夏の日の出会い
同ペンネームで別サイトにも載せている一次創作の小説になります。
異世界ものファンタジー路線の物語ですが、しばらく主人公は現実世界で行動しています。まだ本番には遠いですが、引き続きよろしくお願いします。
『――――渚』
名前を呼ぶ声で、僕は我に返った。
声は正確に言うと聞こえたのではなく、脳内に直接響いたという方が正しい。とはいえ、声の主を探しても、辺りは手元さえ見えない暗闇。たとえ人影があったとして確認は不可能だった。
『――――渚』
「……誰?」
何回か呼ばれてから、ようやく答える。
口から零れた声は頼りなく、ずっと黙っていたせいか掠れていた。声が闇へ溶けていった頃、僕はあるものを見つけた。黒い視界の一点にぽつり、小さな光。それはゆらゆら揺れながら、少しずつこちらに近づいてくる。目を凝らすと、その詳細がぼんやりと知れた。
近づいてきたのは、背の高い人影。光の正体は、人影が伴っている古めかしいランタンの灯り。しかしその光はとても弱く、この暗闇の中ではあまり役に立っていなそうだ。
それだけならまだ理解できたが、ランタンは人影が掲げているわけではなかった。まるで人魂のように、人影の少し上空でふわふわと浮かんでいたのだ。そのせいで照らし所も悪いのか、肝心の人影の特徴は闇に紛れて全く分からない。ただ、大きな影がゆらゆらとゆっくり近づいてきているような、そんな得体の知れない光景にすら見える。
でも、僕は既に知っている。
この人影が男性であることも。目深にフードを被ったローブを着ていることも。それどころか、この人影の正体すら把握している。低く、優しく、温かなこの声も、ここで何度聞いたか分からない。
何故ならこれは、何度も繰り返し見た夢。
毎夜それを見る”僕自身”は、その詳細も、顛末も、全て知り尽くしている。
とはいえ、今の僕は夢の登場人物でしかない。だから夢のたびに同じ疑問を持ち、同じ行動を取り、同じ言葉を繰り返す。今回も夢の中の僕は、やっと立ち止まった人影に尋ねる。
「……どなたですか?」
答えは無い。代わりに、彼は手に持っていた長物をそっと差し出してきた。
戸惑いながらも受け取ると、それが長い杖であると分かった。先端に宝石みたいな青い石がはめ込まれた、木製の杖。
いきなりそんなものを渡されてもどうすればいいのやら。困ってしまい、杖と相手を交互に見やっていると、彼は僕の目の前にゆっくり跪いた。首を傾げていると、こちらへそっと手を伸ばしてくる。何をされるんだ、と驚いた拍子に反射で目を瞑った。
男性は僕の首の後ろに手をやり、何やらごそごそとやっている。紐か何かをうなじ辺りで結んでいるような、そんな仕草。数秒後、気配が離れたのを感じて目を開ける。すぐ目の前には相手の顔。暗くて表情が分かりづらいが、口許には柔らかい笑みが浮かんでいるように見えた。
視線を下げると、胸元に何かが光っていた。ランタンの弱い光を頼りに目を凝らすと、それは雫型の青い石飾りが付いた、素朴なペンダントだった。
(杖の次はペンダント?)
