第23話 本物の候補者、学園へ来る
人は、勝ち目のない相手を前にした時ほど、妙に細かいところまで見てしまう。
背が高いとか、声が落ち着いているとか、礼儀が自然だとか、笑い方に余裕があるとか。
そんな一つ一つを拾っては、自分との差として数え始める。
比べても意味がない。
最初から分かっている。
分かっているのに、やめられない。
その日、クラーヴェル侯爵家嫡男アシュレイ・クラーヴェルが再び学園へ姿を見せた時、俺はまさにそういう最悪の状態だった。
朝から、空気が妙に整っていた。
妙に、というのは変な表現かもしれない。
だが本当にそうだったのだ。
教師たちの態度が少しだけ丁寧になる。
廊下を歩く上級貴族の生徒たちが、どこか落ち着かない。
使用人たちの動きがいつもより静かで無駄がない。
そういう細部が積み重なると分かる。
今日は“家格のある来客”が来る日なのだと。
「来るわね」
馬車を降りたあと、セレスティアがぽつりと言った。
「そうみたいですね」
俺も返す。
その声が少しだけ硬かったのは、気のせいではないだろう。
昨夜、廊下で聞いた“少しだけ機嫌が悪い”という言葉がまだ尾を引いている。
しかもそのあと、“半分は仮恋人としての見え方、半分は知らない”という、かなり危険な一言まで聞いてしまったせいで、こっちの精神状態もあまりよくない。
落ち着け。
今はそういうのを考えている場合ではない。
本物の候補者が来る。
多分、今日の学園はまた少し違う方向にざわつく。
「あなた」
セレスティアが横目で言う。
「何ですか」
「今朝は少し静かね」
「そうですか?」
「ええ。余計なことを言わない分、少しはまし」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「嵐の前っぽくて不気味」
「ひどいな」
そう言うと、セレスティアは小さく息をついた。
その吐息に、昨日までのやり取りの余韻が少しだけ混じっている気がして、また変に意識しそうになる。
だめだ。
本当にだめだ。
今日はただでさえ、気を抜くと勝手に沈みそうなのに。
一時間目と二時間目は、表向き何事もなく進んだ。
教室内の噂は少し落ち着いている。
だが“収束した”というより、“次の材料を待っている”感じに近い。
人は静かな時ほど、次に起きることへ期待する。
しかも今回の材料は分かりやすい。
婚約破棄された公爵令嬢。
その仮恋人を名乗る下級貴族。
そして新しく現れる本物の縁談候補。
並べるだけで、見世物としては十分すぎる。
フィオナは休み時間ごとにこちらへ来て、わざとらしく肩をすくめた。
「今日の空気、最悪ね」
「楽しそうに言わないでください」
俺が言うと、
「半分は楽しいもの」
と彼女は言った。
「でも半分は本気で嫌」
「珍しいですね」
「何が」
「フィオナさんが“嫌”ってはっきり言うの」
「そりゃ言うわよ。
こういう時の社交界って、だいたい“正しそうなもの”に流れるから」
その言い方は妙に鋭かった。
正しそうなもの。
それはつまり、クラーヴェル侯爵家嫡男アシュレイのことだろう。
「もう見たの?」
セレスティアが訊く。
「遠目にはね。
教師陣への挨拶回りしてた」
「それで?」
「感じいい」
「……」
「悔しいけど、すごく感じいい」
俺は思わず天井を見そうになった。
フィオナにそこまで言わせるなら、本当に隙がないのだろう。
「しかもね」
彼女は続ける。
「ただ優秀なだけじゃなくて、“相手をちゃんと立てるのが上手い”」
「うわ」
「でしょ?
