頭痛
同ペンネームで別サイトにも載せている一次創作の小説になります。
異世界ものファンタジー路線の物語ですが、しばらく主人公は現実世界で行動しています。少し事態が動き出します。引き続きよろしくお願いします。
————まずい、遅刻だ。
目覚まし時計を見た瞬間、血の気が引いた。いつもよりニ十分も寝過ごしたのだ。すぐに準備を整えて飛び出しても、僕の鈍足ではホームルームにぎりぎり間に合うかどうか。
母さんはいつもこの時間には仕事に行ってしまっている。だから普段から目覚ましは欠かせないのだけど、昨夜に限って目覚ましをかけ忘れていたようだ。
その反面、幸いにも授業と制服の用意は昨夜のうちに済んでいたので、出せる限りのスピードで準備を整える。
「チョロごめん!今日は一個で勘弁して!帰ってきたら多めにあげるから!」
急いでいても、生き物を飼っている以上世話はサボれない。僕は慌ただしく固形餌を一粒水槽に放り込むと、チョロの反応を確認もせずドタバタと階段を駆け下りる。申し訳程度の朝の支度の後、食卓をちらっと見ると、母さんがいつも作って置いていってくれる朝食があった。数秒迷ったが、何も食べないのも落ち着かないので、焼いたウインナー一本とバターロール半分を齧って水で流し込む。
わたわたと靴を履いて家を飛び出し、走り出し……かけて引き返す。鍵をかけなきゃ、と学校指定の鞄から家鍵を引っ張り出すも、慌てているせいでなかなか鍵が差し込めない。数回外した末、勢い任せに鍵を閉めてようやく通学路を走り出した。
そうして何だかんだもたついたこと、生来の足の遅さやスタミナの無さが重なった結果、教室に入った時には既にホームルームは終わっていた。
「おはよ。生きてっか?」
自分の席に着くや否や机に突っ伏していると、テルが近寄ってきたのが声で分かった。苦笑いしつつも、下敷きか何かで扇いで労ってくれているようだ。
「ぁ……ありがと……すっごい涼しー……」
「朝からお疲れさん。先生には体調不良で遅れるみたいですって言っといたから多分怪しまれてねえよ」
「ほんと……?重ねてありがとぉ……」
「はいよ。つうか遅刻なんて珍しいじゃん、どした?」
「アラーム……かけ忘れちゃった……」
「おめえ……馬鹿がよお、自業自得かい」
「仰る通りですぅ……」
思えば昨夜、寝る前に図書館で借りた本をベッドで読んでいるうちに寝落ちしたんだった。完全に僕の落ち度だ。
「あらあら、渚ったらお顔が真っ赤ですわ。大丈夫?」
鈴を転がしたような柔らかい声。顔を上げて振り向くと、テルの隣に女子生徒がいた。くすくすと控えめに笑いながらも、手元では扇子をぱたぱたさせて、テルと同じく風を送ってくれていた。
「あ、綾女もありがと……生き返る……」
「聞いたか綾女、こいつ昨夜アラームかけ忘れたんだと」
「まあ、それは大変。試験勉強で寝落ちでもしました?」
「いや……本読んでて寝落ちしました……」
「自業自得パート2かよ」
「うふふ、渚らしいですけど、次は気を付けなくてはね」
「はあい……」
友人二人から銘々に言われてしまい、僕は情けない声で返事をするしかなかった。
彼女は虹元 綾女。
僕やテルとは小学生の頃に知り合った、もう一人の幼馴染みだ。遠くから引っ越してきた転校生だったのだけど、礼儀正しく穏やかな振る舞いと天真爛漫な性格のおかげか、僕たちともすぐに仲良しになって今に至る。小さい頃からお嬢様みたいな話し方が印象的な彼女は、リーダーシップ抜群、しっかり者で頭もいいゆえか、現在は生徒会で精力的に活動をしている。
「そうだ、渚にも朝の連絡をお伝えしなければですね。今日は五時間目に進路関係のお話があるそうですよ」
僕の息と汗がようやく落ち着いてきた頃、綾女が思い出したように教えてくれた。
「あれ、それ今日だっけ、忘れてた」
僕らも中学二年生だし、そろそろ進路の話が出てくるのも不思議ではない。けれど今は進路より、期末試験の方が気になって仕方ない。この前の土曜日から数日経って、もう既に試験まで一週間しか無いのだ。時間の許す限りはテスト範囲のおさらいがしたい。
