06 絆されていく
伊紗那は人間という生き物が嫌いだ。
たかが畑を食い荒らしたぐらいで鍬を手に追いかけ回され、罠にかかった同族を〝たぬき汁〟などという吐き気を催す料理に変えられたこともある。他にも奴らが妖狸にした所業の数々は涙なくては語れない。
積年の恨みを晴らすために人間どもを化かして遊んでいたら、人間の犬に成り下がった妖狐に目をつけられてしまった。他の仲間が死んでいき、一匹生き残った伊紗那は故郷に帰り、父に泣きつこうと考えた。八百八狸を統べる父ならことの顛末を聞けば、きっと亡き仲間の敵討ちをしてくれるに違いない。
そう思い、命からがら逃げようとしたが妖魔の長は余興を楽しむかのようにじわじわと伊紗那を追い詰めた。伊紗那が幻術で撹乱しようにも妖狐の長には微塵も通じない。実力も妖力も奴の足元にも及ばず、もう駄目だと伊紗那が絶望した時、突如として現れた女に抱き上げられた。女が人間だと知り、その身体をずたずたにしてやりたいと思った。
けれど、妖狐の長とのやりとりを聞いていると女は対等の立場であることが伺えた。あの傲慢ちきないけ好かない妖狐の長が——確か鈴音という名の——女には少し弱く見えたため、利用することにした。
化け狸の本性は人を化かすことに有り。ここはか弱い子狸を演じて、妖力と体力が回復するまで機会を伺うのが賢明だろうと判断した。
(こいつ、邪魔だな)
手当てを受け終えた伊紗那が子狸らしく、少女の膝の上で丸まって寝たふりをしているとちくちくと背中に棘が刺さる気配がした。伊紗那は薄く瞼を持ち上げて離れた場所で自分を睨み続ける人物を盗み見た。妖狐の女——いや、男だろうか。変化の術は全身に薄らと妖力を張るので、目を凝らせば元の姿が視認可能だ。
(早くどっか行ってくれ)
心の中で切に願う。人間の膝に乗って、撫でられるだけでも不愉快なのに、忌まわしい妖狐と同じ空間にいるのは鳥肌ものだ。居心地が悪くて伊紗那が寝返りを打つと頭上で小さな笑声が聞こえた。
「起こしちゃった?」
顔を持ち上げると真っ赤な瞳と視線がかち合う。あれほど怯えていたのに、今は穏やかで春の日差しのように笑うので伊紗那は面食らう。
「もう少し、おやすみなさい」
小さな手が優しく背中を撫でる。ここは妖狐の魔窟だ。いくら安全地帯とはいえ、油断をしてはいけないのに気がつけば伊紗那は眠ってしまった。
※
伊紗那が目を覚ました時、窓の外は暗くなっていた。
(あの娘はどこだ?!)
この屋敷での唯一の安心処である少女の姿が見当たらないことに伊紗那は混乱した。もし伊紗那が一匹でいると知られれば、妖狐たちに殺されてしまう。まだ妖力が完全に回復していない状態で奴らに挑んでも勝算はない。
伊紗那は少女を探すために立ち上がった。その拍子になにかが毛並みを滑り、ぱさりと音をたてて畳に落ちる。見ると少女が羽織っていた着物が畳の上に広がっていた。
(なんで僕に?)
不思議に思い、羽織りを鼻先でつつくと背後から冷ややかな声が投げかけられた。
「それを傷つけるな」
驚きに毛を逆立てた伊紗那は牙を向く。
襖が開き、そこに妖狐族の青年が立っていた。光を弾く黄金の髪が美しい青年は、その整った容貌を怒りに歪ませて伊紗那を睥睨した。
「それはお前よりも価値があるものだ」
「ふ、ふん! お前ら化け狐の言うことなんて聞くかよ!」
伊紗那は虚勢を張る。本心は恐ろしくて仕方ないが、自分は偉大なる妖狸の長の息子なのだ。たかが妖狐一匹に怯えたままではいられない。
牙を見せて唸ると青年は、瞳にますます険を宿らせた。
「化け狸風情が。温情で生かされていることを理解した上での行動か?」
「なら殺せばいいだろ! できないくせに偉そうなこというなよっ!」
「いいだろう。ならば、望み通り殺してやる」
青年が纏う妖力が滲みながら膨張していく。
(幻覚か?!)
