一诺は本能的に無理な敵と確信する
一诺は使用人服を着て校門前に立っていた。
……遅いな。
放課後になってからまだあまり時間は経過していない為遅いと言うのが早い気もするが、相手がナージャだと思うと来るのが遅い。彼女は学校などの人が沢山居る場所を苦手としている上に、三年になってからは苦手な特待生も居る。
そんなナージャが、来ない。
普段なら確実にチャイムが鳴ると同時に教科書を片付け、誘いがあっても断り、最短コースで出て来るはずなのにまだ来ない。三年になる前は既に来ているはずなのに、三年に上がってからは校門に出て来るまでに時間が掛かるようになっていた。
……特待生か。
一诺は少しばかり目を細め、口角を上げて笑みの表情を貼り付ける。ナージャにストレスを与え、ナージャの時間を奪い、ナージャの心をすり減らす特待生。
そんな人間の事を考えるだけで、表情に殺意が表れそうだったから。
可能ならナージャを迎えに行きたいが、校内への使用人の立ち入りはアウトだ。それを許すと貴族が多い分、色々と面倒な事になってしまうから。生徒達だけで、それぞれ成長する。そこに使用人が居ては成長など見込めないだろうから、という理由で。
校門前で佇む事しか出来ないのを歯痒く思っていると、ナージャが来た。
「ナージャ様、お迎えに」
「一诺!」
お迎えに上がりましたと声を掛ける前に、ナージャが一诺の胸へと飛び込んできた。
「……ナージャ様?」
……何があった……!?
ナージャは人前ではあまり一诺にくっつかない。
よく知らない他人にその事について聞かれても面倒。申し訳ない。外でくっついても他人の存在があるせいで自室でくっつく程の癒しは得られない。護衛である一诺の動きを阻害してしまってはいけない。
前に聞いた時、ナージャはそう言っていた。
そう言っていたナージャが、一诺の胸へと一直線にやってきた。確実にナージャの心に負担が掛かるような何かがあったに違いない。一诺はそう確信し、眉を顰めて校門から出て来る生徒達をそうとはわからないよう睨みつけて観察する。
……こういう時、目を細めているだけだと判断される目で良かったと言うべきか。
しかし周囲を見渡してもそれらしい影は無い。つまり校門付近で絡まれたという事でも無いのだろう。
「…………何か、嫌な事がありましたか」
本人に聞くと、それを思い出させる事になってしまう。
思い出させ、再び嫌な思いをさせてしまう。けれど喋る事でその時感じた不快さなどの感情を吐き出し、心を落ち着かせる事もある。何より本人から聞かなければわからないだろう事実もあったので、一诺はそう問い掛けた。
ナージャにプレッシャーを掛けない為、優しい声色を意識しながら。
「……特待生、が」
相当に心が擦り切れたのか、ナージャは一诺の胸に額をぐりぐり押し付けながらぽつぽつと話し始める。
「一緒、一緒に、一诺も、弟も、一緒に、帰りたい、って。家に来て、私と喋りたいって、言いました」
酷くどもりながらも、ナージャは一诺にそう告げた。
……特待生がナージャ様と共に帰ろうとし、いっそ俺とカーナ様を含めて複数で帰るという形であれば一緒に下校が出来るのでは、と提案したわけか。
ナージャは特待生の性格ととことん合わない。
苦手なタイプそのままなのが特待生だ。懐かれているのか付き纏われ、その結果ナージャはただでさえ苦手な学校がより一層苦手になってしまっている。元々学校に行った日は帰ってから仮眠を取らなければ体調を崩し数日寝込む程だったというのに、最近では特に酷い。
まだ体調を崩してこそいないものの、時間の問題ではないかと不安になる程。
そして家に来てナージャと話したいというのも完全にアウト。元々ナージャの家はナージャが安心出来る場所では無く、安心出来るのは自室だけ。それも一诺がどうにか本家当主達を丸め込んで整えたから安心出来る空間になっているだけで、もし一诺が何もしていなければナージャの自室すらも安心出来る空間では無かっただろう。
……安心出来る空間に踏み込まれそうになるというのは、一体どれ程までの恐怖に感じたか……。
「成る程。よく頑張りましたね」
そんな恐怖を感じながら、一诺が居ない場であるが故に一対一で向き合いながら、どうにか必死で断ったのだという事がよくわかった。涙目だったが、目元を見れば泣いていないという事もわかる。どれだけ無理でも、泣かないよう耐えたのだ。
……俺が居る場であれば、必ず俺が守ってみせる。