「んなもん、夏休み明けでもいいのにな。だりぃ」
テルが後頭部で手を組んで溜め息を吐く。きっと、僕を含めてクラスメイトの半分は同じことを考えているだろう。
そんなことを駄弁っていると、教室のドアが開いて一時間目担当の先生が入ってきた。テルと綾女は「それじゃ」と短く挨拶すると、それぞれの席に戻っていった。僕も鞄を机に乗せると、一時間目の準備に取り掛かった。
授業後の休み時間。僕はテルと、比較的仲のいいクラスメイトの男子(ちなみに片方はテルと同じ剣道部、片方は漫画研究部)二人と集まって、今日の五時間目について話していた。
「つーかさ、中二で進路の話とか早くね?」
「まあ、試験勉強期間にやることじゃないよね」
クラスメイトたちのぼやきに、僕ら二人もうんうんと頷く。
「日上は進路決まってんの?」
剣道部男子がテルを見た。テルはしばらく考え込んだ後、腕組みしながら答えた。
「とりあえず、高校は剣道の強豪校に行きたいとは思ってるけど、そんくらいかな」
「日上、鬼強いもんなー!将来は剣道師範とか?」
「日上くんならオリンピック選手もありえそう」
「いや、そこまでは分かんねえよ」
男子たちからきらきらした目で見られ、テルは困ったように笑う。けれど、テルは小さい頃から剣道の道場にも通っているし、部活でも二年生にして大将を任されている実力者。三年生が引退したら次の主将はテルだろう、というのはここにいる剣道部男子の談だ。剣道師範もオリンピック選手もあながち夢物語でもないと、僕も勝手に思っている。
「雨宮くんは?進学先とか将来とか決まってる?」
今度は漫画研究部男子が尋ねてくる。僕はうーんと唸り、顎に手を添えて思考を巡らせた。
「あはは、実はまだ何も決まってなくて……」
はっきりと答えられず、苦笑いで誤魔化した。
僕は現在帰宅部で、特にやりたいことも、テルのように誇れる特技も無い。精々決まっているとしたら、高校生になったら一刻も早くアルバイトをしたい、ということくらいだ。
「良かった、ぼくも全然決まってなくてさ」
尋ねた本人は安堵したように笑った。
「あ、進路といえば話変わんだけどさ」
ふと剣道部男子が思い出したように話し始めた。
「隣のクラスの奴から聞いたんだけど、夏休みには宿題で進路関係の課題も出るんだってさ。さっきの時間、隣のクラスはその説明受けたんだと」
「え、何だよそれ」
テルが目を丸くして聞き返す。
「えーと確か……自分とこの父親に仕事のことについて取材して、レポート書くらしい」
それを聞いた瞬間だった。テルの表情にさっと陰りが差したのを、僕は見逃さなかった。
「ぼくんとこ、普通のサラリーマンだしレポート書けるほどのことしてないぞ」
「おれんとこも同じだし、書くことねえよー」
「めんどい課題増やすなよなほんと……雨宮くんや日上くんのお父さんはどう?何か書けそう?」
「そういや二人の父ちゃんって何の仕事してんの?お前らからそういう話って聞いたことないけど」
悪意の無い質問に背筋が一瞬で冷える。まずい、僕はまだしもテルにお父さんの話は地雷だ。
「あ、あの、えっと、そ、それはね……」
上手い説明が思いつかず、不審なくらいしどろもどろになっていた時だった。テルが急にすっと席を立つ。
「わり、ちょっとトイレ」
明らかにワントーン低くなった声でそれだけ告げると、そそくさと教室から出ていってしまった。一瞬垣間見た顔は、何となくむすっとしていたように見える。
「……急にどうしたんだ、あいつ」
「何か変なこと聞いちゃったかな……?」
案の定、男子二人は怪訝そうな不安そうな顔をしている。気のいい性格の二人だから、今のでテルへの心象を悪くすることはないと思うけど、一応軽く説明しておこう。
「ご、ごめんね。実はテル、お父さんの話があんまり好きじゃなくて……そっとしといてあげて」
手を合わせて頼み込むように伝えると、二人ともよく分からないと言いたげながらも「分かった、こっちこそごめん」と頷いてくれた。二人が素直な性格の人たちで本当に良かった。
テルの様子が何となく心配だった僕は、二人に断りを一言入れると、教室を出てその姿を探した。
