
一诺もその可能性が限りなく高い事をわかっているからか、「ああ……」という表情になった。
「今日はすぐに寝てしまう程じゃなくて、まだちょっとだけ余裕があるから、仮眠を取る前に一诺と飲茶がしたいです」
「一緒に、ですか?」
「はい」
目を細め、ナージャは頷いた。
「ここのところ、学校から帰ったらすぐに私が寝ちゃって、飲茶をする時間もありませんでしから」
飲茶の時、一人で食べるのはちょっぴり寂しい。だからナージャは、一诺と一緒に点心を食べる事にしていた。折角の飲茶なのだから一緒の方が良い、と言って。
ナージャにとって飲茶とは、一诺と共に点心を食べる憩いの時間。
けれど学校に通うようになってからは心労が多く、帰ってきたら数時間の仮眠を取らないと体調を崩してしまう。飲茶をするような余裕も無く寝落ちる事が多々あるし、起きた時には既に日が暮れている。そうなると必然的に夕食の時間となり、飲茶をする時間が無い。
そもそも飲茶に適した時間と学校の時間が被っている為、中々良いタイミングが無いのだ。
……朝食は点心である事も多いですけど、あれは飲茶とは違いますしね。
「私、久々に一诺が作ってくれる、甘い点心……ええと、鹹点心?が食べたいです」
「……ナージャ様、甘い点心は甜点心ですよ」
ナージャはピタリと動きを止めた。
「今私が言ったのは……」
「甘く無い方ですね」
「忘れてください」
恥ずかしさのあまり顔に熱が溜まる。無理して慣れない言葉を使おうとすればこれだ。十年以上聞いているからどうにかなるかと思いきや、何ともしょっぱいミス。
……穴があったら入りたい……!
湯気が出そうな程真っ赤になって涙目になるナージャを見て、一诺は優しく目を細めた。
「慣れない言語を用いたのですから、間違うのも無理はありません。発音はきちんとしていましたから問題もありませんよ」
「うう、でも、恥ずかしいです……」
「ふは」
真っ赤な頬を誤魔化すように手で揉んで捏ねるナージャを見て、一诺は少年のように笑う。
「では気合を入れて、甜点心を作るとしましょう。ナージャ様、请求……リクエストはありますか?」
「…………」
顔から火が出そうな程に、間違えたのが恥ずかしい。
けれど一诺は楽し気に笑っているから、まあ良いかとも思う。好きな人の笑顔が見れて嬉しいのは誰だって当然だし、ナージャは一诺が喜んでくれる事が自分の事以上に嬉しく思う。その好きがどういう好きかは不明だが、そう思った。
ナージャを見つめる一诺は、光こそ入っていないもののとても優しい色を灯した黒い狐目を細めて微笑んでいる。
「……平たい、お月様のような点心が良いです」
「月饼ですね。了解」
一诺は笑みを浮かべ、頷いた。