だから安心して欲しいと伝えるようにナージャの背を軽くぽんぽんと叩けば、安堵したようにナージャの体から強張りがとけていく。
……姿を見るのも声を聞くのすらも嫌な相手が家にやって来て話をしようなど、死刑宣告に等しいだろうに。
いっそ学校に行かないようにすれば全てが解決するのにと思うが、それは本家当主と奥方が許さないだろう。彼らにとって学校とは友人と出会えた楽しい場所だから。
人混みが苦手で会話が苦手で友人が欲しいとも思っていないナージャからすれば地獄のような場所である事など、理解していない。
勿論勉学の為にという意図もあるのだろうが、そんなものは一诺が家庭教師の代理をすれば良い。そのくらいの知識は本家にある図書室で仕入れた。ナージャが勉強する際、役に立てるようにと。
……質問が二、三回ある程度で、後は自分で解いてしまうが。
元々着替えなどは一回教えれば即覚えていたので、学習能力が高いのは不思議でも無い。五歳の時から、ナージャの中身は大人だったのだから。
「……大丈夫ですか?ナージャ様」
胸から伝わってくる呼吸は、浅いものからだんだんとゆっくりした呼吸へと変化してきた。落ち着き始めたのだろうとは思うが、ここは外。それも人の通りが多い校門前では、完全に心を安らがせる事などは出来ないだろう。
……早く帰った方が良いな。
「歩く事すらままならないようでしたら、抱き上げて帰宅しますが」
「だ、いじょうぶ、です」
言い、ナージャは一诺から体を離す。
「自分で、歩けます。ただ、あの、その」
「はい」
「手、手を、手、握っても、良いですか」
「勿論ですよ」
一诺はナージャを安心させる為に目を細め、手を差し出した。
……まだ、相当に心に負担が掛かっているのだろうな。
一诺相手であればあまりどもらず喋れるようになったナージャだが、心への負担が大きい時は一诺相手でもどもり始める。それは頭が混乱しているせいで言葉を上手く脳内で構成出来ず、とにかく必死に意図を伝えようとしているからだろう。
……それに、手か。
ナージャは一诺の手を握ろうとはあまりしない。
自室の中でならともかく、外では特にしない行為だ。全ては、護衛である一诺の動きを守られる側である自分が阻害してはいけないという思考から。手を繋いだりしていては、その分一诺のハンデになってしまう。ナージャはそう思ってか、縋らなければならない程心が疲弊している時くらいしか外で手を繋ぐ事をねだりはしない。
……つまり、通常以上の負担があったという事だろう。
差し出した手を握ったナージャは、安堵したように目尻を緩ませて息を吐いた。
「では、帰りましょうか」
……俺はここに居る。
だから安心して良いのだと伝えるように、一诺はナージャの手を痛く無い程度に強く握った。一诺の手を握るナージャの手は、握るというよりも添えるような力だったから。しっかり握って、縋っても大丈夫なのだと伝える為に。
……俺は、ナージャ様の為に存在しているのだから。
ナージャに恩を返す為、ナージャの為に生きる。一诺はそう誓っているのだ。そんな一诺が、ナージャに頼られる事を厭うはずもない。
寧ろ積極的に頼って良いのにと思いながら、一诺は歩き出した。
「……ふふ」
「ナージャ様?」
ナージャの手が一诺の手を確かめるように、にぎにぎと動いていた。それに気付きつつもスルーしていたが、隣を歩いているナージャがふと笑ったので声を掛ける。
……何か面白い事でもあっただろうか。
自分の服にゴミがついていたり髪が乱れたりはしていないはずだがと思いつつも、それでもまあナージャ様が笑ったのなら良いかとも一诺は思う。先程まで泣きそうだったナージャが気を抜いたように微笑む事が出来るのは、良い事だから。
ただ、往来での微笑みは少々勿体ない気もするが。
……ナージャ様が常に心から微笑む事が出来ればとは思うが、同時に他の人間に見せるような安売りはしてほしくないと思ってしまう。
「どうかされましたか?」
己の浅ましさを隠すように、一诺はそう問い掛けた。
「いえ」
一诺の顔を見て、ナージャは安心したように表情を緩ませる。
「……一诺が居てくれて、本当に良かったなあって、思ったんです。こうして手を繋いで、一緒に歩いてくれて」
手を繋いでいない方の手で胸を撫でおろしながら、目を伏せたナージャは噛み締めるように言う。
「それだけで、心が凄く軽くなりましたから」
「…………そうですか」
……ああ、もう……!
