悪夢
同ペンネームで別サイトにも載せている一次創作の小説になります。
異世界ものファンタジー路線の物語ですが、しばらく主人公は現実世界で行動しています。主人公くんピンチの巻。引き続きよろしくお願いします。
————毎晩夢を見ているうちに、明晰夢を見る癖でも付いてしまったんだろうか。
気が付くと、手元も見えない暗闇の中にぽつんといた。戸惑うより先に、また夢を見ているのだと眠っていながら察する。父さんの夢は今朝も見たのに学校でも見てしまうなんて。タイミングに関係なく、眠ると毎回見るようになっちゃったのかな。寝覚めのいい夢とは言えないし、ちょっぴり困る。
そう思っていると、いつもと何かが違うのに気が付く。普段ならすぐに父さんの声がするはずなのに、今回はいくら待っても聞こえてこない。代わりにカツン、カツンと闇に反響する靴音が普段よりずっと早く聞こえ始めた。しかも、よく聞くと普段の夢で父さんが立てる靴音とも違う。ブーツよりもっと硬い印象……例えるなら女性が履くようなヒールの高い靴が立てる音のように思える。
どういうことだろう、と若干困惑しつつも、夢の中の僕は靴音の発生源を探す。
しばらくきょろきょろしていると、暗がりの中、僕の遠く背後にぼんやりと明かりが灯っているのが見つかった。靴音もどうやら後ろから聞こえているようだ。照明も無いまま暗闇を歩くのは本来なら無茶でしかないけど、夢の中はある意味何でもありだ。夢の僕は闇に目が慣れているかのように、迷いなく明かりの方へ歩き出す。
段々と明かりが近づくに連れて、そこに人影があったことも分かった。靴音の元はこの人からだろう。もう少し近付こうとして、途中で出来なくなってしまった。あと10メートルほど、というところで体が何かにぶつかってしまったのだ。手を前に出しても虚空を掴むだけで、障害物があるわけではなさそう。まるでRPGゲームによくある、入れないエリアの見えない壁みたいだ。仕方なく、その場から人影を眺めることにした。
人影は自分の身長ほどもある杖を片手に、その先端の透明な石を光らせて照明を得ているようだった。目深にかぶったフードと長いローブのせいで、光があっても顔や服装の詳細は分からない。
夢で見る父さんと共通点のある服装だけど、父さんと大きく違うのは身長がやや小柄で華奢に見えることと、フードから長い髪が覗いて見えること……たぶん女の人だ。
彼女は僕視点で向かって左に歩いている。当てもなく彷徨っているわけではなく、明確な目的地に向かうかのような足取りに見える。
やがて、ある地点で歩みが止まった。けれども、女性の視線の先には何かがあるようには見えない。
首を傾げていると、女性は手元の杖を目の前の虚空に掲げた。すると、杖の宝石の輝きが強まり、風が起こったように女性の服や髪が微かに揺れる。同時に、宝石の先端から波紋のようなうねりが生まれ、その中心から光が溢れ返った。
女性の斜め上の虚空から溢れた光はカーテンのように広がっていくと、ぼんやりと扉のようなシルエットを出現させた。真っ暗闇の中で見る光に満ちた大扉は、地獄に突如現れた天国の扉のような場違い感と、相反する神秘的な雰囲気に満ち満ちていた。
(……何か、魔法使いみたいだ)
昔やったファンタジー系のRPGゲームでも、魔法の杖から放たれた魔法が暗闇を一瞬で照らしたり、ワープのための魔法陣を呼び出したり、なんて常識外れなことをやってのけていたけれど。夢とはいえ、今見ている光景はそんな現実離れした驚きと興味深さを感じさせた。
扉が現れたのを確認したのか、女性は杖を降ろした。そして、迷うことなく扉に手を伸ばし、閉じられたそれを開けようとした……その時だった。女性の手が触れる前に扉が音も無く動き、流れるようにすうっと両開きに開いた。
次の瞬間。女性が息を呑み、後ずさる。
同時に、光に満ちていた扉の輝きが一瞬で消えていき、一転して不気味な灰色の光を纏う扉へと早変わりした。
開け放たれた扉の先はここからではよく見えない。けれど、その奥から何か細長い腕のようなものが何本も伸び、気味の悪い動きで女性に向かっているのが分かった。
「————逃げてください!」
僕は咄嗟に叫んでいた。何が起きているか分からないのに、ここからあの人に聞こえる保証も無いのに、何故かそうしなきゃという焦燥感に突き動かされたのだ。
女性が僕の声に気が付いたかは分からない。けれど、彼女は反応するかのように後退し、反対側へと走り出した。腕は女性に追い縋るようにどこまでも際限無く伸びていき、指先を何度もその服に掠らせる。
(お願い、逃げ切って……あれに捕まったら駄目だ……貴女が消えたら■も消えてしまう……!)
