07 母のように
腰を掴む手が離れると、仄かな熱だけが肌に残った。
今宵の伽が終わったことを悟った鈴音は、鉛のように重たい身体を起こすと着物をかき寄せて、胸元を隠した。
(どう話しかければいいの)
広い背中を見つめながら考え込む。親睦会の招待を受けたことをどう真宵に伝えればいいのか分からない。
(昼間は話しても怒られなかった。それなら、伽の間だけ喋らなければいいということ? なら、今話すのは大丈夫かしら……?)
妖魔の長である真宵は、国からの討伐依頼の他に己の一族の統治もしなくてはいけない。多忙の身の上のため、今ここで話さなければ、次はいつ機会があるのか分からない。
けれど、ここで話しかけて不興を買うのは避けたかった。
鈴音が悶々と悩んでいるうちに真宵は着替えを終えたらしく、無言で退室しようとしていた。
「……あ、あの」
立ちさそうとする背中に鈴音が慌てて声をかけると、真宵は足を止めて振り返った。澄んだ蒼い瞳には微かな驚きが見える。鈴音から声をかけたことが意外だったようだ。
少し待ってもお叱りの言葉がないことに、鈴音はほっと胸をなでおろしながら手紙を真宵に差し出した。
驚きに染まる瞳は、手紙を見ると訝しむように細められる。怒っているようにも見えて、鈴音はそれとなく視線を落とした。
「なんだ、これは」
「その、三条家の潔子さまという方から、親睦会を開かないかとお手紙をいただきました」
真宵は手紙の内容を直接確認する気がないようで、腕を組んだまま「親睦会だと?」と吐き捨てるように言った。
「はい。えっと、……妖魔の長さまと婚姻を結んだ華族のみで集まりましょう、と。それで、六月一日に帝都で開かれるそうです」
それで、と伺うように控えめに見上げた。
「旦那さまは、どうなさいますか」
その問いかけに真宵はすぐには答えない。
「俺は忙しい。重要度の高い案件以外、報告は不要だ。今後、協定に関してなにか催事があればお前一人で参加しろ」
たっぷりと考えた末に発せられた言葉を胸に刻み込むように、鈴音は頭を下げた。
「承知いたしました」
お面を畳で擦るように深く頭を下げて、大人しく待つ。
しばらくして襖が閉じる音が聞こえた。廊下を歩く足音が小さくなってから鈴音は立ち上がった。力の入らない足を引きずるようにして鏡台の前へ移動する。
「……ひどい格好」
鏡台を覆う布を取り除けば、艶めく鏡面には貧相な女が影が映り込む。昔よりかは幾分か肉がついてきたが、それでも肋骨が薄ら見える身体はどうしても貧しさを隠せない。
鈴音はため息をひとつ落として、指先で皮膚をなぞった。冷え切った身体に刻まれた痣をひとつひとつ撫でる。薄い腹から慎ましやかな胸、折れそうなほど細い首筋を辿り、——最後にお面を外して現れた顔に触れた。
「まるで私のほうが幽霊みたい」
目の下に刻まれた隈に血の気が失った唇、白い肌と相まって自分のほうが人ならざる存在のようだ。
鏡に映る自分を見ているとなぜか涙が溢れてきた。はらはらと、とめどなく。溢れて、こぼれて、止める術が分からない。感情を制御するため、再びお面をつけようとして、——やめた。お面を置くと代わりに鏡台の棚を開ける。風呂敷の包みを解くと中から現れた櫛を見て、更に顔を歪ませた。
「……お母さま」
折れた櫛が落ちないように風呂敷ごと持ち上げた鈴音は、それを抱きしめるように胸に抱く。もう会うことのない母の面影を追い求めて、幼い子どものように鈴音は泣いた。
「……鈴音は、会いたいです。お母さまに嫌われていても、また昔みたいに撫でて欲しいです」
転んで怪我をすれば母だけが心配して手当てをしてくれた。ひもじくて悲しかった時、母は「内緒よ」と甘いお菓子をくれた。外の世界を知らない鈴音を連れ出して、色んなものを見せてくれた。
みんなが鈴音をいないものとして扱う中、母だけが鈴音を人間として扱ってくれた。
鈴音の世界は大好きな母で構築されていると言ってもいい。母の本心を知った今でさえ、嫌いにはなれない。
「いっぱいお話ししたいこと、たくさんあるんです」
料理や掃除、お裁縫ができるようになったこと。母以外にも安心して話せるようになったこと。猫又や化け狸は妖魔であっても可愛かったこと。
——叶わないと解っていながら、願わずにはいられない。
しばらく、静かに泣き続けていた鈴音は誰かの視線を感じて顔をあげた。涙で霞む視界の中、窓の外には夜空が広がっており、消えてしまいそうな残月がかかっている。
「……あの子は無事に帰れたかしら」
ふと、先ほど逃がした子狸が気になった。
あの狸の子どもは真宵が任務で討伐することとなった妖魔なのは、なんとなくだが理解していた。本当ならば部外者である鈴音が救うべきではないのだろう。
それでも、放っておくことはできなかった。大怪我を負って、震えている子狸を放置などできなかった。
「どうか無事で」
それが例え間違いだとしても、鈴音は祈り続けた。