一诺は一瞬目を見開き、すぐにナージャから顔を逸らして前を向いた。
そうじゃないと顔がにやけそうだったから。しかし顔を逸らしても、先程の返答は間違いだったのではという思考に陥る。どう返せば良いのかわからなかったにしても、もう少し良い返答があったのではないか。
そんな思考が一诺の中でぐるぐると回る。
……!
そう思っていると、きゅ、と控えめにナージャの手の力が強まった。
一诺の手を握り返す力が強くなった事に気付いて顔を見れば、ナージャは眉を下げながらも微笑んでいた。不安から一诺の存在を確かめようと握るのでは無く、ここに居てくれて嬉しいとでも言うように。
……勝手な自惚れかもしれないが……。
そうだったら嬉しいと思いながら、一诺はナージャの負担にならないよう歩幅を合わせて歩を進めた。
・
自室に帰れば、ナージャは着替えてすぐに眠った。
ナージャが着替える間部屋から出ている一诺は、自室に戻りいつもの漢服へと着替える。そうしてナージャの部屋に戻れば、ノックに対し返事が無い。
……寝たか。
恐らく寝落ちしたのだろう、と一诺は判断した。
あれだけ疲弊していたのだから無理はないと思いつつ、一诺はナージャの部屋へと入る。返事がないのに入るのはどうにも違和感があるが、しかしナージャからの返答が無い場合は一诺のみ勝手に入って良いという許可は出ている。
何せナージャは疲労のあまり寝落ちする事がとても多い。
「…………着替えまでは頑張ったようだが、力尽きたか」
寝間着に着替えたナージャは掛布団を捲ってベッドに入ろうとしたのだろうが、中途半端に掛布団を捲った状態でベッドに倒れ込んでいた。下半身は床に座るような状態になっていて、上半身は明らかに倒れ込んでいる。
……風邪を引くかもしれないし、この体勢だと体を痛めるな。
そう思いつつ、一诺はナージャを優しく抱き上げてベッドに寝かせる。
風邪を引いたり体を痛めそうになくてもベッドで眠っていないようならベッドに寝かせるが、それはそれ。体勢によっては体を痛めそうだと思ってしまうのは自然な流れだろう。
まあ普通に掛布団を被って寝ていようと、少しでも布団が捲れていようものなら即座に直すのが一诺なのだが。
……さて、畳むか。
椅子のところに掛けられている制服を手に取り、ささっと畳む。
普段ならナージャ自身で畳むのだが、そんな余裕は無かったらしい。それは中途半端な体勢でベッドに倒れ込んでいた事からもお察しである。
……ん?
部屋から出ようとして、一诺は違和感を感じた。
ナージャの部屋から出るのは別に良い。今のナージャはチョーカーを外している為連れ去られるとどこへ行ったのかわからなくなるが、チョーカーはナージャの枕元に置かれている。その為何かあればすぐにわかる。
一诺が感じたのは、そういう刺客的な意味では無い。
……会話をしている気配……客か?