————横入りするかのように湧いた覚えのない思考に、自分でぎょっとした。
僕は一体何を考えてるんだ?あの人が消えたら、一体何が消えるって思ったんだ?
戸惑いで視線が逸れたその一瞬で、事態が動いた。それも、恐らく望ましくない方向に。
見ると、伸びた腕の内の数本が女性の腕や足に纏わりつき、その動きを封じていた。逃げようともがく女性に構うこともなく、腕のようなものはぐるぐると女性に巻き付き、がっちりと拘束する。そして、身動きの取れない彼女を無彩色の扉へ引き寄せ、暴れるその身を呆気なく扉の奥へ引きずり込んでしまった。何本も伸びていた腕の最後の一本が引っ込むと、やがて灰色の扉は音も無く閉じ、まるで幻のように掻き消えてしまった。
(……なん、だったんだ、今の)
そう思った瞬間。ぐらり、世界が大きく揺らぐ。地震かと思って身構えていると、目の前に信じがたいものが映った。
ピキピキ、パキパキ、まるで氷かガラスが軋むような硬い音と共に、真っ暗闇の空間がひび割れて崩れ出した。比喩でも何でもなく、何もないはずの空間にはっきりと白い亀裂が走っているのだ。
ひびから零れ落ちて降り注ぐ闇色の破片を腕で防ぎながら、困惑に支配された思考を巡らせる。
先程から見ている光景の意味がまるで噛み砕けない。夢はいつだって意味不明なものだ。でも、今見ているこれは、父さんの夢よりもずっとずっと意味が分からなくて、何より薄ら寒く不吉で不気味だ。意味があるのだとして、一体僕に何を伝えようとしているんだろう。
まるで、世界が終わるのを見える形で見せつけられているかのような。そんな喪失感と絶望感を覚える。
こんなに夢見の心地が悪い夢も久々だ。それこそストレスフルだった一年生の頃以来かもしれない。ああ、早く覚めてくれないかな。今すぐこの空間から抜け出したい。
「————まだ夢だと思っているのか?」
不意に背後から聞こえた、覚えの無いはずの声。冷たく暗い響きのそれに、ぞくりと寒気が走った。
恐る恐る振り向くと、そこにはさっき校庭で見かけたあの人が立っていた。ゆらりと立つその姿は霧や霞のように掴み所が無いのに、こちらを射すくめるような眼差しはやけにはっきりとした輝きを湛えている。これも夢の出来事だろうか。でも、それにしては何かが違う。声の響きも、存在感も、まるで僕のすぐ傍にいるかのような……
「これは、お前がいずれ目の当たりにする結末……お前がどう足掻こうとも覆らない未来だ」
人影が一歩、また一歩、僕との距離をゆっくりと詰める。
「天が堕ち、人が堕ち、全てが地の底へ飲み込まれる未来を、お前は救うことなどできやしない」
近付かれるごとに、一歩、また一歩、僕は後ずさっていく。しかしすぐに、行く手を遮る感触が背中に伝わる。
「お前がいくら人を導き、天に希望を満たそうと無駄なこと。我らがいる限り、天に■は架からない」
さっきから何について話されているのか分からない。一字一句身の覚えのない脅し文句だ。理解の及ばないことへの恐怖と、追い詰められる切迫感で指先からすうっと熱が逃げる。これと目が合った時に覚えた、心臓を掴まれているような感覚のせいで震えが止まらない。
目と鼻の先まで近づいた人影が、こちらへゆらりと腕を伸ばす。何をされるか分からなくても、嫌な予感が全身を駆け巡った。それなのに、体はそこから一歩も動けない。そのままその手が僕の首を勢いよく掴む。気管を狭められる感覚でひゅっと息が漏れる。
「何故なら、我らは“禍い”そのもの……お前たちが希望と謳うものを厭い、禍いと成し、崩壊を進める使者であるがゆえに……」