夢の中の僕は、ますます訳が分からず顔を曇らせる。そんな僕を他所に、人影は無言で立ち上がり、ふいと踵を返した。
「あっ……!ま、待って……!」
ここで、僕はいつも彼を慌てて呼び止める。この人がいなくなってしまうことが、何故だかとても寂しくて、心細くなるからだ。
人影は去りかけた足を止め、少し間を置いてから徐ろに振り返る。
————その時。弱かったランタンの光が急速に強まり、不確かだった人影の姿を照らし出す。それでもなお、その顔ははっきりと見えない。
けれども、僕には分かる。この顔が誰なのか。
「――――と、う……さっ……!」
呼びかけようとした途端、喉が詰まって声が出なくなる。その間にも、彼の姿を隠すように、或いはこの闇を喰らい尽くすように、ランタンはどんどん輝きを増していく。とうとう目が眩むほどに溢れかえった光の中、僕は目にする。目深に被っていたフードを脱ぎ去った彼が……僕の父が、優しくもどこか物憂げに微笑み、青い泡のような光の球となって弾けて消えていくのを。
そして、同時に耳にする。もうほとんど覚えていないのに、懐かしくて堪らなくなる優しい声が、僕に呼びかけるのを。
『————待っているぞ、渚』
◇◇◇
「――――っ!」
飛び込んできた光の眩しさで、反射的に目を細める。時間をかけて恐る恐る目を開くと、ベッドの脇にある窓が明るいことに気が付いた。
(……朝か)
ちょっぴり眩んだ目をこすりながら、枕元の目覚まし時計を手に取る。現在は7時半を少し過ぎたくらい。アラームは8時設定だったから少しだけ早起きだ。
二度寝する気にもなれないので、時計のアラームを切る。窓を見れば、遮光カーテンがほとんど全開になっていた。どうやら寝る前にカーテンを閉め忘れていたらしい。うっかりしていたな。
それはさておき。さっき見ていた夢を思い返して、溜め息を吐く。
————またあの夢だ。
ここ最近、三日に上げず見ている父の夢。
ついこの前までの夢は、誰でも見るようなありふれたものだったはずなのに、いつの頃からか急に父さんの夢ばかり見るようになったのだ。
何故夢に父さんが出てくるのか。何故呼びかけても何も語ってくれないのか。そして最後の「待っている」という言葉の意味は何なのか。分からないことだらけだ。ただ、はっきりしているのは、夢から覚めた後は必ずやり場の無い寂しさが残る、ということだけ。
(……分からないことを考えるのはやめよう)
もう一度息を吐いて、ベッドからもぞもぞと出る。気が重くなる前に、動き出してしまった方がいいだろう。今日は土曜日で学校は休み、そして取り置きを予約した本が届く日でもある。普段の休日はゆっくり起きる僕だけど、今日に限っては取り置きの本をいち早く受け取るのが目当てで早起きしたようなものだ。
待ち侘びた気持ちが、夢の後遺症を頭の片隅に追いやる。早速、昨日のうちに用意していた着替えに手を付けた。
天気予報では今日も朝から暑くなるので、薄手のジーンズにTシャツ、薄手の上着を羽織る。昨日の夜に準備済みの荷物入りリュックを持ち、自転車の鍵をジーンズのポケットに入れる。あとは朝の支度をするだけ。でも、まだ部屋を出るには早い。
その理由は、ベッドの向かい側にある箪笥、その上に置かれた水を張った小さな水槽。顔を近づけると、僕の気配に気が付いたのか、一匹のイモリが水面から小さな頭を覗かせた。
「おはよう、チョロ。今日も暑いってさ」
仲良しの友達みたいに声をかけると、イモリは大粒の瞳でじっと僕を見つめる。その仕草が、言葉を持たない彼なりの挨拶なのだと勝手に思っている。返事を確認した僕は、水槽横に置いた容器から固形イトミミズを二、三個摘み、水槽にぽとりと落とす。これがこのイモリ……チョロの朝ご飯であり、僕が部屋を出る前に必ず行うルーティーンでもある。チョロは餌に気が付くや否や、待ってましたとばかりにかぷかぷ食いつき始めた。
相変わらず美味しそうに食べるなあ。微笑ましさに頬を緩ませ、ようやく部屋を後にした。階段を小走りに下り、荷物を一旦玄関に置くと、リビングを通って台所へ向かう。
「母さん、おはよう」
「あら、おはよう渚。早起きねえ、今日は土曜日でしょう」