扉の向こうから聞こえる僅かな音に注意を払っていると、部屋の扉がノックされた。
どうやらナージャに用があるらしい。そう思い、一诺は出る。
「へ」
……随分な傻相を晒しているこれが、ナージャ様を害する特待生か。
扉を開ければ、間抜け面を晒す特待生が居た。
隣にカーナも居る事から、カーナが招待したのだろうと一诺は理解する。リーリカに、この部屋が姉であるナージャの部屋だと伝えたのがカーナなのだろう事も察した。
……本当に、読めない男だ。
ぼんやりとしているその顔はいつも通りに凪いでいて、感情がわからない。
……しかしこの黄毛丫头は一体何なんださっきから。
リーリカは一诺を見ながら、無言で眉間にシワを寄せて難しい顔をしていた。
挨拶もせず、要件も話さず。挙句に不思議そうに、ともすれば不審そうに一诺を見る目。未知の物を見たかのようにじろじろと不躾な視線を向けて来る、髪色と同じピンク色のその目が酷く苛立った。
……扉を開けたこの状態のままでは、ナージャ様の眠りを妨げる危険性があるな。
ナージャ様の話からするとこの小娘はやかましいのだったか、と一诺は部屋の外に出て扉を閉める。
今でこそ一诺を無言でじろじろ見ているが、いつ喧しくなるか。黙っている今の内に扉を閉めておいた方がナージャの眠りを維持出来るし、扉をしっかり閉める事で拒絶の意思を示す事も出来る。無理矢理体を押し込もうとしても無駄であり、一诺がこうして扉の前に立てば充分な壁と化す。
そう思いながら、部屋の外に出た一诺は貼り付けたような笑みを浮かべた。
「何かご用でしょうか、カーナ様に特待生様」
とっとと去ね、と思いながら。
「あの、アタシはリーリカです!」
思い出したようにリーリカはそう名乗った。
「その、今日ちょっとカーナと勉強会に来てて!」
「さようですか」
だから何だ、と一诺は笑みの向こう側で苛立ちを覚える。
勉強会をしたいならさっさとカーナの部屋に行って勉強をすれば良いだろうに、わざわざそれを大声で言う意味がわからない。しかもわざわざナージャの部屋の前で。
……讨厌。
その喧しさがナージャの心をすり減らしているのかと思うと、はらわたが煮えくり返りそうだった。
「それで、お姉様にもご挨拶をって思って!」
「ナージャ様は疲労で眠っております」
……貴様のせいでな。
舌打ちをしそうになるのを笑顔の仮面で覆い隠す。
リーリカと必要以上に話す気は無いのだとわかるよう、一诺は端的に答えた。そもそも挨拶をしたがる理由がわからない。
……ノヴィコヴァ家に来たからと親族に挨拶をしようとするのはわからなくも無いが、何故ナージャ様にまで会おうとする?
普通その場合、保護者に挨拶をすればそれで良いはずだ。
なのにわざわざナージャに会おうとする。ナージャの素晴らしさを見抜いたその目は確かだが、ナージャが嫌がっている事に気付かない点はマイナスだ。
……まず、ナージャ様の素晴らしさに気付かない方が節穴か。
その素晴らしさを見抜き取り巻きが出来る程だと思えば、ナージャの素晴らしさがそれだけ万人に伝わるものだという事がわかる。しかしそれはそれ。素晴らしさを見抜こうと、その素晴らしさを殺しかねない圧をかけるのはいただけなかった。
周囲が必要以上に絡む度、ナージャの美しい瞳から光が消えていく。
……まったくもって不愉快極まりない……!
どんどん機嫌が急降下していく一诺に気付いていないリーリカは、尚食い下がる。
「具合が悪いのならお見舞いで挨拶と少し会話だけでも!」
その言葉を聞いた瞬間、一诺は耳の奥で太い縄がブチリと切れたのを感じた。
「誰のせいだと思っている?」
笑顔の仮面が完全に外れたのがわかった。
眉間にシワが寄り、苛立ちに目が鋭く細まる。腹の底から出た声は這いずるように低い声。少しでも気を抜けば、敵意のままにその首を掴みそうだった。
けれど流石に主の弟の友人にそんな事をするわけにもいかない為、深呼吸で精神を落ち着ける。
メキメキミシミシと腕の筋肉が音を立て血管を浮かび上がらせているが、耐える。左手首にある金属の重みに意識を集中すれば、今すぐにでも目の前の女を殺そうとしそうになる殺意を抑え込む事が出来た。