休み時間とあって、廊下にも生徒がちらほら出ている。お喋りに華を咲かせる人たちとすれ違いながら、幼馴染みの姿を探していると……いた。僕らのクラスから少し離れたところ、開け放たれた窓からぼうっと空を眺めている。その横顔からは尖った色は消えていたものの、代わりに少し寂しそうな沈んだ色が滲んでいる気がする。
「テル、大丈夫?」
「おう、平気平気。一瞬もやっとしただけだよ」
声をかけると、テルはこちらを振り向いて頬を緩めた。強がって誤魔化しているわけでもなさそうだ。ひとまずほっと胸を撫で下ろす。
テルにはお父さんの話題に触れてほしくない事情がある。いつもは温厚なテルだけど、この話だけはどうしても苛立ってしまうみたいで、過去にそのせいで他人とトラブルになりかけたのだ。それを知っているから、テルが人前で逆上するような人じゃないと分かっていても、心配が拭えなかった。
「あいつらにも謝んなきゃな。さっきの態度、流石に良くなかったし」
「二人とも気にしてないと思うよ」
「でも筋は通しときたいからさ。それはそうとさっきの話、困ったよな」
「レポート課題の話だよね……どうしよう」
「オレも渚も書けねえもんは書けねえし、先生に一言言って母さんの仕事についてのレポートで許してもらうか」
「それがいいね。五時間目終わったら先生に相談しよ」
まさか僕たちだけ課題を免除してもらうわけにもいかない。話がまとまったので、とりあえず教室に戻ろうとした時だった。
「————なあ、君たち」
ふと、背後から声をかけられた。大人の男性のようだが、校内では聞き覚えの無い声に驚いて振り向く。声の主が視界に入った途端、僕は我が目を疑った。
海外俳優顔負けの端正な目鼻立ち、つやつやの綺麗な金髪、ミステリアスなダークレッドの瞳。数日前に会った時よりフォーマルな格好こそしているけれど、印象的なその出で立ちは間違えようがなかった。
「……もしかして、アビガイルさん、ですか?」
恐る恐る答えてみると、彼はどこか嬉しそうに頬を緩めた。
「やっぱり、あの時の君か。雨宮……だったよな?また会ったな」
「えっと、あの、はい、お久しぶりです……!」
「久しぶりって、つい数日前会ったばかりだろう?面白いことを言うなあ」
防風林の奥、日本家屋の前で会った時のようにフランクな調子で話しかけられる。僕はというと、思わぬ再会への驚きと喜び、そしてどうしてアビガイルさんが僕の学校にいるのかという疑問で、さっきからどぎまぎしてしまっている。
「見て見て、アビガイル先生だ」
「アビー先生今日も美人すぎてやばくない?」
「分かるー!高身長イケメンの外人教師とか完璧すぎるよね」
「オレさっき先生の授業受けたけど、めちゃくちゃ分かりやすかったわ」
「授業教えんのも上手いとかどんだけだよ半端ねえなアビ先」
「ちょっとー!アビガイル先生に変なあだ名つけないでよ!」
(アビガイル“先生”……?)
耳を澄ませると周囲の生徒(半分以上が恐らく女子)の話し声が聞こえてくる。周りでひそひそと話されて落ち着かないけど、それより気になったのは何度も聞こえてくる「先生」というワードだ。
「……知り合い?」
テルが僕とアビガイルさんを交互に見やって不思議そうに尋ねる。知り合い、と呼ぶには会った回数も時間も足りないと思うけど、会った時の経緯を話すのもちょっとややこしい。とりあえずこの場は「うん、ちょっとね」と曖昧に答えておいた。
「雨宮、そちらの彼は……君の友人か?」
今度はアビガイルさんに質問される。
「はい、僕の親友のテル……日上 照彦です」
「どもっす」
「————日上……そうか、俺はルキア・アビガイルという者だ。よろしく」
一瞬アビガイルさんは何故か目を丸くしたが、すぐに人懐こそうに微笑んだ。気のせいだろうか、テルの名前を聞いた瞬間見せた彼の顔は、僕の名前を聞いた時と同じような驚きを秘めているように見えた。
「それにしても驚いたよ。雨宮が俺の仕事先に、生徒としていたなんてさ」
「仕事先……?あの、アビガイルさん、もしかして前に言ってた“こっちで仕事がある”って……」