そういう人が一番強いのよ。
自分が前へ出すぎず、でも場の中心はちゃんと取るから」
嫌な情報ばかり増えていく。
フィオナは俺の顔を見て、ちょっとだけ眉を寄せた。
「沈まないでよ」
「無理かもしれないです」
「早い」
「だって今の情報、だいぶきついですよ」
「きついのは分かる。でも、まだ見てもいない相手に一人で負けるのはだいぶ格好悪い」
「……」
「ほら」
「正論で殴らないでください」
「今のは優しくだよ」
その優しさが痛い。
セレスティアはそんなやり取りを黙って聞いていたが、やがて短く言った。
「あなた、今日は本当に変に縮こまらないで」
「分かってます」
「本当に?」
「努力は」
「努力じゃなくて」
「……分かりました」
その一言に、少しだけ力が入る。
この人は今、俺が勝手に一人で負けることを一番嫌がっている。
それだけはちゃんと分かる。
アシュレイ・クラーヴェルが本校舎へ入ってきたのは、昼前の礼法実践の直後だった。
来客用の回廊は生徒が自由にうろつける場所ではない。
だが上階の吹き抜けや、接続する渡り廊下からは十分に様子が見える。
そして学園の生徒たちは、こういう時だけ驚くほど“偶然そこにいた”顔をする。
俺もその一人だった。
吹き抜けの欄干越しに見下ろすと、アシュレイは教師に案内されながらゆっくり歩いていた。
前に一度見ている。
それでも、改めて見るとやはり整っている。
無駄に華美ではない。
それなのに、立ち姿だけで“ちゃんとした家の人間だ”と分かる。
仕立てのよい上着、落ち着いた髪型、柔らかな微笑み。
どれもが“頑張って作っている”感じではなく、もう体に馴染んでいるのが厄介だった。
しかも今日は、前回よりさらにそれがよく見えた。
教師が何か説明すると、彼は少し体を傾けて耳を向ける。
返事は短く、でもぶっきらぼうではない。
廊下脇にいた下位の教員にも、一段だけきちんと礼を返す。
見ている側が“感じがいい”と受け取るような動作を、力まず自然にやっている。
「……うわ」
また漏れた。
「語彙が死んでる」
フィオナが横で言う。
「仕方ないでしょう」
「まあ分かるけど」
「本当にちゃんとしてるな」
「でしょ?」
「悔しいですけど」
「それも分かる」
セレスティアは少し離れた位置で、その様子を静かに見ていた。
横顔はいつも通りだ。
冷たくて、整っていて、隙がない。
だが、俺にはもう分かる。
今の彼女は、静かなだけではない。
少しだけ身構えている。
やがて教師の案内で、アシュレイの視線がこちらの上階へ向く。
偶然でもなんでもなく、彼はセレスティアを見つけたのだろう。
ほんの少しだけ足を止め、自然な角度で一礼する。
完璧か。
セレスティアもそれに応じて一礼を返す。
その一連のやり取りは、遠目から見れば絵のようだった。
公爵令嬢と侯爵家嫡男。
家格も外見も空気も、全部が綺麗に釣り合う。
その絵の完成度の高さに、胸の奥がぎり、と嫌な音を立てた。
「エイトくん」
フィオナが小声で言う。
「顔」
「そんなにですか」
「そんなに」
「最近そればっかりだな」
「本当に分かりやすいんだから仕方ない」
俺は息を吐いた。
やめろ。
比べるな。
分かっている。
でも、あの並びを見せられて平気でいられるほど、俺はできた人間ではない。
その後、学園側の計らいで小規模な談話の場が設けられた。
表向きは“学業交流の一環”。
実際はもちろん、セレスティアとアシュレイを自然に同席させるための場だろう。
高位貴族の家の子弟が数人、教師が二人、そしてなぜかフィオナまでそこにいた。
フィオナは本当にこういう場へ入り込むのがうまい。
俺は本来、その輪の外にいるべき立場だった。
外にいるべきなのに、セレスティアがあっさり言ったのだ。
「エイトも」
短く、当然のように。
教師の一人が一瞬だけ迷った顔をしたが、ルーヴェン家の令嬢にそう言われては、露骨に外すわけにもいかない。
結果として、俺もその場へ入ることになった。
その時点で、もう肩身が狭いを通り越していた。
小さな応接スペースに丸卓が並び、茶器が置かれている。
アシュレイは席につく前に、まずセレスティアへ視線を向けた。
「本日は改めて、お時間をいただきありがとうございます」
声も落ち着いている。
「こちらこそ」
セレスティアが返す。
ここまでは普通だ。
普通なのだが、俺は一つのことにすぐ気づいた。
アシュレイは、セレスティアへ必要以上に近づかない。
それがうまい。
縁談候補として距離を詰めすぎれば、相手が警戒する。
逆に遠すぎれば興味がないように見える。