妖力に触れないように後退りした伊紗那は、出口がないか視線を素早く彷徨わせた。
「ぼ、僕が死ねばあの小娘が悲しむぞっ」
「ふっ、たかが狸の子ども一匹。幻術でどうとでもできるさ」
化かすのが大得意で幻術に対して耐性がある妖狸と違い、人間は幻術に対して耐性がない。見たところ青年の得意分野は幻術だ。伊紗那を駆除した後、少女に幻覚で子狸が生きているように視せるつもりなのだろう。
伊紗那が死を覚悟した時、場違いの足音が廊下から聞こえた。それとほぼ同時に青年の姿が霧が胡散するかのように消え去った。青年が開け放ったはずの襖も閉められており、伊紗那が目覚めた時と同じ光景が広がっている。
「あら、起きたの?」
すっと襖が開いたらお面をつけた少女が顔を覗かせた。その背後に静々と付き従う人間の女——に化けた妖狐を見て、伊紗那は心臓がはち切れるかと思うほど驚いた。
(まさか幻覚か? 全然気が付かなかった)
幻術を見破れなかったことに歯噛みしていると目の前に小さな皿が置かれた。一口程度の大きさに切り分けられた肉が置かれている。匂いを嗅いで、毒が入っていないことを確認してから少女を見上げた。
少女はお面の紐を解きながら「食べないの?」と小首を傾げている。
「お腹、空いていないのかしら」
「さあ、それか好みじゃないのかも。これなら食べるかしら?」
妖狐も小皿を置いた。そこには茹でたさつまいもやにんじんが乗せられていた。匂いを嗅いでも毒はなさそうだ。
(お前たち化け狐が用意したやつなんて食えるわけがないだろ!!)
しかし、昨夜からほぼ食べていないため、お腹が空いているのは事実。背に腹はかえられないと伊紗那は少女が持ってきた肉だけを食べることにした。こんな量じゃ腹は膨れないが、妖狐の持ってきた物は絶対に口にしたくはない。
「ゆっくり食べないと喉詰まらせちゃうよ」
伊紗那が肉を咀嚼していると少女は毛並みを梳くように指先で何度も撫でた。食べることを邪魔されたことに伊紗那が怒ろうとするが、寸でのところでやめた。
あまりにも少女が優しく撫でるから。
あまりにも少女が嬉しそうに微笑むから。
それなのに、どこか寂しそうな顔をするから。
少しだけ、許してやろうと思った。
※
「……またなのね」
草木も眠る丑三つ時。夜の帳も色濃くなり、誰もが寝静まる中、玄関口で姦しい声が聞こえたと思ったら悲しげな声がすぐ真横から聞こえたので伊紗那は顔を持ちあげた。微かな月明かりに照らされた横顔が物憂げに染まっているのが見えて、つい心配になってしまった。
寝床から起き上がった伊紗那は少女——鈴音の元に駆け寄ると鼻で手の甲を軽くつつくとわざと声を高くして鳴く。
鈴音はどこか悲しげに微笑むと素早くお面を装着して伊紗那を抱き上げた。なぜお面なんかを着けるのか分からず、伊紗那は手を伸ばして爪でお面の顎部分を引っ掻く。妖狐の監視はあれど、今はふたりきりなのだから、こんなもの着けて欲しくはない。
「少し、夕霧ねえさまのところに……いいえ、怪我はまだ治ってはいないけれど、逃げたほうがいいかしら」
鈴音は窓を開けると伊紗那を踏石に置いた。
「もうすぐ、旦那さまがいらっしゃるわ。さあ、お逃げなさい。今度は、悪戯なんかしちゃ駄目よ?」
そう言って、鈴音は伊紗那の頭を撫でた。
「元気でね。可愛い化け狸さん」
音もなく窓が閉められる。完全に閉じるその前に伊紗那は隙間から身体を捩じ込んだ。
(なにをしているんだ僕は!!)