母さんはエプロン姿で朝飯の用意をしていた。いつものように、僕と似ても似つかない黒髪を後頭部ですっきり束ねている。
「まあね。これから図書館に行くんだ。予約してた本が届いてるって連絡あったから。ついでに少し勉強してくるよ」
「ああ、もうすぐ期末テストだもんね。読書も大切だけど、ちゃんと勉強もするのよ」
「わかってるよ~」
唇を尖らせお道化た返事をすると、ちょっとウケたのかくすっと笑われた。僕も連られて小さく笑う。
「朝はハムエッグとトーストでいい?」
「うん、いいよ」
冷蔵庫から出したジャムとマーガリンを僕に託し、母さんはフライパンを火にかけ始めた。僕はその間に食パンをトースターに入れて、テーブルクロスや食器を準備する。
程なくして焼き上がったトーストにマーガリンとジャムを塗っていると、ハムエッグが運ばれてきた。母さんも朝食がまだだというので、一緒に食べることになった。
トーストをもう一人分追加で焼き、それにもマーガリンとジャムを塗る。少しして、母さんも自分の分のハムエッグを持って僕の向かいの席に座った。準備が整ったところで、二人でいただきます、と声を揃える。
食べる傍ら、母さんがテレビを点けるとちょうど朝の情報番組がやっていた。
MCとパーソナリティーのタレントや芸人たちのやり取りが終わってしばらくすると、ニュースを伝える時間になった。
アナウンサーの男性がニュースを読み上げるのを聞き流していると、気になるニュースがあった。
『——世界各国で異常気象多発——』
「……怖いわね」
母さんがどこか物憂げに呟く。
「何か最近異常だよね」
トーストをかじりながらテレビ画面を見つめる。ニュースでは先日大雨が降った都市や、竜巻が発生したところを撮影した視聴者投稿の映像が流れている。アナウンサーの言うことには、大雨による浸水や電車の遅れや交通事故などで都心部はかなり混乱したらしい。
「そうね、どうしちゃったのかしらね……」
コーヒーをすすって母さんが答えた。同じくテレビを見つめているけれど、その瞳はどこか別の場所を見ているように思える。
(異常気象か……)
――――この数年、日本では異常気象や自然災害が増えている。
夏の異常な酷暑。警報級の豪雨や落雷。突発的な竜巻。各地で頻発する地震。例を見ない発生数の台風。交通機関が麻痺する規模の大雪。そして、それに伴うありとあらゆる自然災害。
連日のように報じられるそれらは、日本全国で枚挙に暇が無い。しかも、それは今や日本だけでなく、海外でも大きな問題になっているという。今流れているニュースでも、加えてアメリカやヨーロッパで嵐や山火事が頻発して被害が出ている、と語られていた。僕の住む地域も、まだ六月だというのに熱中症で倒れた生徒が何人かいるし、僕自身も予報外れの激しい雷雨には何度も困らされた。思えば、強い地震や急な竜巻もこの頃多くなった気がする。
(今日も急に雨降ったりするのかな……やだなあ)
テレビ画面を眺めながら心で呟く。今日は一応雨の予報は無かったはずだけど、自転車で出かけるしレインコートを持っていこうかな。
食事を終えると8時半になろうとしていた。その後は洗顔と歯磨きをして、寝癖の付いた青色の髪を梳かす。生まれつきの手強い癖っ毛なので、梳かしてもあまり変わらないんだけど。
畳んだレインコートを追加で詰めたリュックを背負い、一度振り返る。見ると母さんが見送りに玄関まで来てくれていた。
「行ってきまーす」
「ええ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
母さんの柔らかな微笑みを受け止めて、僕はドアを開けた。
小学生の頃から愛用の自転車にまたがって、強くペダルを漕ぎ出す。
六月も終盤。まだ梅雨が明けない空気は湿気ぽく、夏が近づいた朝の光は眩しい。けれど、朝が早いおかげか空気は比較的涼しく、風を切れば湿気もさして気にならず心地良かった。
