第24話 正しい男と、隣にいた男
人は、どうしようもなく勝てない相手を前にすると、たいてい二つの道のどちらかへ転ぶ。
一つは、最初から勝負の外だと割り切って笑うこと。
もう一つは、勝てないと分かっていながら、勝手に土俵へ上がって勝手に傷つくこと。
そして残念ながら、今の俺は完全に後者だった。
クラーヴェル侯爵家嫡男アシュレイが学園へ来た翌日。
朝から気分は妙に重かった。
昨日の光景が頭から離れないのだ。
整った立ち姿。
自然な礼儀。
教師にも生徒にも、必要以上に媚びず、でも十分に好印象を残す言葉選び。
噂に安易に乗らない賢さ。
そして、公爵令嬢セレスティア・フォン・ルーヴェンの隣へ置いた時の、絵としての完成度。
正しい男。
その表現が一番しっくりくる。
俺はいつものようにルーヴェン家の馬車へ乗り込んだが、今日は自分でも分かるくらい覇気がなかった。
「おはようございます」
声だけはどうにか出す。
「おはよう」
セレスティアが返す。
彼女の声音はいつも通りだった。
いや、正確には“いつも通りにしようとしている”声音だった。
俺が沈んでいるのに気づいているのかどうか、それを朝一番で確かめるほどの余裕は、こっちにも向こうにもなかった。
沈黙が落ちる。
馬車が動き出し、車輪の振動だけが静かに伝わる。
「……何」
少しして、セレスティアが言った。
「何がですか」
「今朝のあなた、ひどく静かよ」
「そうですか」
「そうよ」
即答だった。
やっぱり分かりやすいらしい。
最近そればかりだなと思うが、今日に関しては否定のしようもなかった。
「少し寝不足なだけです」
「嘘」
あまりにも早い返しだった。
「即答ですね」
「見れば分かるわ」
「……」
「まだ、昨日のことを引きずってるのでしょう」
図星すぎる。
俺は言い返せなかった。
言い返せない代わりに、少しだけ窓の外を見る。
朝の王都は相変わらず綺麗で、俺一人のくだらない劣等感なんて何も知らない顔で流れていく。
「正しい相手だったものね」
セレスティアがぽつりと言う。
その言葉は慰めではなく、事実として置かれた。
だからこそ、少しだけ胸に刺さる。
「ええ」
俺は苦笑した。
「ちゃんとしてました」
「そうね」
「しかも、人柄まで悪くない」
「ええ」
「……最悪だ」
思わず本音が漏れた。
悪人ならよかった。
傲慢で、こちらを露骨に見下して、セレスティアを家格だけで見ているような男だったなら、どこかで“あっちよりはましだ”と思えたかもしれない。
でもアシュレイは違う。
ちゃんとしている。
正しい。
だから、勝手に比べている自分の方がみっともなく見える。
セレスティアはしばらく黙ってから、少し低い声で言った。
「あなた、今日は本当に面倒ね」
「ひどい」
「事実よ」
「反論しづらいな」
「でしょうね」
そこでまた沈黙。
だが今日は、その沈黙が妙に重かった。
昨夜までなら、変な一言でも挟めば少しは空気が動いた。
今はそれすら難しい。
自分の中の沈んだものが、何を言っても底へ残る感じがする。
「……そんなに?」
セレスティアが、不意に言った。
「え?」
「そんなに、あの人が正しかったから苦しいの?」
その問いは、思っていたより真っ直ぐだった。
しかも責めるような言い方ではない。
ただ、知ろうとしている。
だからこそ、変にごまかしたくなかった。
「……はい」
俺は正直に言う。
「かなり」
「そう」
「だって」
少しだけ笑う。自嘲に近い笑いだった。
「家格も立場も社交も、全部そろってる。
しかも感じまでいいって、反則でしょう」
「反則」
「反則ですよ。
ああいう人が“本物の候補者です”って出てきたら、そりゃきついです」
セレスティアは少しだけ視線を落とした。
そして、小さく言う。
「私は、ああいう人を前にした時の方が苦しいわ」
「……」
「正しいから」