「おっと、その説明はすぐ後でさせてくれ。もうすぐ二時間目が始まってしまうからな。君たちもそろそろ教室に戻れよ」
僕の言葉を遮ると、アビガイルさんはひらりと手を振って……何故か僕とテルのクラスの教室に入っていった。全く訳が分からないまま、僕はテルと怪訝な顔を見合わせつつも、言われたとおりに教室へ戻った。
アビガイルさんの言葉の意味は、二時間目が始まるとすぐに判明した。
黒板に綺麗な筆記体で自分の名前を書くと、教卓越しにアビガイルさん、もといアビガイル先生が口を開く。
「このクラスでは初めましてだな。俺はルキア・アビガイル。療養中の先生に代わり、緊急かつ臨時だが君たち二年生の英語の授業を担当することになった。至らない部分も多々あるとは思うが、付いてきてくれると嬉しい。短い間だがよろしくな」
聴き心地のいい低音声に綺麗な出で立ち、そして何より爽やかで甘い笑顔。この一瞬で、アビガイル先生はこのクラスの、特に多くの女子生徒の心を掴んだに違いない。見れば女子生徒のほとんどが、アビガイル先生をうっとりした眼差しで眺めている。確かに彼は、男の僕ですら初対面で見とれそうになった美人なので、女子生徒たちの反応はさもありなん、というか何というか。
ちなみに男子生徒は、どちらかというとアビガイル先生の高い身長や金髪、目の色が物珍しいようで、違うベクトルで先生を食い入るように見つめているようだ。
アビガイル先生が話した通り、二年生を担当している英語の先生は、二週間ほど前から病気か何かで長いお休みに入っていた。その穴は、今まで別の学年の英語担当の先生が何とかしてくれていたのだけど、このたび臨時で赴任してきたのが彼のようだ。
浮ついた空気を伴ったまま授業は終わった。
その後、好奇心任せに質問を浴びせようとする生徒をのらりくらりと躱し、アビガイル先生はさっさと教室から退散してしまった。僕もこの思わぬ再会については色々聞いてみたかったのだけど、他の生徒がアビガイル先生に話しかけようと集まっていたので、何となく近寄りにくくなっているうちにタイミングを逃してしまった。
「何か不思議な雰囲気の先生だったな。お前、いつあんなイケメンとお近付きになってたんだよ」
さっきはお茶を濁したけれど、やはり詳しいところが気になるのだろう。テルがからかうように小突いてきた。
「実はこの前の土曜日にね。裏山に神社あったの覚えてる?」
「ああ、大奈神社な」
「久々に裏山に登って神社を散歩してたんだ。そしたら裏手の防風林の奥に道があってさ、歩いてったら大きい日本家屋のお屋敷があって、そこにアビガイルさんに会ったんだ」
「へえ、何か出会い方までちょっと不思議な感じだな……つうか神社裏の奥に家があったのも初耳で驚きなんだけどさ、アビガイル先生はそんなところで何してたんだ?」
「えっと……あれ?確かに何してたんだろう、あの人」
問いかけられて初めて疑問が湧いた。
そういえば、彼がどうしてお屋敷の前に佇んでいたのかまでは聞けていなかった。あの時は初対面の人に対する緊張と、アビガイルさん自身の不思議な雰囲気に気を取られて気にしてなかったけど、言われてみれば確かに引っ掛かる。僕が見たあの状況だけでは、彼の意図はまるで予想が付かなかった。
(あの日の別れ際の様子といい、やっぱり不思議な人だなあ)
今度話す機会があったら、気になることを一通り聞いてみたい。まあ、生徒たちが新顔の彼に向ける好奇心の熱が覚めるまでは、近付くことすら難しそうだけど。
雑談もそこそこに、三時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。
三時間目は国語、のはずなのだが。チャイムが鳴り終わっても、先生が入ってくる気配が無い。国語担当であり僕らのクラスの担任の先生は、おっとり屋でのほほんとしてはいるけれど授業に遅れたことは一度も無かったはずだ。