あまり大きくない住宅街を抜け、道路沿いを走る。図書館は、住宅街を抜けて少し南へ行った所にある。土曜日のこの時間帯は人も車も多くないので、思い切り自転車を走らせることができた。涼しい風の気持ちよさと、早く図書館に行きたい気持ちとが合わさって、思わずふっと腰を浮かせた。目一杯ペダルを踏み込んで立ち漕ぎすると、さっきよりも強く風が頬をなぶった。このスピードなら、ちょうど開館するくらいに到着するかな、などと少しだけ胸を弾ませて住宅街を走り抜けた。
……のはいいのだけれど。立ち漕ぎを始めてから数分後、僕は若干息が上がっていた。理由は簡単、坂道を立ち漕ぎで登り切ったからだ。
図書館に行くルートはいくつかあるけれど、一番の近道は僕が「裏山ルート」と呼んでいる行き方だ。かつて通っていた小学校の裏手にある小さな山。その前を通るルートなら、住宅街をそのまま抜けるより10分くらい速い。
けれども、このルートを使う時に問題となるのが坂道だ。裏山の出入り口前にあるこの坂は若干傾斜が厳しい。いつもの僕ならば無難に自転車を降りて押していくのだけど、今日は調子に乗って立ち漕ぎで挑んでしまった。
その結果、坂はいつもより早く登り切った代わりに、息が切れるのもいつもより早かった。
(慣れないことはするもんじゃないな……)
自分の貧弱さをもう少し考慮するべきだった。僕はただでさえ同年代よりも体力が無いのに。落ち着け僕、急がなくたって予約した本は逃げていかないぞ。
裏山に面した道へと出る頃には、すっかりスピードが落ちていた。
ひとまず、裏山の入口付近にある樹の木陰に自転車を止めた。その逞しい幹にもたれかかり、息を整えながら涼む。そよ風程度の風邪でも木の葉は揺らぎ、お互いに擦れてサラサラと軽やかな音を立てる。それが涼しさを引き立てている気がして、思わず息を漏らした。
呼吸が落ち着いた頃、何気なく山道の方に目をやる。整備されて奥まで続く道や、その左右に佇む樹々を見つめていると、段々と懐かしくなってきた。そういえば、この裏山の前で足を止めたのはいつ以来だろう。
名前さえ付いていないこの小さな山は、標高も勾配もそれほど厳しくないので、地元の人たちには散歩がてら自然を楽しむ場所として、子供たちからは天然の公園のような場所として親しまれていた。
それは僕も例外ではなく、小さい頃はこの裏山が友達との遊び場だった。幼稚園年中から小学二年生くらいまでは、友達とよく探検ごっこやかくれんぼをしたし、秋にはどんぐりや松ぼっくり拾いなんかもしたっけ。
今でもたまに通りかかると、小さな子供たちが山に出入りして駆け回っている姿を見かける。ここは昔と変わらず地元の子供たちの遊び場、或いは秘密基地のような役目を果たしているようだ。
尤も、小学三年生あたりからは徐々に足も遠のき、中学に入学してからは勉強や家の手伝いなどに時間を取られてしまい、気が付けばすっかり遊びに行かなくなっていた。
図書館へ向かう時に、相変わらず山の前はよく通る。でも、ここで遊んだ思い出は記憶の片隅に追いやられていたせいか、目には映れど足を止めることはなかった。
今、ここに訪れたのは全くの偶然だ。けれど、見慣れた景色が目に映った途端、ぽっと火が灯るように懐かしさが生まれた。それは内側にゆっくりと広がっていき、ふとある思いに駆られた。
――――久々に登ってみようかな。
図書館には早く行きたかったけれど、時間はたっぷりあるんだ。久々に山登りして自然を味わうのも悪くない。それに、何といってもここは、子供でも登り切れるほど易しい山。体力の無い僕でも、軽い散策にはもってこいだ。
自転車では進めないので、とりあえず木陰にそのまま駐輪しておこう。ロックをかけて鍵をポケットにしまうと、リュックを背負い直す。よし、と呟いて意気込み、踏み慣らされた粘土質の山道へ足を踏み入れた。
最後にここを訪れた時から少なくとも三、四年は経っているはずだ。けれど、山の景観はあの頃とちっとも変わっていなかった。強いて言えば、伐採された跡と思われる切り株が以前より増えている気がするくらいか。
マテバシイやクヌギの樹々が織り成す雑木林。うずくまるように茂るツツジの葉。苔むした岩。どこかから聞こえてくる鳥の声。なめらかな地面に揺れる木漏れ日。そのどれもが、僕の中に生まれた懐かしさを強めた。
