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狐が来たりて鈴を鳴らす  作者: 荻原もも
卯月の頃

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06 謝罪


 窓から差し込む光が瞼を透かし、朝が来たことを否応なしに教えてくれた。楽しげな小鳥のさえずりに混じり、風に踊る木々の歌声が聞こえたことで、泥沼の底にあった意識が急浮上する。


「——痛っ!」


 目を覚ました鈴音が起きあがろうと腕に力をこめると身体のあちこちににぶい痛みが走った。あまりの痛さにうめきながら布団の中へ戻る。

 昨夜の情事の跡が色濃く残る布団は、心地良さとは無縁だが、今は少しでも長く身体を休ませたかった。両目は腫れぼったく、喉はガラガラで、身体中の関節は悲鳴をあげている。手首や腰、太ももといたる所にあざが浮かんでいる。赤紫色に変色したそれらは手のような形をしていた。おそらく、真宵の握力が強すぎたのだろう。


(……痛い)


 身体も、心も。全てが痛くて仕方がない。

 眠っている間に解けたお面をつけることもできず、鈴音は布団の下で丸くなった。昨夜の記憶は悪夢を見たと思いたいが心身の痛みが本当にあったことだと教えてくれる。


(……お母様)


 今すぐ、鷹司の屋敷に戻り、母に抱きつきたい。泣きながらなにがあったのかを話して、母に優しく頭を撫でられたい。きっと母は自分のことのように鈴音を心配してくれるはずだ。

 けれど、


 ——あの時、殺してしまえばよかった!!


 あの日に聞いた母の慟哭が脳内をよぎったことで鈴音は考えを一蹴させた。帰りたくてもその家がない。父は鈴音を受け入れてはくれないし、母も拒絶するに違いない。

 鈴音は重たい身体を引きずって、鏡台の前に移動した。引き出しを開けて、くしを探した。蝶が乱舞するあの櫛を。悲しい時や寂しい時はあの櫛を胸に抱くと不思議と気分が晴れた。きっと今の陰鬱な気分も晴らしてくれるに違いない。

 けれど、見つからない。いつも置いてあるはずなのに。

 次に下の段を開けた。一段目と同じように空白が広がっている。次の段も、その隣の段も全て開けて奥まで確認するがなにもない。


「な、んで」 


 ここに置いてあるはずなのに。どこにもない。


「どこ! どこにいったの?!」


 声を荒げて、空っぽの引き出しを逆さにして櫛を探していると背後から嘲笑ちょうしょうが聞こえた。鈴音は勢いよく背後を振り返る。


「お母さ——……き、きょうさま」


 そこにいたのは母ではなかった。昨日とは意匠いしょうが異なる黒紫色のドレスに身を包んだ桔梗が腕を組みながら鈴音を睥睨へいげいしていた。


「あら、鳳家のご令嬢とは思えない、無様な格好ですこと。一瞬、どこの夜鷹かと思いました」


 軽蔑と怒りが宿る目は鈴音の肢体を舐め回すように辿る。


「身体もとても貧相で、真宵さまがお可哀想ですわ」


 確かに豊満な肢体を持つ桔梗と比べて、鈴音の身体は貧相だ。慎ましかといえば聞こえがいいが、実際は微かな膨らみがある程度。それに加えて、薄い腹部に小さな臀部でんぶは異性が好むものとは思えない。

 鈴音は布団を掴むと身体に巻きつけた。これ以上、女性として魅力的な桔梗の前に貧相な自分をさらけ出したくない。


「それに、その目……」


 は、として顔を伏せる。お面が外れていたことを忘れていた。


「なんとも気味が悪い」

「……すみません」

「人ならざる色の瞳など、真宵さまが本当にお可哀想でなりませんわ。我が君はまがい物をつかまされたのですね」


 鈴音は顔を歪めた。反論することもできず、ただただ時間が過ぎ去るのを待とうとしていると桔梗が鼻で笑った。


「わざわざ荷物を運んで差し上げたのに、感謝の一つもないのですね」


 桔梗が腰に手を当てると顔を左右に振った。柔らかな尾と耳もそれに合わせて揺れる。

 鈴音が垂れた前髪の隙間から様子を伺うと、桔梗の背後には昨日、鳳の屋敷から運んできた荷物の山が築かれていた。


「すみません。その、眠ってしまって、運ぶのを忘れていました。ありがとう、ございます」


 自分で運ぶと言ったのに忘れていた。その事実に鈴音は顔を真っ青に染めると深く頭を下げた。畳に額を擦り付けて、今の自分にできる精一杯の誠意を見せようとすると桔梗がまたもや鼻で笑った。


「いいご身分ですこと。さすが鳳家のご令嬢さまですわ。人を使うことに慣れているだなんて」


 くすくす、と軽やかに笑いながら桔梗は部屋から出ていった。

 一人残された鈴音は自分が泣いていることに気がついた。なぜ泣いているのか、自分でもよく分からない。ただ、目尻からはとめどもなく涙が溢れてきて、白皙はくせきの頬を濡らし、顎を伝って、畳へと落ちてゆく。

 涙を止めようと手の甲で擦るが、なかなか止まらない。


(お面をつけたら、止まるはず)


 お面は感情を全て抑え込んでくれる。

 これを付ければ、誰も鈴音が泣いているとは思わない。

 幼い頃からそうだ。鈴音が父から向けられた悪意の言葉に泣いていた時でさえ、母は気が付かなかった。

 そう考えてお面をつけて、紐を結ぶが涙は止まる気配すらない。それどころか、より一層と涙があふれてくる。

 お面が顔に張り付く不快さを感じながら、鈴音は自らの腕に爪をたてた。真宵の手形が残る肌に爪を食い込ませると、痛みと共にじわりと血がにじむ。ガリガリと爪を食い込ませては引き、更に食い込ませる行為を何度も繰り返し続けた。

 涙で濡れた畳に、赤い花が咲くのを見て、鈴音はまばたきを一つ落とした。


(……いっそのこと、死んでしまいたい)


 死んでしまえば、お家のことも、お国のことも考えないで済む。父から幻滅されることも、これ以上母を悲しませることもない。

 鈴音が死んでも悲しむ者はいない。

 それよりも死んだほうが今よりも物事がうまく進むはずだ。忌み子である自分がいなくなれば父は喜ぶ。生まなければよかった、という母の願いは叶う。真宵には自分のような歪な存在ではなく、常識と礼儀が備わった華族の娘が送られるはず。


(最初から、そうすればよかったのだわ)


 そう考えた鈴音は、羽織だけ纏うと桔梗が運んでくれた荷物の山へと向かった。その中からあの櫛を取り出すと、両手で包み込むように胸の上に重ねた。


「……お母さま、ごめんなさい」


 ——親不孝でごめんなさい。

 ——普通の眼で生まれなくてごめんなさい。

 ——最後まで悲しませて、ごめんなさい。

 これで許されるとは思わない。

 それでも、今は謝罪を繰り返すしかできなかった。自分の存在のせいで、歪んだ全てに。鈴音は何度も謝り続けた。何度も心の中で謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。


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