ぎりり、食い込む勢いで指が首を絞めつける。息が、出来ない。目の、前が、霞んで、いく。
「未だ目覚めぬ希望に、禍いに抗う力など皆無。露の如く、落ち零れて屈するがいい」
夢だ。これは夢だ。これは夢だ。夢のはずだ。夢で、あってくれ。お願い、はやく、はやくはやく、はやく覚めて……!
「————っ!ちっ……運の良い奴め」
気を失いかけた寸前。人影は何かに気が付いたように息を飲んだ。すぐに苛立ったように舌打ちを一つ、そのまま呆気なく僕の首を解放する。反射的に息を大きく吸うと、酸欠だった肺や頭が急速に酸素で満たされた。
「……命拾いしたな。次はこうはいかない」
息を吸い込んだ拍子にひどく噎せ、涙で視界が滲んだ先。さも憎らしそうに吐き捨てた人影が、暗闇に溶けゆくように姿を眩ませた。その瞬間、テレビの電源が切れるように、僕の意識もぷつりと途切れた。
ハッと息を飲んで跳ね起きる。
辺りには暗闇も、崩れゆく世界も、薄気味悪い人影も、何も無い。あるのは、カーテンで囲まれた簡素なベッドだけ。
(————ゆ、夢か……)
走った後のように浅くなった呼吸を時間をかけて落ち着けると、溜め息と共に再びベッドに沈む。
夢で良かった。
少しずつ落ち着きを取り戻し始めた頭が、最初に思い浮かべた言葉だった。
殺されかける夢そのものは悪いものじゃない、なんて夢占いを調べた時に見かけたけど、実際に見ると後味が悪いことこの上ない。夢だったはずなのに、まだ首元が締め付けられている気がする。こんなにひどい夢、何なら生まれて初めてかもしれない。
ふと、違和感のある額を拭うと、汗で手の甲がぬらぬら光っていた。意識してみると、全身も何だかじとじとして気分が良くない。休むためにここに来たはずなのに、余計疲れた気がする。
(汗、ひどいな……)
保健室は適度にクーラーが効いていて涼しいだけに、汗が冷えて体が震える。先生にタオルでも借りようと思い起き上がると、上履きを履いてベッドから降りた。見ると、仕切りのカーテンが何故か中途半端に開いている。先生が覗き込んで閉め忘れたのかな、なんて考えながらカーテンを開けた。
「————びっくりした。何だ、君か」
聞こえてきた声にきょとんとする。振り向くと、見覚えのある金髪男性が目を丸くしてこちらを見ていた。
「あ、アビガイルさん、じゃなくて、アビガイル先生……?」
保健室の先生用デスクの傍に立つ、背の高いその人。アビガイル先生は「よう」と気楽な調子でひらりと手を振った。
「あれ、あの、何で……?保健室の先生は……?」
「ああ、職員室で見かけたな。教育指導の先生と何やら話し込んでいたが。それにほら、これ見てみな」
そう言うと、アビガイルさんはデスクに置かれていた紙切れを僕に見せた。そこには確かに知っている筆跡で「職員室に行っています。すぐ戻ります」と書いてあった。留守中に僕が目覚めても心配しないように残しておいてくれたのだろう。
でも、休んでいる生徒がいるのに保健室を空にしなきゃいけない用事って、一体何だろう。分からないけど、いずれにせよタオルは借りられそうにないな。
「それはそうと、大丈夫か雨宮?随分汗をかいているようだが」
メモを元あった場所に置き、アビガイル先生が尋ねる。それはそうだ、こんなに涼しい部屋でびっしょり汗をかいているなんて、かなり不自然に見えるだろう。
「あ、ええと、ちょっと嫌な夢見ちゃってたみたいで……」
何と説明すべきかも分からなかったので、苦笑い交じりに正直に話す。夢が原因で汗だくになる理由もピンと来てもらえるか怪しいけど、事実は事実だしそうとしか説明できない。