「ナージャ様は人付き合いを苦手としている。他人との接触などもっての外。だというのに、見舞いだと?ハ、笑わせる」
もっとも、敵意はどうにもならなかったが。
身長差的にもリーリカを見下ろし、見下しながら、一诺は鼻で笑った。誰のせいでナージャが倒れ込むように眠りに落ちたかを知らずに、見舞い。挨拶。会話。
……不要脸。
恥知らずなその様は、嘲笑せざるを得ない。
「お前がしつこくナージャ様に絡むせいで、ナージャ様が弱ってるんだ」
……焦躁的。
「寝ているのは必要以上にナージャ様の体力と気力を削るお前のせいだという事が何故わからない」
頭痛を感じる程の苛立ちが一诺を襲っていた。
「常日頃からナージャ様に絡み、ナージャ様の時間を潰し、ナージャ様の心をすり減らしているお前が、挨拶?見舞い?」
ギリ、と歯を食い縛る。
「ふざけるな」
殺意を露わにしないよう抑え込んだ、けれど溢れた殺意が滲んだような声色だった。
「今はナージャ様の大事な時間。貴様のような図々しい人間によりすり減らした心を回復させる為の、休む為の重要な時間だ」
……そう、これ以上、不必要な負担をナージャ様に掛けるわけにはいかない。
「ただでさえ貴様のせいで疲弊しているというのにその言動。心だけでは無く、ナージャ様の安らぎの時間すらも害そうとしている警戒対象だと判断せざるを得ない」
そう告げつつも、一诺は既にリーリカを警戒対象として認識していた。
殺意を抱く程に嫌悪感しか湧かない、敵だと。とにかく性が合わない事が本能でわかる。好きになれない事も、無限に嫌いになれるだろう事もわかる。お互いが獣であったなら目が合った瞬間に殺し合いを始めていただろうくらいには、嫌悪した。
「……っ!」
一诺の言葉に、リーリカはむっとした顔になる。
だがその表情に、またもや一诺の機嫌は下がった。怒りたいのは一诺の方だ。既に怒っているが、これでもまだ怒り足りない。
苛立ちのあまり、舌打ちが漏れる。
「你滾吧!」
吐き捨てるように、一诺はそう告げた。
とっとと帰れ、という意味の言葉。理解出来ていないのだろうリーリカは、しかしビキリと怒りの表情へと変化する。一诺の態度から、腹が立つ言葉だと察したのだろう。
言い返そうとしてか怒りの表情のままリーリカは大きく息を吸い、
「リーリカ、そこまで」
「むぐぅっ!?」
ずっとリーリカの斜め後ろに立っていたカーナが、背後から手を伸ばしてその口を塞ぐ。
「言い争いに来たわけじゃないし、姉さんに会いに来る口実だったとしてもリーリカが家に来た本題は俺との勉強会。それは忘れないでね」
「むぅ……」
淡々と告げるカーナの言葉に、リーリカは渋々とだが納得したらしい。リーリカから一诺へと向けられる敵意のこもった視線はそのままだが、少なくとも醜い言い争いへの発展は無くなった。
……しかしこの感覚、前に向けられた敵意はこの特待生か。
先日買い出しに行った際に感じた敵意と同じもの。
その時から敵意を向けられていたという事は、今顔を合わせて嫌悪感を抱かれたわけでも無い。そもリーリカは最初から一诺を不審な目で見ていた事から、その時から敵意はあったのだろう。
……東洋人嫌いか、ナージャ様の傍に居る事への嫉妬か、その両方か……。
恐らくは嫉妬なのだろうな、とリーリカの視線から一诺は察する。
「一诺も、ごめん」
リーリカの口を塞ぎながら、カーナはそう言った。
「リーリカは俺の部屋に連れて行って勉強会するから、もう中に戻っててくれ。迷子癖もあるからリーリカを一人で部屋から出したりはしないし、トイレに行った時にこっそりここに、っていう可能性は潰すから」
「……了解しました」
……やらかしたな。
そう思いつつ、一诺は笑顔の仮面を貼り付け直す。
やらかしたというのは、カーナの目の前でカーナの友人に対し暴言を吐いてしまった事について。とはいっても正直言って、一诺は間違った事を言ったとは思わない。全て、一诺が知る限りの真実なのだから。
……しかし主はナージャ様だが、雇用主は本家当主……。