いわゆる森林浴というのだろうか、山の中には清々しい空気が満ちていた。そんな空気を乗せたそよ風が時々ふっと吹き抜けては、木の葉をサラサラ奏でてどこかへ消えていく。思わず深呼吸すると、爽やかでひんやりした空気が体を巡っていく気がした。
そういえば森林浴って、植物の出す化学物質のおかげで癒し効果があるって何かの本で読んだな、なんてことを考えながら景色を楽しむ。辺りを見渡せば、見覚えのあるものをいくつか発見した。
――――あれはかくれんぼでよく使った樹のうろ。小学生くらいなら三人は入れるくらい大きいんだよね。
――――あれは小さい洞窟。あそこを秘密基地にしてごっこ遊びをしたっけ。
――――それからあの岩。僕らは「とんがり岩」と呼んでいたごつごつの大岩は、誰が一番速く登ってその上で立てるか競争をするのにもってこいだったなあ。
あれこれ思い返しながら、のんびり山を登っていく。やがて15分ほど経っただろうか、ようやく山の中腹辺りの或る場所にやってきた。
朱塗りの剥がれ落ちた、大きく立派な鳥居。奥に見えるのは、すっかり寂れて古ぼけた拝殿。山道の目印である石畳の途中、脇には手水舎があり、石造りの水溜めと獣か何かの形を模した水道がある。今となっては、水はすっかり干上がっているけれど。
そう、ここは山奥にひっそりと佇む神社。確か名前は「大奈神社」だ。
僕が生まれるよりずっと前から既に然るべき人々はいなかったというこの神社。本来の役目を失ったここは、今では散歩に訪れる人や山遊びで疲れた子供たちの休憩に使われたり、かくれんぼや鬼ごっこで遊ぶ時に使ったり、すっかり地元の人々の馴染みと憩いの場になっている。ここもまた、かつての僕たちにとっては遊び場だった場所の1つだ。
「久々に来たけど、全然変わってないや」
呟いて、鳥居の外側から境内を見回す。この景色が当たり前だった頃のことが思い返されて、俄然懐かしさが込み上げてきた。
今の時間、流石に神社に遊びに来ている子供はいないようで、しんと静まり返っていた。まるで、ここだけ別の時間が流れているかのような、不思議な雰囲気。
そこまで思いを馳せて、ふと思い出したことがあった。
僕がまだ小学一年生くらいだった頃。友達からこんな噂を教えてもらった。
————大奈神社の鳥居を、目をつぶったままくぐると異世界に行ってしまう。
それは、この神社を遊び場にする地元の子供の間で実しやかに語り継がれてきた話だ。
噂によると、この方法で異世界へ行ってしまった人間は、二度と元の世界に戻ってこれなくなるらしい。異世界へ入った途端に出口が閉じてしまうだとか、異世界に棲む化け物の餌食になるだとか、この世のものとは思えない綺麗な景色に心を奪われて帰る気持ちを失ってしまうだとか。
詳細は話し手によって違っているものの、話の大筋は「異世界に行ったら帰ってこれない」ということで一致していた。
元々オカルト話を信じやすかった上に、当時幼かった僕は当然その噂を素直に信じ、「鳥居をくぐる時はまばたきしないようにしないと」と怯えたものだ。
もちろん、大人は誰もこの話を信じてなかった。所詮は噂、根拠も無い眉唾話。差し詰め、地元の老人が子供たちの退屈を紛らわす為に作ったお伽噺に尾ひれが付いた程度のものだろう、とこの話を一笑に付していた。
今思えば、そんな大人たちの意見はご尤もだと思う。
学校の七不思議とか、都市伝説とか、その手の噂はどこまでいっても信憑性に欠ける。多少分別が付くようになった今ならそう理解できる。
でも実は、個人的にあながち全て嘘ではない、とも思っている。
火の無い所に煙は立たぬとはよくいうもので、その手の噂は何かきっかけがあったから生まれる、という考え方も出来る。異世界へ繋がる鳥居の噂もそんな経緯で生まれたのかもしれない。
それに、もしそんな不思議なことが本当に起こったら、それはそれで素敵だとも思う。むしろ僕はその異世界が存在するなら行ってみたいとすら思う……なんて、とても他人に言えたものではないけど。
鳥居を見上げ、しばらく見つめる。それから視線を下ろして、徐に頷く。
異世界、という単語は魅力的だけど、残念ながら結局は噂話。噂を知った当時と違い、噂は噂でしかないと分かっている今は怖くも何ともない。だからこそ、ちょっぴり試してみてもいいかもしれない。