珍しいこともあるんだなあ、と思っていると、ようやく教室のドアが慌ただしく開けられて先生が入ってきた。しかし、それは国語の先生ではなく教育指導の先生だった。いつもより目付きが険しいというか、全体的にどこかぴりぴりした空気を纏っている気がする。それを感じ取ったのか、休み時間のお喋りを何となく引きずっていたクラスメイトたちも、一瞬で静まり返った。
「皆、急で申し訳ないが今日の国語の授業は自習になった。担当の先生が今朝、体を壊してお休みになったそうだ」
先生の発言に教室がどよめく。もちろん、授業が無くなったことへの喜びから来ているものだ。
「はいはい、静かに。えー、それでだな、この時間は自習及び期末試験の勉強に使うように。教科は何でもいいぞ。それと、隣のクラスは通常通り授業中だからな、間違っても騒がないように」
いいな?と先生が問えば教室中から「はーい」と返事があった。それを確認するが早いか、教育指導の先生はまた慌ただしく教室を出ていった。
その後、生徒たちは大人しく各々の道具を広げて勉強を始めた。普段なら我慢できずに喋り出す人が出たり、こっそり趣味の作業に興じる人が出始めたりするものだが、流石に試験一週間前ではその余裕も無いのだろう。中にはやっぱり面倒なのか、机に突っ伏して居眠りし始める生徒もちらほらいたけど。かく言う僕も、思わぬ自習時間に内心ラッキーだと呟いた。担任の先生には悪いけれど、ありがたくこの50分を有意義に使わせてもらおう。
苦手科目を少しでも潰すために、数学の教科書を開く。やり残していた演習問題を、ノートに書き写しながら地道に解いていく。苦手を自負する科目で高い点数を狙っているわけではない。ただ、頑張らなかった結果普段通りの低い点数になるより、頑張った上で前の試験より一点でも多く稼げる方が気分がいいだろう、と思うがゆえだ。
————演習問題を一通り解き終え、丸つけまで終わった。時計を見上げると、始業時間からおよそ30分くらいが経っている。予想より早めに解けてしまった。正答率もこの前の土曜日より上がっているし、頑張ってみるものだな。これならテスト本番もいける気がしてきた。
一人でこっそりほくほくしながら数学の教科書を閉じた。余った時間は、まだ少し不安の残る化学にでも手をつけようかな。
切り替えるために、目立たないように一度伸びをして肩周りをほぐす。ずっと手元に視線を落としていたので目も疲れてしまった。遠くを見てちょっとでも目を休めようと、何気なく窓の方を見る。
その時、明らかに不自然なものが視界に映った。
僕の席は窓際の前の方なので、窓から外を見ると校庭の様子がしっかり見える。今はどのクラスも体育の授業をやっていないようで、本来なら誰もいないはずのそこに、ゆらりと立つ人影……のようなもの。姿の詳細は分からなかったけど、暗い色のフード付きコートを着込み、顔も体もすっかり隠している背の高い人のように見えた。
最初は用務員のおじさんかと思ったけど、それにしては服装が変だ。外は曇っているものの、レインコートを着るような天気ではない。それだけでなく、その人は校庭の真ん中で何をするでもなく突っ立っているだけ。視線もどこを向いているのか、ここからではよく分からない。
何もかもが全く嚙み合わないそれはただただ不気味で、反射的に顔が引きつるのが分かった。
(……僕、霊感なんて無いはず……なんだけどな……)
さっきまで程よく感じていた教室の温度が一気に2、3度下がったような感覚に陥る。もしあれが僕にしか見えていないとしたら、白昼堂々とんでもない心霊現象を目の当たりにしたことになる。いや、幽霊ではなく不審者の類だったとしても、それはそれでそこにいる意味が分からなくて怖い。どうしよう、心霊系にしろ人怖にしろホラーは大の苦手だ。
見なかったことにして目を逸らしかけた瞬間。人影の頭がぬらりと持ち上がってこちらを向いたのが見え、びびって思わず固まってしまった。背けかけた顔の動きがそこで止まり、僕の視線は人影に釘付けになる。
頭をもたげてなお顔はよく見えない。フードで出来た暗がりが思いの外深く、口元くらいしか分からないのだ。それでも、不幸なことに、相手の視線が間違いなく僕とかち合ったのが感覚で分かった。