「そうだったのか……体調が悪くてここに来たんだろうに、災難だったな」
けれど、アビガイル先生はすんなり納得してくれたらしい。労わるような口調で返事してくれた。
「あの、先生はどうしてここに?」
今度は僕から尋ねてみる。そういえば、彼がここにいる理由は何だろう。保健室の先生に用事があるなら、職員室で見かけたと言っていたし、その時に済ませるだろうに。
「あ、ああ、ちょっと人を探していてな」
大した質問のつもりはなかったけど、何故かアビガイル先生は一瞬困ったように顔を曇らせた。すぐに普通の表所に戻ったものの、ふとした表情の変化に若干の違和感を覚える。
「人、ですか?」
「この部屋に入っていくのを見かけた気がしたんだが……休んでいる時に誰か出入りしたような覚えはないかい?」
「ううん、どうだったかなあ……」
記憶をさかのぼってみるけれど、途中で物音が聞こえて起きた記憶も無いし、誰かが入ってきた気配にも覚えは無い。飛び起きる瞬間まではかなり深く眠っていたのだと思う。
その旨を伝えると、アビガイル先生はそうか、と一言難しい顔つきになって顎に手を添えた。何か考え込んでいるようだけど、何となく悪いことをした気がして「お力になれなくてすみません」と頭を下げる。
「いや、気にしないでくれ。俺の方こそおかしなことを訊いてすまないな」
僕の様子にアビガイ先生は表情を緩めた。
「雨宮、ここにいたってことは具合が悪かったんだろう?今は調子どうだ?」
尋ねられて、改めて自分の状態に意識を向ける。起き抜けはあまり気分が良くなかったけれど、気付けば頭痛はだいぶ軽くなっている。ひとまず、これなら戻れそうだ。
「はい、だいぶ良くなりました」
「それは良かった。でもあまり無理をしないようにな。試験も近いんだろ?」
「はい、あと一週間で本番で……」
「それなら尚更だな。体調管理でこけたら頑張りも水の泡だぞ」
「肝に銘じます……」
今回の頭痛の原因かどうかは分からないけど、確かに最近無茶な夜更しが続いていたのは事実だ。さすがに今日は早めに寝よう。
「さて、探し人もいないみたいだし、俺は失礼するよ。俺がここに来たことは内緒にしておいてくれ」
そう言ってアビガイル先生が踵を返す。確かに無関係の先生(しかも非常勤講師)が保健室にいたなんて、事情を説明するのが面倒になるだけだ。とはいえ、やましいことをしていたわけでもないだろうし、僕は「分かりました」と頷く。
「じゃあな、雨宮。また次の授業でもよろしく」
「あ、はい、こちらこそ!」
退室間際にひらひら手を振られたので、ぺこりと会釈を返してその背中を見送った。
扉が静かに閉まった後、時計を確認してみる。時刻は四時間目の授業が終わる10分前。教室に戻るにしても中途半端な時間だし、退室するにしても、先生に一声かけていかないと。僕は元いたベッドにそっと腰かけ、先生が帰ってくるのを待った。
「奴め、どこに消えたんだ……」
保健室を後にした男が独りごちて廊下を歩く。
辺りを見回してみれど、どこにも目当ての気配は無い。ようやく糸口を見つけたと思ったが、寸でのところで掴み損ねてしまったらしい。
以前は裏山神社の奥で空振りを経験した男だったが、対象の潜伏先がこの学校近辺であると数日前にやっと突き止めた。そこで、この世界で行うには少々強引な手段で学校に臨時教師として潜り込んでいたのだ。数ヶ月、或いは数年単位の長丁場も覚悟していたものの、気配の大元は想定よりすんなりと姿を見せた。