(まあ、本当に異世界に行っちゃったらその時はその時……ってね)
そんなお気楽なことを考えながら、僕は目を閉じ、一度ゆっくりと深呼吸をした。そして、そっと大股で歩き出し、そのまま鳥居をくぐり抜けた。
――――5歩ほど歩いてから、止まって目を開ける。
時間をかけて辺りをゆっくりと見渡す。大股で歩いたので鳥居はとっくに背後にあり、石畳の真ん中くらいに立っていた。視界に入るのは目の前の拝殿、その前に佇む一対の狛犬、横に見える手水舎、絵馬堂に社務所、その他諸々……見る限り何一つ変わったところは無い。僕の知っている神社のままだ。
「……あはは、そりゃそうだよね」
思わず苦笑混じりに零した。心のどこかで「本当に異世界に行けたらいいな」なんて、冗談でも思っていた自分が何となく恥ずかしかった。
誰が見ていたわけでもないけど、誤魔化すように境内を歩いてみた。廃神社となったここには見て楽しめるものなんてほとんど無いのだけど、懐かしさに後押しされて、社の周りをぐるりと巡ってみる。木造の柱や回廊の床は、風雨に晒され手入れされなかったせいか、所々朽ちて腐りかけていた。最近地震も多いのに壊れずにいるのが不思議なくらいだ。
そう思いながらゆるゆると歩いていると、社の真後ろまでやってきた。
本来神社は、社が本殿(御神体を祀る社)と拝殿(参拝するための社)の二つに分かれているのが一般的だという。けれどもこの大奈神社は、この小さな山そのものを御神体としているので、本殿は存在しない形式の神社なのだ、と学校の歴史の先生から聞いたことがある。
だから、拝殿の後ろにあるのは本殿ではなく防風林だけだった。そこは日が当たらないせいで少々薄暗く、土はどこも湿っていてナメクジやクモが快適に過ごしていそうな場所だ。それ以外変わったものは無いと思っていたが、目を凝らしてみると気が付くことがあった。林の少し奥の方に、何やら小道らしいものが見えたのだ。
あれ、こんなところに道なんてあったっけ、と首をひねる。神社でよく遊んでいた頃も社の裏手に来たことはもちろんあった。もしも当時から道があったなら、その時に気が付いてもおかしくないはずだ。けれど、当時は小さかったし、遊びに夢中で気が付かなかったのかも。仮に当時から道に気が付いていたとしても、昔のことだしすっかり忘れているのかもしれない。
とにかく、林の奥に見つけたそこに、好奇心をくすぐられてしまった。腕時計を見ると既に九時を回っている。図書館が開いてすぐくらいだ。
「……急ぎじゃないし、いっか」
結局勝ったのは、持ち前の好奇心。言い訳をそっと呟き、僕は樹々の間をくぐり抜けた。
枝が絡み合うようになっていて歩きにくい、と思ったのは最初だけで、しばらくすると視界が開けた。
そこには何と、並木道がずっと伸びていたのだ。そこからの道は歩きやすく、どうやら人の手で整備されたものだと分かった。だとしたら、この先には何があるのだろう。全く想像が付かないまま、それでも心のどこかに淡い期待を抱いて歩いていくと、見えてきたものに息を呑んだ。
1メートルほど先、目に飛び込んできたのは、このご時世には珍しいくらい古風な日本家屋だった。それもなかなかに大きくて、家というより軽いお屋敷に近い。お金持ちの老夫婦でも住んでいそうな雰囲気だ。それが防風林の奥にあっただけでも十分びっくりだけど、よく見ると家の前には人影があり、二度目を瞠った。
背が高いその人は、若い男の人だった。見てくれは20代後半くらいだろうか。木漏れ日に照らされた金髪はまろやかに光をはね返して煌めくようで、男性としては長めのそれは頭の後ろですっきり束ねられている。服装は一言で言うとお洒落で、ついでに言えば男の僕ですら見とれてしまうほど整った顔立ちだった。雑誌のモデルか、海外の俳優だと言っても納得してしまう。
そんな美形の金髪お兄さんが、大きな日本家屋を前に何やら思案顔で佇んでいる。不思議と言えば不思議な光景だけど、何だかとても絵になる光景でもあった。
気が付けば、引き寄せられるようにその人に近づいていた。すると足音に気が付いたのだろう、お兄さんもこちらを振り返った。
「こんにちは」
「あ、えっと、こ、こんにちは」