(ま、まずい、かも)
早く、目を逸らさなきゃ。
蛇に睨まれた蛙にでもなったようだ。寒気で体が震え、心臓が鷲掴みされたようにぎゅっと縮こまる。それなのに、まるでがんじがらめにされたかのように、視線は相手と絡んだまま解けない。瞬きも出来ずに焦っていると、相手の目がフードの奥でぎらりと光った……気がした。
————見つけたぞ。
顔の様子なんてよく見えないはずなのに、そう言っているように見えた。人影は口元ににやりと不気味な笑みを浮かべ、僕を逃すまいとするかのように視線を向けている。ぞわぞわと嫌な寒気が這い上がり、頭に鋭い痛みが走る。喉までせり上がりそうな声を無理矢理呑み込んで、悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えた。
歩いて近づいてくるのかと思いきや、何と人影は一瞬のうちにふっと姿を消した。誇張や比喩ではなく、文字通り煙のようにいなくなってしまったのだ。それと同時に、今まで釘付けになっていた視線をやっと窓の外から離すことができた。硬直していたのと同時に息も数秒止まっていたらしく、振り切るように自分の机へ顔を下向けたのと同時に、少しだけ呼吸が乱れた。
静かな教室では音が響く。変な呼吸音が目立ってしまったかと思い、目だけで辺りを見回した。幸いにもこちらに向いている視線は無さそうだと分かり、安堵の溜め息と共に机に突っ伏した。
(……何だったんだ、今の)
時間にして、およそ1分程度の出来事だった。
見間違い、というにはあまりに異質。けれど、だからといって他に納得できるような結論も出せそうにない場違いな存在。厄介なことに、恐らくあれを見たのはこのクラスで僕だけだろう。事実確認できる誰かが一人でもいたら、この気味悪さや恐怖を共有して気を紛れさせられたのに。
さっきよりも呼吸は落ち着いたが、困ったことにまだ心臓がドキドキしているし、嫌な汗もじんわりと滲み続けている。あの影と目が合って感じた頭痛も、何故かずっと居座ってキリキリと僕の頭を苛んでいる。頭を動かすだけでも呻きそうになるほど痛い。これでは勉強どころか、体を起こすことすらままならない。
どうすることも出来ないまま時間は空しく過ぎていき、やがて終業を告げるチャイムが鳴り響いた。
張り詰めていた教室の空気がふっと緩み、たちまち賑やかになった。あちこちでクラスメイトの話し声や物音が聞こえ始め、容赦なく僕の頭にガンガンと響いた。天気が崩れて気圧が下がると時々頭が痛むことはあったけど、それでもここまでひどい痛みは経験したことがない。音も光も全てが鬱陶しくて不快にすら感じる。
「おーい、渚ー?」
僕の様子に気が付いたのか、話しかけてくるテルの声は普段より抑えられていた。のろのろ視線を上げると、テルは僕の机の前にしゃがんで目線を合わせており、訝し気に尋ねてきた。
「大丈夫か?さっき何かあった?」
ああ、そういえばテルは僕より後ろの席にいたっけ。となると、僕の挙動不審な様子も全部見ていたのだろう。
「な、なんにも無い、よ……あと、あんまり……だいじょばない、かも……」
さっき見たもののことを話したかったけれど、頭が痛くてそれどころではない。正直言うと、喋ることすらしんどい。
「だろうな……今にも死にそうな顔してるし」
「寝不足が祟ったのかな……」
「その割には二時間目あたりまでは普通だったじゃん。まあでもお前、体力無いくせに夜更しが続いてるからな……反動が一気に来た可能性はありそう」
元々少し夜型の傾向はあったけど、ここ最近は確かにいつも以上の夜更しが続いていた。それはもちろん試験勉強も理由の一つだが、気分転換のつもりで読み始めた本に没頭して時間を忘れた、という原因も大いにある。どちらにせよ、睡眠不足の結果がこの有様なら、自分の時間管理が甘いことは認めざるを得ない。反面、今までもこのくらいの夜更しは散々しているし、だからといってここまでひどく体調を崩した覚えは無いのが引っ掛かるところだった。
(さっきのアレと目が合ったから……なわけ、ないよね……?)