カーナが本家当主にチクれば、一诺を解雇するくらいは出来るだろう。生理的に相容れない相手と邂逅してしまったが為に発生した争いだったとはいえ、これはまずい。
「ご友人への暴言、お許しください」
だから一诺は、謝罪した。
先に謝罪をすれば無下には出来まい。そう思っての謝罪だ。だが善人であろうとする善意の人な本家当主と奥方ならともかく、相手は感情がいまいち読み取れないカーナ。これで不問としてくれるならば良いが、そうでない場合は色々と七面倒臭い策を練って丸め込み、このやり取りを無かった事にする必要がある。
リーリカによって発生した面倒事に、一诺は再び舌打ちしそうになった。
……ナージャ様への負担と言い、瘟神かこれは。
「無理言ったのはこっちだし、気にするな」
のんびりとしたいつもの口調そのままに、カーナはさらりとそう告げる。
「こっちも今のやり取りは無かった事にするから」
「ありがとうございます」
一诺の首が繋がった。
そもリーリカを連れてこなければこんなやり取りをせずに済んだのだがと思いつつ、笑みを浮かべて一诺はそう言う。わざわざナージャの部屋を教えなければと恨みを覚えなくもないが、それを言ってもしょうがない。
そう思いつつ、これ以上関わりたくも無いと一诺はナージャの部屋の中へと戻る。
……要命鬼が。
部屋に入る際、一诺は横目でリーリカを睨みつけた。
舌打ちはしない。ただひたすら殺意を滲ませ、貴様が嫌いだと告げる為のもの。酷く気に食わないと伝える、八つ当たり染みた睨み。
それは、舐めた真似すんじゃねえぞという牽制のようなものでもあった。
「……ああ、まったく、腹立たしい」
扉を閉めて背中でもたれ掛かり、歯を食い縛りながら獣のように息を吐く。
深い深い、溜め息を。酷く不快だったという息を吐く。この世にあそこまで気に食わない存在が居るとは思わなかった。分家当主は全てにおいて不快さしか感じない嫌悪の対象だが、それとはまた違う。
ただひたすらに、本能的に無理だった。
絶対に相容れない。理解出来ない。とにかく敵。龍の宝に手を出そうとする虫のような愚か者。
一诺は龍と言える程立派な人間では無いが、そのくらいの嫌悪感を抱いた。
……勉強会、というのは厄介だな。
それを口実に、今後もあれはこの屋敷に来るだろう。一诺はそう思った。そしてその分、ナージャのところに来ようとする可能性も高いという事実が不愉快極まりない。
キリキリカチャカチャ。
無音の中、一诺の苛立ちが増えていく。ナージャの穏やかな寝息は室内にある時計のやたらと響く歯車の音に呑まれ、聞こえなかった。
・
リーリカは図々しくも食事まで済ませて帰って行った。
しかし帰ったというのであれば安心だ。万が一リーリカが屋敷に居る時点でナージャが目覚めれば、一诺はそれを報告せざるを得ない。そしてそれを知れば、ナージャは怯えるだろう。
昔のように、部屋に勝手に入られて無理矢理外に出されるのでは、と。
そう思いつつ、一诺は歩く。リーリカがカーナと共にノヴィコヴァ家を出たのは、廊下にある大きな窓から確認したので間違い無い。既に帰ったのであれば終わった話になる為、ナージャに伝えたとしても精神的負担は少なく済むだろう。
「おや」
ノックをしてからまだ寝ているだろうと思い扉を開ければ、ナージャは既に目覚めていた。
「既に起きていましたか。返事も待たずに申し訳ありません」
「いえ、今起きたばかりなので気にしないでください」
謝罪をすれば、ナージャは微笑みながらそう返した。
日が暮れている上に明かりがついていないのでわかりにくいが、カーテンが開いている。外から入ってくる月の光が室内をわずかに照らし、儚いその微笑みを浮かび上がらせていた。
しかしこのままというわけにもいかない為、一诺は室内の明かりをつける。
「……一诺」
「はい」
ナージャに名を呼ばれ、一诺はいつものように目を細めて返事をする。
しかしナージャは何か違和感を感じているかのように少し眉を顰めて首を傾げた。その違和感をハッキリさせようとしているのか、じっと一诺の顔を見つめる。
「一诺、私が寝ている間に嫌な事がありましたか?」