相手から先に挨拶されたので、ついどもってしまった。知らない人と話すのはあまり得意ではないのだ。
「もしかして神社の参拝か?残念だが、かなり前に廃神社になっているみたいだぞ」
「あ、はい、知ってます。僕、地元なので」
「おっと、そうだったか。これは失礼」
お兄さんが軽く頭を下げた。その仕草すらどこか優雅に見える。
「それにしても、よくここが分かったな。ここまでの道、林に隠れて分かりづらかっただろうに」
「えっと、僕も今日初めて気が付いたんです。興味本位で道を辿ってきたらここに来ちゃって……あ、その、勝手に入ってきちゃってすみません」
今度は僕が頭を下げた。彼がこの家の住人だと思ったからなのだが、当の本人はきょとんとしていた。数秒後、合点がいったように「ああ」と納得したように呟くと、くすくす笑う。
「謝ることはない。俺も君と同じで、見つけた道を辿ったらここに着いたよそ者だよ」
気さくな口調でそう言われ、何だそうだったのかと安堵した。顔を上げ、改めてお兄さんの顔を見る。
近づいて分かったけれど、見れば見るほど綺麗な見た目だった。髪はもちろん、睫毛まで金色で長くて、とても色気のある目だ。中性的な顔立ちというのだろうか。
ただ一つ、驚いたのは瞳の色だった。ワインレッド、或いは蘇芳色というか、黒か焦げ茶が混ざったような赤……に見える不思議な色彩なのだ。海外の方なのだろうか、失礼かと思いながらも尋ねてみる。
「ああ、ちょっとこちらで仕事があってね。ここに来て日は浅いんだが、日本語もなかなか達者なものだろ?」
ウインクして微笑むお茶目な仕草に、思わず頬が緩んで「はい、とっても」と頷いた。
ふと、お兄さんがあっと声を上げた。今度は困ったように笑って僕を見る。
「すまない、名前も名乗らずに……俺はルキア・アビガイルという者だ。良ければ君の名前も教えてくれるかい?ここであったのも何かの縁だ」
「はい。僕は雨宮 渚といいます。近くの中学校に通ってて、中学二年生です」
「————雨宮、か」
お兄さん改め、アビガイルさんが何故か一瞬目を丸くした。
「え、知ってるんですか?」
「いや、ここいらじゃ珍しい名前だと思ってな」
「アビガイルさんも珍しいお名前ですよね、かっこいいです!」
「ふふ、珍しいとはよく言われるが、かっこいいなんてのは初めて言われたよ。ありがとう」
アビガイルさんは少し照れ臭そうに笑った。
誇張ではなく本当に珍しい名前だと思う。一体どこの国の人だろう。響きのお洒落な感じが、何だか物語の登場人物みたいだ……なんて思ったのは、僕がそういった類——いわゆるファンタジージャンルや冒険譚——の小説や漫画が好きだからだろう。
そこまで考えてようやく思い出し、今度は僕があっと声を上げる。危うく本来の目的を忘れるところだった。
「どうした?」
「すみません。僕、近くの図書館に用事があったんですけど、寄り道しすぎちゃって……そろそろ行かなきゃ」
「図書館か……調べものかい?」
「予約していた本を借りに行くんです。あと、期末試験が近いので少し勉強もします」
「おお、偉いな。頑張れよ」
「ありがとうございます」
励ましをくれたアビガイルさんに会釈する。
「……別れるには名残惜しいが、また会えるといいな」
顔を上げると、アビガイルさんは微笑んでいた。初対面の人に向けるには、どこか親し気で、優しい印象の笑み。ただでさえ端正な顔立ちの人が柔らかく微笑むものだから、思わずどきっとした。
――――次の瞬間。信じられないことが起きた。
ザアアッッ……アビガイルさんの背後から、激しい風が吹きつけてきた。木の葉が舞い、視界が悪くなる。
急な突風に反射的に目を瞑り、顔の前で腕を交差させた。何が起きているのか理解もままならないうちに、体がふっと浮いているような、不安定な感覚に襲われる。眩暈を感じるのと同時に、彼の声が風の向こうからはっきりと聞こえた。
「――――また会おう、少年。その時まで、達者でな」
――――風はすぐに止み、静かになった。
恐る恐る目を開けて、我が目を疑う。そこは、さっき日本家屋があった林の奥ではなく、大奈神社の鳥居の前だったのだ。
(あれ……?いつの間に戻ってきたんだろう?)