それではまるで、いわゆる「邪視」みたいな怪異にでも睨まれたみたいじゃないか。けれどあれはあくまで都市伝説や民間伝承。信憑性は微妙だ。かといって、それ以外にこの体調不良の理由付けとしてしっくりくるものも思いつかない。僕が好きなのは魔法とか幻獣とかそういう類のファンタジージャンルであって、ホラー寄りのオカルトや都市伝説は苦手なのに……その手の恐い目に遭った結果がこれなのかと思うと、また全身に寒気が走る。
「なあ、流石に保健室行ってこいよ。洒落になんないくらい顔色真っ青だぞ」
テルの声はいつになく心配そうだ。今の僕はそんなにひどい顔をしているのだろうか。そうでなくても、この頭痛を抱えながらでは次の授業を受けられる気がしない。
「うん……そうする……」
痛む頭を庇いながらゆっくりと立ち上がる。よろめきそうになりながら、のろのろと教室を出ようとすると、後ろからテルが追いかけてきた。
「何か危なっかしいから送るわ」
苦笑いでもなく、呆れ顔でもなく、テルの表情は真面目そのものかつ不安げだった。僕の足取りが相当危うく見えたらしい。ひどいとはいえただの頭痛だし、そこまで気を遣わなくていいのに……とやんわり断ったものの送っていくと言い張るので、ここはお言葉に甘えて付いてきてもらうことにした。
保健室は一階の廊下の隅っこ、僕たちの教室とちょうど反対方向にある。
“開室中”の掛け札の下がった白い扉をノックし、失礼しますと控えめな一声と共に入室した。
「はいはーい……あら雨宮君、久々だね。今日はどうしたの?」
四十代というには肌艶の綺麗な女性の先生が、驚いたように笑った。
「ち、ちょっと……頭、痛くて……」
「あらま、大丈夫……そうじゃないね。そこ座ろっか」
促されるまま、先生のデスク近くの丸椅子にのろのろと腰かける。傍ではテルが黙りながらも心配そうな眼差しを向けているのが分かる。
「いつから痛いの?」
「三時間目の途中くらいから、です……」
「ついさっきくらいか……一回、熱計ってみようかね」
そう言われて手渡された体温計を脇に挟む。その間も、万力で左右から締められるような痛みは続いている。今はまだ休み時間、部屋の外では大声で笑いながら騒いでいる生徒の声が遠く聞こえるが、それすらも何となく鬱陶しい。確か一階は、三年生の先輩の教室があるはず。願わくば、今は三年生が誰も来ませんようにとこっそり祈る。
「日上君は付き添いで来たの?」
「はい。渚、かなりふらついてて、一人だと何となく危なっかしそうだったので」
「さすが日上君、面倒見いいねえ」
「そりゃまあ、目の前で真っ青な顔されたらほっとけないんで」
テルは困ったように笑って先生に返事する。こういうことをさらりと言えてしまうテルの人柄の良さを、改めて噛み締める。彼には昔から何度助けられたことか。
そんなことを考えているうちに、ピピピ……と体温計の微かな音が聞こえた。確認すると、36.5度……至って平熱だ。
「熱は無し、か。とりあえず少し寝るかい?それで様子見て、あんまりしんどいなら早退しなさい」
「はい……ありがとうございます」
幸い、二つあるベッドはどちらも空いている。僕は扉から遠い側のベッドにのそのそと上がると、そっと布団に潜り込む。
「良かったな。そんじゃ、ゆっくり休めよ。四時間目の先生には事情言っとくから」
「ありがと……」
ようやく安心したように笑ったテルに、最低限ながらもお礼を言う。テルは頷いて返事をすると、ひらりと手を振ってカーテンをそっと閉めていった。
「じゃあ、失礼します」
「はいはい、付き添いありがとね、日上君」
短いやり取りの後、扉が控えめに開け閉めされる音がカーテン越しに小さく聞こえた。その後は先生も自分の仕事に戻ったのか、デスクの椅子が軋む音や筆記音のような音が微かにするのみとなり、保健室は静かになった。
とはいえ、痛む頭ではなかなかすぐには眠れない。掛け布団を頭からかぶって視界を真っ暗にしてみると、ほんの少し痛みの響き方が穏やかになった気がする。保健室の外から聞こえる無遠慮な騒ぎ声も、布団越しだとさらに遠くなった気がして無性にほっとした。ここは誰にも侵されない場所、僕を刺激から遠ざけてくれる安全地帯だ。
(……去年はよくここで寝かせてもらったっけ)
苦痛が若干でも和らいで思考に隙間ができたらしい。僕は一年生の頃のことをぼんやりと思い返していた。
入学したての一年生の頃。僕はしょっちゅう体調を崩していた。原因は、当時二年生だった現在の先輩や、もう卒業した当時三年生だった上級生だ。