彼はそのちょうど真ん中を最初から外さない。
しかも、こちらに対しても。
「アルヴェル殿」
アシュレイが俺を見る。
「先日は失礼しました。十分にご挨拶もできず」
「いえ」
俺は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「こちらこそ」
「ルーヴェン嬢の隣で、ずいぶんと注目を集めておられるようですね」
柔らかい笑顔。
だが、含みがないわけではない。
「そうみたいです」
「大変でしょう」
「まあ、それなりに」
「あなたのような方には、学園の風向きはあまり優しくないでしょうから」
一瞬、返す言葉に迷った。
侮辱ではない。
同情でもない。
だが“あなたのような方”という表現は、家格差をきっちり織り込んでいる。
それをあくまで柔らかく言えるあたり、やはり手強い。
「優しくはないですね」
俺は答える。
「ですが、立ってみると意外と風向きも変わるものです」
「なるほど」
アシュレイはそこで微笑みを深くした。
「それは興味深いお考えだ」
会話としては穏やかだ。
でも、その実、探り合いに近い。
相手は俺の軽さも不利も分かった上で、正面から失礼なく圧をかけてくる。
強い。
やっぱり、すごく強い。
フィオナが横で紅茶を持ちながら、さりげなく口を挟んだ。
「クラーヴェル様は、こういう学園の空気にもお詳しいんですね」
「多少は」
アシュレイが答える。
「社交の延長線上にありますから」
「なるほど。じゃあ、今のルーヴェン様の空気も“社交の延長”としてご覧になる?」
さらっと危ないことを言うな、この人は。
だがアシュレイは動じなかった。
「そうですね」
彼は一拍置く。
「ですが、外から見えるものだけで判断しきれないのも、社交の難しいところでしょう」
「……」
セレスティアがわずかに目を上げる。
「それは、どういう意味かしら」
「そのままの意味です」
アシュレイの視線が、今度は俺とセレスティアの間を一度だけ流れた。
「少なくとも、学園で耳にした噂より、実際に拝見した印象の方が静かで誠実に見えます」
その言葉に、場が少しだけ静まる。
予想外だった。
もっと遠回しにセレスティアを持ち上げたり、王道の社交辞令で流したりするかと思っていた。
だが今のは、噂を知った上で、それに全面的には乗らないという立場の表明に近い。
セレスティアも少しだけ意外そうにしたが、すぐに表情を整えた。
「そう言っていただけるなら、ありがたいわ」
「ええ。
噂は便利ですが、便利すぎるものはしばしば手触りを失いますから」
アシュレイは静かに言う。
なんだこの人。
正しいだけじゃなくて、言葉の運びまで綺麗なのか。
俺は胸の奥にまた重さを感じた。
こういう相手に、どうやって勝つのだろう。
いや、勝つも何も、最初から競う土俵に立てていないのかもしれない。
その時だった。
「エイト」
セレスティアが突然、こちらの名を呼ぶ。
「はい?」
「さっきの資料、後で見せて」
「資料?」
一瞬だけ分からなかったが、すぐに察する。
「ああ、あれですね。はい」
今のは多分、会話の向きをずらしたのだ。
俺が妙に黙り込んでいたから。
アシュレイはそれを見ても、顔色ひとつ変えなかった。
だが、視線だけがほんのわずかに細くなる。
ああ、この人はこの人で、ちゃんと見ている。
セレスティアが俺を自然に会話へ戻したことを。
居心地が悪い。
だが同時に、少しだけ救われる。
談話の時間そのものは長くなかった。
アシュレイは礼儀正しく引き、教師たちにも好印象を残し、フィオナと軽い社交辞令まで交わして去っていった。
去り際も綺麗だった。
最後まで隙がない。
彼がいなくなったあと、空気が一気に緩んだ。
応接スペースから廊下へ戻る途中、フィオナが小さく言った。
「いやあ」
「何」
セレスティアが訊く。
「思った以上に隙がない」
「でしょうね」
「でも、嫌な人ではなかった」
「……ええ」
「それが一番面倒」
フィオナの総括は、かなり正しかった。
嫌な人ではない。
失礼でもない。
噂に安易に乗るわけでもない。
むしろ、まともだ。
だからこそ厄介なのだ。
単純に“ざまあ”の対象にできない。
敵として切れば楽だが、現実にはそういう相手の方が少ない。
セレスティアは廊下の窓際で足を止め、少しだけ息を吐いた。
わずかに肩の力が抜ける。
「疲れた?」
フィオナが訊く。
「少し」
「でしょうね」
「でも、思ったよりは平気」
「それ、強がり?」
「半分」
セレスティアは短く答える。
その会話を聞きながら、俺はまだ少し上の空だった。
アシュレイは正しかった。