推測になるが、学校近辺に潜伏し始めたのも、張り込んですぐ姿を見せたのも、恐らく理由は単純だ。
対象が、雨宮 渚を発見したからだろう。
奴は雨宮を何かしらの方法で保健室まで誘導した後に部屋へ侵入、眠った隙を突いたと思われる。対象の気配に気付いた男が保健室に飛び込んだ時には既に遅く。先に向こうが男の接近に気が付いたらしく、保健室はもぬけの殻だった。
臍を噛みつつも対象の痕跡を探ると、対象は雨宮に向けて“幻視”の魔法をかけていた形跡があった。一方こちらは推測だが、逃走手段としては“転移”の魔法を使い、こちらとすれ違うことなく離脱したのだと思われる。
逃げた手段はさておき、奴は一体雨宮にどんな幻をけしかけたのか。定かではないが、青白い顔に汗だくで起きてきたのを見るに、碌でもないものを見せられたのだろう。
(これ以上この世界で手を汚される前に、一刻も早く取り押さえなくては)
それこそ、男がここにいる理由。本来の姿を偽ってまでこの世界に留まっている理由だった。
とはいえ、ひとまず対象は学校から離れたようで、今は気配も感じ取れない。仕方なく、男は職員室に戻ることにした。担当学年もクラスも持たない非常勤講師が、校内を必要以上にうろつくと目立ってしまう。保健室に駆けつけたのも、職員室から急いで飛び出してのことだったのだ。多少怪しまれたことだろうし、それらしい弁明を考えておかなければ。
「やりづれえな、人間ってのは」
やれやれと頭を掻いて、男は廊下をすたすたと歩いていった。
保健室の先生が戻ってきたのは、アビガイル先生が立ち去ってから5分ほど後のこと。
「あっ、雨宮君起きてたんだ。ごめんね、保健室空けちゃって」
「いえ、大丈夫です」
両手を合わせて謝る先生に笑って返事をする。話によると、教育指導の先生に緊急の用事があるからと呼び出されたのだという。
「手短に済ませるって言われたから行ったんだけど、結局長々とかかっちゃってねえ。ちょっと込み入った話題だったから仕方ないけど……」
怒るに怒れない、といった様子で先生は物憂げに溜め息を吐いた。よく分からないけど、きっとよほど急ぎの内容だったんだろう。
「あ、そういえば雨宮君、私がいない間に誰か来た?」
「え、えっと、寝てたんで分からないですけど、たぶん誰も来てないです」
約束通りアビガイル先生がいたことは伏せて話す。すると先生は「おかしいなあ」と訝し気に呟いた。
「鍵を掛けていったはずなのに、戻ってきた時には鍵が開いてたから……てっきり誰か先生でも来たのかと思ったんだけど」
(……鍵を、掛けていった?)
それ自体は自然なことだ。疑問なのは、鍵が閉まっていたのにどうやってアビガイル先生は保健室に入ったかだ。非常勤の先生でもマスターキーを渡されるのだとしたら分からなくもないけど……いや、それ以前にアビガイル先生はこう言っていた。
————人を探していてな。この部屋に入っていくのを見かけた気がしたんだが……————
つまり、アビガイル先生が人探し目的で入室するよりも前に、理由も手段も分からないけど保健室の鍵を開けて入ってきた誰かがいる、ということにならないだろうか。
でも、アビガイルさんはむしろ僕に誰か来なかったかと質問してきたくらいだ。つまり、彼はこの部屋では誰も見てないし、仮に誰かいたとしてその人が出ていった時にすれ違っていないということ。でも、もしアビガイル先生と鉢合わせる前に退室したとしたら、それこそここから直接ワープでもして立ち去らないと説明が付きそうもない……
(うう~~意味が分かんない!)