さっきまで確かに、お屋敷風の家の前で金髪お兄さんことアビガイルさんと喋っていたのに。
話に区切りがついてから1分と経たずにここにいるのも、自分で歩いてここまで戻ってきたような感覚が無いのも、何とも奇妙だ。現実感の無さに若干混乱する。
もしかして……もしかすると、僕はあの瞬間、本当に別世界に行っていたのだろうか。あのおふざけみたいな噂の通りに。
いやいやまさかあり得ない、と即座に考えを打ち消す。あれは単なる都市伝説や怪談程度の噂話だ。確かにさっき会ったアビガイルさんは、どこか浮世離れした雰囲気を感じるけれど、きっと気のせいだろう。ちょっとミステリアスな雰囲気を纏う美人な外国人、で十分説明できる。
(こういう、何て言うんだっけ……)
————白昼夢。そう、きっとそれだ。
そうでなければ、知らないうちに異世界ではなく自分の妄想の世界に浸っていただけかも。それもそれで変な話だけど、そっちの方がいくらか現実的だ。
どれだけ理屈をこね回しても腑に落ちないけど、これ以上考えても仕方ないと諦める。気を取り直して時計を見ると、9時20分。そろそろ本来の目的地に行かなきゃ。神社に背を向け山道を下りながらも、遠ざかる鳥居をちらっと振り返る。
本当に一体、あの数分間は何だったのだろう。どうせなら、あの不思議なお兄さんともうちょっとお喋りしておけば良かったかなあ……なんてね。
理解はできなかったけれど、僕の心には例えようのないわくわくした気持ちがじんわり広がっていた。不思議の尻尾をほんの少しでも掴んでいたのかもしれない。そう考えると無性に心が弾み、頬が緩んだ。
登った時より心なしか足早なのは、きっと下りの道だからだけではないだろう。僕は軽い足取りで、山を後にした。
◇◇◇
少年との接触は、完全に予想外だった。
長い交流は流石に怪しまれると踏んで、さりげなく追い返したのは正解だっただろう。まだ残る風の名残に金髪を靡かせながら、男は溜め息を吐く。
彼の本来の目的は、探し人を見つけることであった。彷徨うように各地を転々として、ようやくその気配の端っこを、この小さな町で掴んだ。糸より細く頼りない手がかりを手繰って辿り着いたそこは、小さな山に建ってるのが不自然なほど、この町では二つと見ない立派な古民家であった。
尤も、そこには目当ての人物どころか、誰かのいる気配すら無かった。人は住んでいるのだろうが、何にせよ当ては外れた。
(まあ、手がかりと言っても頼りないものではあったからな)
出来れば探し人が行動を起こす前に見つけ出したいが、大きな動きが無い以上抑えようもない。仕方ない、と男は気を取り直し、くるりと古民家に背を向けた。
ふと、先程の少年を思い返す。
当てが外れ、思わず肩を落としかけたところに現れた、青い髪の少年。彼とこの町で会ったのは初めてだったが、男は確かに彼を知っていた。
「……まさか、ここで会うことになるとは。運命は分からないもんだな」
ぽつり、呟かれた男の言葉は、誰に届くこともなく木洩れ日の柔い光に溶けていった。
見上げれば、そこだけ丸く開けた頭上には快晴の青天井。その遥か彼方に何かを見るように、男は目を細める。
(……時は満ちた、か。俺が言えた立場じゃないが、随分と早熟じゃないか?そんなもんなのか、“予言の子”ってのは)
現代日本には似つかわしくない、ダークレッドの瞳。夏の太陽の光を見つめるそれは、しかしどこか憂うように陰っていた。
更新は気まぐれかつ遅筆ですが不定期に続けていくつもりです。
途中まで進め終えているので、あまり間を空けずに続きを載せていく予定です。
興味がある方は引き続きよろしくどうぞ。