「!」
まさか見抜かれるとは思っていなかった為、ドキリと一诺の心臓が跳ねる。
「…………何故、そう思ったのですか?」
表情が硬かったか。そう思い、一诺は気持ち表情を緩ませる。普通の表情に見えるように、完璧過ぎない程度の笑みを浮かべた。
……あれの事を伝えるつもりではあったが、もう少し後で伝えようと思っていたのに……見抜かれるとは。
一诺の中の苛立ちはまだ収まりきっていない。下手をすれば主観と偏見に満ちたリーリカへの嫌悪感を吐き出しかねない。いっそそれでスッキリするならそれも良いかもしれないが、相手はナージャだ。
ナージャに、そんな醜い感情を晒したくはなかった。
そもそも疲弊しきっていて、どちらかと言えば吐き出したいのはナージャの方だろう。そんなナージャにリーリカへ感じた生理的嫌悪感を吐露するわけにはいかない、と一诺は思う。
……注定的相遇という言葉はあるが……。
素晴らしい相手と出会う、運命の出会い。
一诺はそれをナージャに感じていた。対してリーリカに対しては、真逆の感情を抱いた。絶対に相容れない、好意を抱く事は絶対にあり得ないだろう相手。生涯の敵。犬猿の仲。彼此厌恶。
向こうもきっとそう思っているだろうと、一诺は確信していた。
「表情が硬いのと、声色が硬いのと、気配が少しだけパリッとしているというか、ピリッとしているというか……」
一诺がリーリカへの嫌悪感を抱いていると、それを洗い流すような優しい声でナージャは指折り数えながらそう語る。
「こう、時々私を狙う怖い人達が居る時、一诺が私を守ってくれますよね?その時みたいな、周囲を警戒しながら威嚇しているみたいな、そんな感じに、感じたんです」
……そこまでの違いを、察してくれたのか。
違いを察するには、どれだけ相手を知っているかが重要となる。
つまりナージャは、それだけの違いを察せる程に一诺を知ってくれているという事。ふわりとした笑み。微笑みから見える、一诺への信頼。
それら全てが、一诺の中にあった黒い靄を綺麗サッパリと洗い流した。
「………………」
洗い流したそれを吐き出すように、一诺は深い溜め息を吐く。
「……流石はナージャ様ですね」
見抜かれた嬉しさと隠していたのに見抜かれてしまったという事実により、一诺はへらりとした情けない笑みを浮かべた。
「先程帰られましたが、少々どころでは無く厄介かつ不愉快な客が来ておりまして」
「お客様、ですか?」
リーリカが来ていたとは知らないナージャが、こてりと首を傾げる。
「ええと、それは私関係についてを聞いてきたとか、もしくは一诺を引き抜こうとしたとか、ですか?」
「確かに東洋人の使用人は珍しいですが、私を引き抜こうと思う者はそう居ないでしょう」
正解は前者だ。そう思い苦笑を浮かべつつ言えば、ナージャは膝を抱えて不満そうに頬を膨らませた。
「一诺は優秀だから、いつどこに引き抜かれるかわかりませんよ。だから結構、知らないお客様が来る時は不安です。お客様が一诺を気に入って連れて行こうとしちゃうんじゃないかって」
……ああ、愛おしい。そう思ってくれるという事実も、可愛らしい顔も、仕草も、全てが大事で、愛おしくて、守りたい。
「ありえないから大丈夫ですよ」
溢れそうになるその感情がバレないよう、一诺はくつくつと笑って誤魔化した。もっとも、耳と首が真っ赤になっている事に関しては誤魔化せていなかったが。
一诺自身照れると耳と首が赤くなる事に気付いていないのでさもありなん。
「それに例え天地が引っ繰り返ろうと、私はナージャ様が必要としてくださる限り、あなたの傍に居ますから」
「絶対ですよ?絶対ですからね?」
年相応どころか、珍しい幼さを全開にしてナージャは言う。
「一诺が嫌だって言わない限り絶対ずっと一緒に居ますから、嫌な時は本当にちゃんと言ってくださいね?」
……なら、ずっと一緒に居られるのか。
一诺は、自らナージャの下を離れる気など皆無。そしてナージャは一诺が嫌だと言わない限り手放さないと言ってくれた。
それが一诺にとってどれ程の歓喜を呼び起こすか、ナージャは知らないのだろう。