状況の不可解さで不安が膨れ上がり、また嫌な汗が滲みそうになる。今日はどうしてこんなにも背筋が寒くなるような出来事が続くんだろう。一体僕が何をしたっていうんだ……!
「ま、まあでも急いでたし、たぶん私が鍵かけ忘れただけだと思う!だから雨宮君もあんまり気にしないで!」
「は、はい!そうしますっ!」
不安がよほど顔に出ていたのだろう。僕の顔を見た先生は慌てたように付け足し、繕うように笑った。僕も喉から出かかっていた不安を何とか飲み込み、やや食い気味に頷いて答える。今ばかりは、先生の見え見えの誤魔化しに乗っからせてもらうことにしよう。
その時、緊張しかけた空気をかき混ぜるかのようにチャイムが鳴った。
「お、四時間目終わったね。雨宮君、戻れそう?」
「はい、大分楽になったんで」
「そか、良かった良かった。じゃ、午後も無理せず頑張っといで」
「ありがとうございます。失礼します」
会釈を一つ、僕は手を振る先生に見送られながら保健室を後にする。このまま立ち止まっていると余計なことを考えそうだったのと、単純にお昼時で空腹を感じ始めていたので、足早に階段を上がっていった。
四時間目が終わり、渚のクラスも給食の準備が始まっていた。当番の生徒は給食着を着用し、それ以外の生徒は机を動かして四人班を作り始める。
綾女も今週の給食当番だったため、鍋や食器類、番重などを取りに行く準備をしていた。給食着を用意しながら何気なく教卓に目をやると、分厚い本が一冊ぽつんと置き去られていた。手に取ってみると、ずっしり重たいそれは先程の授業関係の教員用参考書だった。
(先生の忘れ物かしら)
四時間目の生物の授業で、先生が同じような本を持っていた覚えがある。そういえば先生は授業が終わってすぐに教室を出ていったので、うっかり置き忘れてそのままなのだろう。
「あーや、どしたの?」
ふと、同じ給食当番の女子生徒が不思議そうに声をかけてきた。
「あれ、それさっきの先生が持ってたやつだね。忘れ物かな」
「そうみたい。わたし、ちょっと抜けてもいいですか?届けてきます」
「あーや超優しい〜!いいよ、当番の方は男子と一緒にやっとくから行ってきなよ」
「ありがとうございます、助かります」
快く了承してくれた女子生徒にぺこりと頭を下げ、綾女は本を抱えて教室を後にした。
結論から言うと、男が職員室を飛び出したことを怪しんだ者はいないようだった。加えて、男が職員室に戻ったことすら誰も気がついていないらしい。恐らく、朝から漂う緊張感を引きずるあまり、皆それどころではないのだろう。
空気がひりついた発端は、今朝突然入った学校への電話。その相手は何と病院の看護師だった。何でも、この学校の国語教師——話によると雨宮や日上の担任教師らしい——が、出勤途中に通り魔に遭ったらしく、怪我をして病院に搬送されたそうな。幸い命に別状はないものの、腕を切り付けられて全治二週間とのこと。教師を傷つけた犯人は逃走し、未だ捕まっていないそうだ。
不審者が幼い子供である生徒を真っ先に狙うのはよくある話だが、それより先に大人である教師が襲われるのは異質だ。通り魔的犯行である以上、ターゲットにこだわりは無いのだろうが、だからこそ生徒だけでなく教師もターゲットの範疇である可能性があり、恐ろしくてたまらない……
聞こえてきた会話を纏めると、おおよそこんな感じだった。
教員たちは努めて冷静であろうとしていたが、その実誰もが動揺しているのは空気で分かった。そういえば職員室を飛び出す前にここで見かけた養護教諭も、教育指導の教員からこの話題を共有され、ひどく困惑している様子だった。
自分の職場内から、通り魔による怪我人が出たのだ。そのどれもが当然の反応だろう。
(奴の狙いは雨宮のはずだが……何故雨宮より前に担任を襲ったんだ?)