見た目も、立場も、言葉も。
多分、周囲が彼を“本物の候補者”だと見るのは当然だ。
そういう現実をまざまざ見せつけられたあとで、どういう顔をしていればいいのか分からない。
「エイトくん」
フィオナがこちらを覗き込む。
「死んでる」
「死んではないです」
「でもだいぶ削られてる」
「まあ」
「まあ、じゃないよ」
「分かってます」
そこで、セレスティアが静かに言った。
「あなた、また勝手に一人で負けてるでしょう」
「……」
「図星ね」
「だって」
「何」
「ちゃんとしてたじゃないですか」
「ええ」
「正しかった」
「そうね」
「じゃあ」
そこまで言って、続きが出てこなかった。
“じゃあ俺は何なんだ”
そう続けたら、あまりにも子どもっぽくて、情けなくて、しかも本音すぎる。
セレスティアは数秒、俺を見ていた。
そして小さく言う。
「だから?」
「……」
「正しい相手だったわ。
でも、それで私が今すぐ何かを決めるわけではない」
その一言が、妙にまっすぐ胸へ落ちる。
「しかも」
セレスティアは続ける。
「あなたが勝手に比較して沈んでいることも、だいぶ面倒」
「ひどい」
「事実よ」
「でも、そう見えるなら」
「見えるわ」
「……すみません」
謝ると、彼女は少しだけ息をついた。
「本当に、そういうところは手がかかるわね」
「その言い方、わりと刺さります」
「なら、少しは立て直しなさい」
そこでフィオナがにやっとする。
「うわ、出た」
「何が」
セレスティアがじろりと見る。
「それ、“正しい候補者を見たあとで沈んでるエイトくんを放っておけない”って顔」
「違うわ」
「はいはい」
「フィオナ」
「でも、違わないでしょ」
セレスティアは答えなかった。
その沈黙自体が、だいぶ答えに近かった。
俺は窓の外へ目をやった。
昼の光が石畳を照らしている。
世界は平然としている。
でも俺の中だけ、ひどく落ち着かない。
正しい相手。
本物の候補者。
そして、それを見たあとでも、まだセレスティアがこちらを気にしているらしいという現実。
それは、嬉しい。
だけど、そこへ甘えていいほど楽な状況でもない。
多分、これからもっときつくなる。
家のことも、縁談のことも、噂も、全部。
だからこそ、今ここで一人で沈みきるわけにはいかないのだろう。
帰りの馬車の中。
今日はさすがに、いつもの小さな言い合いも少なかった。
俺もセレスティアも、少し疲れていた。
だが沈黙が長くなりすぎる前に、セレスティアが言った。
「今日の彼」
「アシュレイ様?」
「ええ」
「……」
「あなたから見て、どうだった」
その問いが少し意外だった。
「俺に聞きます?」
「聞くわ」
「正直に?」
「ええ」
「ちゃんとしてる」
「それは私も知ってる」
「ずるいな」
「続きを」
「……すごく、正しい人だなって」
「そうね」
「しかも、ちゃんと周りを見てる。
俺のことも、下に見て終わりじゃなくて、ちゃんと位置を測ってた」
「ええ」
「たぶん、いい人でもある」
「そうでしょうね」
「だから嫌だ」
最後だけ、つい本音が混ざった。
セレスティアがこちらを見る。
「嫌?」
「だって、悪い人なら分かりやすいじゃないですか」
「そうね」
「でも、ああいう人が“正しい候補”として来ると、こっちは何を相手にすればいいのか分からなくなる」
「……」
少し沈黙が落ちる。
それからセレスティアは、本当に小さく頷いた。
「私もよ」
「え?」
「悪意なら、切れる。
失礼なら、返せる。
でも、正しくて、丁寧で、悪くない相手には、どうしても“では何が嫌なのか”を自分で考えなくてはいけない」
「……それ、きついですね」
「きついわ」
やっぱり、彼女も同じなのだ。
ただ違うのは、その重さの質だろう。
俺は劣等感で沈む。
セレスティアは、正しさを前にして心が動かない自分を整理できずにいる。
「だから」
彼女は続ける。
「あなたが一人で負ける必要はないわ」
「……」
「勝手に比較して、勝手に手を放すのはやめなさい」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
まだ終わっていない。
少なくとも彼女は、そう言っている。
「分かりました」
俺が言う。
「本当に?」
「努力じゃなくて、本当に」
「よろしい」
その“よろしい”が少しだけ柔らかかった。
窓の外では、夕方の王都がゆっくり流れていく。
本物の候補者は、思っていた以上に強かった。
でも、だからといって今すぐ全部が終わるわけではない。
そのことだけが、今日の俺をなんとか支えていた。