「はい」
上目遣いで告げられるその言葉に、一诺は無自覚で幸せ全開の笑みを浮かべていた。
「……あれ、でもそうすると、お客様はどういう方だったんですか?一诺があんなにもピリピリするなんて」
「………………」
その言葉にリーリカを思い出し、一诺の顔から一瞬笑みが消えた。
否、笑みは浮かべたまま。けれど一瞬にして、笑っていない笑みへと変化しただけ。それはまるで、笑みが消えたと錯覚させる程の温度差だった。
「……特待生が、ナージャ様に会いにやって来たのですよ」
「え」
出来る限りリーリカへの敵意を隠そうとするが、リーリカへの嫌悪感や敵意から一诺はどうしても顔を顰めてしまう。
「…………特待生が、ですか?」
「カーナ様と勉強会をするという名目で来て、そのままこちらに。ナージャ様に教わりたいお話をしたい、と。当然ながらナージャ様は学校に行くという行為で疲れ果てているので体力回復の為に寝ている、と告げて拒絶しました」
それはもう、ガッツリとした拒絶を。
「ありがとうございます」
ナージャはペコリと頭を下げた。その声色はいつも通りだが、とても真面目な声でもあった。万が一一诺が拒絶していなかったらを考え、恐ろしくなったのだろう。
……そんな事が無いように、俺が居る。
「あ、でもそれでピリピリしてたって事は、特待生、すぐには引いてくれなかったんですか?」
「それはもう。ナージャ様が中で寝ているというのにやかましく」
思い出すだけで殺意が湧く。
実際の会話は酷く短いものだったし、どちらかというと一诺が一方的にまくしたてるというような状態だった。それでも一诺はリーリカを絶対の敵と認識したし、それは向こうも同じだろう。カーナに口を塞がれながらもリーリカが一诺に向けていた敵意に満ちた視線は、雄弁にそう語っていた。
「少々平行線にはなりましたが、元々はカーナ様との勉強会という目的での訪問ですからね。カーナ様がそれを指摘してカーナ様の部屋へと連行してくださったので助かりました。しばらくカーナ様の部屋で過ごしてから、先程カーナ様による見送り付きで帰られましたよ」
「良かったです……!」
心底安心したように息を吐きながら笑みを浮かべ、ナージャは胸を撫でおろした。
「……一诺」
「はい」
ナージャは慈しみさえ感じる優しい瞳を細め、微笑む。
「特待生の相手をして私を守ってくれて、ありがとうございます」
「…………!」
ぶわり、と一诺の感情が搔き乱される。
リーリカを前にした時のような天敵が居る感覚では無く、心地よい感覚。喜びが花吹雪となって胸の中を舞っているような、そんな感覚だった。
「いえ、専属の使用人として当然の事をしたまでです」
喜びのまま、一诺はへにゃりとしただらしのない笑みを浮かべた。
「……それに、聞いていた以上にどうかと思う人間でしたからね」
しかしリーリカを思い出し、すぐにその笑みは消える。
「あんな女をナージャ様に近付けるのはただただナージャ様を憔悴させ疲弊させ悪影響を与えるだけだと確信しましたよ」
思わず嫌悪に満ちた顔をしそうになったが止められそうにないと早々に察し、一诺はナージャから顔を逸らした。隠せているとも思えないが、ナージャにそんな顔を向ける事だけはしたくなかった。
「……えへ」
すると、ナージャのとても嬉しそうな、小さな声が耳に届く。
「ナージャ様?どうされました?」
「いえ」
ナージャに視線を向ければ、ナージャは嬉しそうに頬を染めて一诺を見ていた。
「一诺のそんな顔を始めて見たから、私のまだ知らない一诺を知る事が出来たのが嬉しくて」
口の端が緩みに緩んだその笑みからすれば、その言葉に嘘はないのだろう。
それを理解した一诺は、一瞬でぶわりと体温が上がるのを感じた。じわじわと汗が出て、頭が熱で動かない。一诺は内側で爆発し溢れる様々な感情が綯い交ぜになって、もう泣きそうになっていた。
……そんな反応をされてそんな事を言われては、期待してしまう。
今もこれからもずっと隠し通して最終的には捨てる事になるのだろうこの不相応な恋心が実る事を、期待しそうだった。