いや、むしろ逆か、と男は思い直す。
偶然にしろ狙ったにしろ、担任教師と接触したからこそ、奴は雨宮に辿り着き、雨宮の気配を覚えてしまった。次は余計な道など辿らず、真っ直ぐに彼を狙い撃ちしてくるに違いない。
————コンコン、軽いノック音が聞こえたことで思考が途切れた。振り向くと、静かに扉を開けて一人の女子生徒が職員室に入ってきた。
「失礼します。羽生先生はいらっしゃいますか」
落ち着いた響きの声。肩の辺りで二つに結った亜麻色の髪。彼女は二時間目に授業をしたクラスの生徒、確か名前は虹元といったか。何故かその胸には教師用のテキストが重そうに抱えられている。
「はぁい。どうかしました?」
女性教師の一人が気が付き、虹元へと近づく。彼女が虹元の探していた教師のはずだ。
「先生、お忘れ物ですよ」
「あら、ありがとう虹元さん。わざわざ届けてくれたの?」
「先生のお手元に無いと困る物だと思いましたので。お気になさらず、です」
「親切にありがとうね、助かったわ」
「良かったです。それでは、失礼します」
中学生にしては礼儀正しい子だなと思いながら、男は丁寧にお辞儀する虹元を遠巻きに眺める。
————その時、男はハッとした。虹元が教師に会釈をした瞬間、彼女から覚えのある匂いがしたのだ。
否、正確には匂いではなく直感で受け取った気配のようなものだが。まるでふと花が香るように匂い立ったそれは、男が確かに知っている感覚だった。
(嘘だろ?何故彼女からあの気配が……!?)
この世界ではあまりに目立つそれに、男は虹元を凝視した。記憶が正しければ、現時点でこの気配の発生源は先程捕らえ損ねたあいつしか有り得ないはずだ。
しかし、先程まではっきりと感じ取れていた気配が、次の瞬間にはぱっと消え失せた。最初から気配など存在しなかったかのように、残滓を追うことすら出来なくなったのだ。
向けられる視線に気が付いたのか、虹元は去り際に男の方を振り返った。目が合ってしまい、男は内心慌てながらも冷静を装って小さく会釈をする。すると、虹元もにこりと微笑んで会釈を返し、何事もなく職員室の扉を閉めていった。
(どういうことだ……この世界に来ているのは、奴や俺だけではなかったのか?)
思考がこんがらがる。もし彼女が自分と同類であるなら、どうやって、何の目的でやってきたのか、まるで見当がつかない。現時点で、この世界と男の故郷を行き来する方法など無いはずなのに。
「……アビスリア先生?どうしました?」
ふと、先程虹元と話していた教師に声をかけられる。扉の方を凝視していたので、怪訝に思われたらしい。
「ああ、いえ。さっきの生徒、気の利く子だなあと思いまして」
適当に誤魔化すと、教師は「なるほど」と笑った。
「虹元さん、年齢の割にとても大人びててしっかり者だって教師の間でも有名なんですよ」
(年齢の割に大人びてる、か……)
あながち、教師たちの見る目も間違ってはいないな。男は複雑な気持ちで、曖昧に笑う他なかった。
同じ頃。虹元は階段の踊り場で立ち止まり、自身の胸に手を当てた。その顔は、困惑と失意で血の気が引き、引き攣った笑顔が張り付いていた。
「……“擬態”が一瞬でも緩んでしまうなんて。わたしももう、限界が近いみたいですね」
更新は気まぐれかつ遅筆ですが不定期に続けていくつもりです。次の更新は未定ですが、10月に入ってなるべくすぐに出したいなあ。
興味がある方は引き続きよろしくどうぞ。