無意識での行動に伊紗那本人が驚いた。完全とは言えないが妖力も体力もある程度戻ってきて、さらに逃げる絶好の機会だったというのに。
それは、鈴音も同様のようでお面をつけていても驚いているのがわかった。
(くそ! こんなはずじゃなかったのに!)
裾を噛んで引っ張った。いくら憎い人間とはいえ、妖狸にも義理と人情というものが存在する。救ってくれた恩返しにこの魔窟から逃がしてやろうと思った。
けれど、鈴音は首を振る。伊紗那の頬を掴んで、視線を合わせると「大丈夫よ」と声をかけた。
「心配はいらないから、まずは自分のことを第一にしなさい。ね?」
きゅう、と伊紗那は喉を鳴らした。
人間なんぞの命令に大人しく従うわけがない。どうにか鈴音も連れていけないか頭を素早く回転させる。幻覚を視せようと、目を合わせた時、尻尾に激痛が走った。
(離せ!!)
伊紗那は痛みに叫びながら尻尾を掴む手に噛みつこうと身体を捻った。傷口が痛み、思うように身体を動かすことができない。悔しさから歯噛みすれば、妖狐の長が嘲るように口角を持ち上げた。
「ずいぶんと回復したみたいだな」
うるさい、と内心で吐き捨てながら伊紗那は鈴音の無事を確認した。
危惧した通り、鈴音は妖狐の長に恐怖を抱いているようだった。畳にへたり込み、小さく震えながら妖狐の長と伊紗那を交互に見上げている。一言も言葉を発しないのは気掛かりだが、怪我をしていないのなら良かった。
(待っていてね。必ずこいつを倒すから!)
生きた年数は桁違い。妖力の質も量も伊紗那の方が低い。
それでも負けるわけにはいかないと意気込むと、妖狐の長はどこか楽しそうに喉を鳴らす。
「せっかく助かった命を無駄にするとはな。無様に助けを求め、泣きながら逃げ惑えばいいものを」
妖狐の長は尻尾を掴む手を開いた。
硬い畳に顔から着地した伊紗那は勢いよく身体を起こすと鈴音の前に立ち吠え続ける。指一本触れてみろ、手首ごと喰ってやると威勢を張った。
「俺は今、機嫌が悪い。今すぐ立ちさるなら見逃してやる」
絶句した伊紗那を一瞥すると、妖狐の長は鈴音へ近づき、その細い腕を掴みあげた。
「っ」
鈴音が息を詰める音が聞こえた。人間というだけで脆いのに、あれだけ細い腕を無遠慮に掴めば痛いのは当たり前だ。
正気に戻った伊紗那が更に吠えようと空気を吸い込んだ時、
「疾くと去ね」
鋭い眼光が伊紗那を射抜く。
恐怖で固まる伊紗那など初めからいないかのように妖狐の長は鈴音を押し倒した。無骨な手が鈴音の衣を剥ぎ取り、あらわになった肌を撫でる。蝋燭の灯りに照らされた肌は、目を背けたくなるほど全身を痣に覆われていた。
(なんだあれ)
痣は腕や足を庇うように広がっている。元が白い分、青紫色の痣は見るからに痛々しい。驚きから硬直する伊紗那をよそに妖狐の長は淡々と、まるで業務をこなすようにことを進める。
その間、鈴音はまったくもって抵抗しなかった。時折、伊紗那を気にする素振りを見せるが吐息を飲み込み、耐えいるようにじっとしている。
(なんだよ。なんで……っ)
——これ以上、見てはいられなかった。
窓から飛び降りた伊紗那は闇を裂くように走った。獣の足が人型のものとなり、全身を覆う毛がなくなっても。感情の赴くがままに、走り続けるしかできなかった。