中学生というのは、小学生の時よりも殊更周囲を意識するようになる。それはつまり、自分より目立っている人に対して、良くも悪くも強い関心を向けるということ。僕はその内の「悪い好奇心」に晒された側だった。好奇心旺盛な彼らの関心を悪い意味で搔き立てたのは、ひとえに僕の外見が目立っていたことだ。入学してすぐ、僕は上級生たちに目を付けられ、嫌がらせや悪質なからかいに近い接触をされてかなり参っていた。そのせいで毎日のように頭痛や眩暈など体調不良に悩まされ、事あるごとに保健室へ駈け込んでは休ませてもらっていた。
半ば避難所のような使い方をしていたにも関わらず、ここの先生は事情を深く聞かないまま僕を毎回休ませてくれた。辛い時はここに来れば一旦心を落ち着けられる……一年生でのしんどい思いをしてなお、不登校になることなく過ごせている理由の一つが、この保健室の存在だった。
ちなみに。あんまり僕が保健室に来る回数や早退する回数が多かったので、保健室の先生が見兼ねて他の先生に情報を共有したそうで。この話は当時の僕の担任だけでなく、上級生担当の先生の耳にも入ったらしい。結果、先生たちが厳しく目を光らせるようになったおかげか、完全に無くなりはしなかったものの嫌がらせやからかいの言葉は減り、あったとしても勢いは確実に萎えていった。
現在の三年生……当時僕をからかってきた二年生たちの中には、今でも僕を見かけると密かにくすくす笑ったり、変なものを見るような目で見てきたりする人はいる。中には、未だに明らかな悪意交じりのからかいの言葉を投げてくる人もいる。それでも、今は僕自身もそういった軽率さに対して「懲りない人だな」「何が面白いんだろう」といった具合に流せるようになった。
二年生になった今の僕が穏やかでいられているのは、僕の異変に気が付いてくれた保健室の先生が声を上げてくれたこと、変わらず僕の味方でいてくれたテルを筆頭とした同学年の友人がいてくれたことに他ならない。
去年の今頃も、ちょうどこうして保健室のベッドで休んでいたっけ。そう思うと、平和な毎日になったものだ。
ここに来る回数が減ったことが何よりの証拠。何せ今年に入ってからは、今日まで保健室に行く用事が無かったのだから。去年の僕に「今は辛くても、必ず抜け出せるからね」と今からでも教えてあげたいくらいだ。毎日のように泣いていた僕は、一体どんな顔をするだろうか。
気が付くと、そんなふわふわした妄想ができるくらいには頭痛が落ち着き始めていた。横になって休めていることと、視覚と聴覚を休ませたことが良かったみたいだ。苦痛から来る緊張が緩んだおかげか、ふと大きめの欠伸が漏れた。そういえばかなり睡眠負債が溜まっている。今眠れば、午後の授業はすっきりした頭で受けられるだろう。
重くなるに任せて瞼を閉じれば、僕の意識はたちまちすうっと吸い込まれるように途切れていった。
カーテン越しに微かな寝息が聞こえ始めてから5分後。保健室に内線の電話が鳴った。モニターには職員室の番号が表示されている。寝ている渚を起こすまいと、養護教諭は素早く受話器を取り上げた。時刻を見れば、今は四時間目の授業中だというのに何事だろう。
相手は教育指導の男性教諭。受話器越しに聞く彼の声は何やら焦った様子だ。普段は分かりやすく話す彼が珍しく捲し立てているので要領を得ないが、どうやら今日の朝に突然欠勤した国語教諭——渚や照彦のクラスの担任——について何か共有したい話があるらしい。休んでいる生徒を残して保健室を空けるのは忍びない、と伝えるも「緊急だから来てほしい。手短に終わるから」と念押しされてしまったので、仕方なく了承して電話を切った。
せめて渚が自分の不在中に目覚めて不安がらないようにと、養護教諭は「職員室に行っています。すぐ戻ります」と書き置きしたメモをデスクに残す。そして、足早に保健室を出るとしっかり施錠し、掛け札を裏返して「留守中」と表示を変えた上で職員室へと急いだ。
渚はこの時、養護教諭の立てる物音には一切気が付くことなく熟睡していた。電話の音どころか、ドアの施錠音や開閉音すら認識しなかった。
————だからこそ、気が付けなかった。
施錠されたはずの鍵がゆっくりと外され、ドアが開かれた音も。フード付きコートに身を包む人影が、ぬらりと侵入してきた足音も。そのフードの暗がりから覗く赤い瞳が、渚を捉えて不気味に光っていたことも。
更新は気まぐれかつ遅筆ですが不定期に続けていくつもりです。
途中まで進め終えているので、あまり間を空けずに続きを載せていく予定です。
興味がある方は引き続きよろしくどうぞ。