「……そうでしょうね」
「あなたは、正しさに負けた気がして沈んでいる」
「はい」
「私は、正しい相手を前にして心が動かない自分が嫌になる」
その言葉が静かに落ちる。
ああ、と思った。
やっぱり、こっちだけじゃない。
俺はアシュレイに勝手に劣等感を抱いて沈んでいる。
セレスティアはアシュレイの“正しさ”を前に、動かない自分を整理できずにいる。
方向は違っても、二人とも苦しいのだ。
その事実が少しだけ救いになって、でも救いになってしまうこと自体がまた複雑だった。
「……それでも」
俺は小さく言う。
「正しい人が来た時、そっちの方が選ばれるのは自然です」
「自然、ね」
「ええ」
「あなた、本当にそう思ってる?」
「思ってる、というか……」
「納得してる?」
「……してません」
即答に近かった。
自分でも少し驚く。
でも、それが本音だった。
納得はしていない。
していたらこんなに沈まない。
“それが自然だ”と頭で理解しても、“それでいい”とは思えていないのだ。
セレスティアはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「なら、最初からそう言えばいいのに」
「言ってますよ、今」
「もっと早く」
「……できるほど素直じゃないので」
「そこは知ってるわ」
その返しが、少しだけ柔らかい。
でも、その柔らかさに甘えた瞬間、自分がもっと惨めになる気がして、俺は話を切るように窓の外を見た。
だめだ。
今日は本当に、うまく笑えない。
学園へ着いてからも、気分はなかなか上向かなかった。
教室へ入れば、噂は昨日までより落ち着いている。
少なくとも“氷姫が冷酷”だとか“下級貴族が取り入ってる”だとか、そういう単純な話では教室全体が動かなくなっているのは確かだ。
だがそれが逆に、今の俺にはしんどかった。
前なら、噂と戦えばよかった。
王子派の牽制に返せばよかった。
悪意が見えていれば、少なくとも怒る方向は定まる。
でも今は違う。
アシュレイは別に悪意で来たわけではない。
家としても社交としても“正しい流れ”の中にいるだけだ。
つまり、敵に怒ることすらできない。
そういう種類の負け方は、思っていたより厄介だった。
「エイトくん」
フィオナが朝一番でやってくる。
「はい」
「重い」
「何がですか」
「空気」
「そんなに?」
「そんなに」
またそれだ。
「分かりやすすぎて、逆にちょっと面白いくらい」
「やめてください」
「まあ、面白いだけじゃないけど」
フィオナは机の端へ腰を預けるようにして、小さく息をついた。
「正しい人、来ちゃったもんね」
「来ましたね」
「しかも感じもよかった」
「やめてください」
「だって本当だし」
「本当だからきついんですよ」
その言葉に、フィオナは少しだけ笑みを消した。
「うん。分かる」
「分かるんですか」
「そりゃ分かるよ。
ああいう人って、一番やりづらいもの。
悪い人なら“敵”にできる。
でも悪くないなら、“負けてる自分”だけが残る」
その言い方が、妙に正確で腹が立つくらいだった。
「……まさにそれです」
「でしょうね」
フィオナはそこで少しだけ声を落とした。
「でも、ひとつだけ言っとく」
「何ですか」
「セレスティア様、あの人を見てる時より、今のあなたを見てる時の方がずっと感情出てる」
「……」
「それでも沈む?」
「沈みますよ」
「素直」
「そういうとこだけは」
「嫌いじゃない」
その言葉で、少しだけ救われる。
でも根本は変わらない。
教室の窓から入る風が、机上の紙を少し揺らした。
周囲では同級生たちが雑談している。
世界は普通に進んでいるのに、こっちだけ妙に置いていかれた感じがする。
昼休み、セレスティアは珍しく一人で中庭へ出ていた。
いつもならフィオナか、俺か、あるいはミレーユがどこか視界の端にいる。
だが今日は、大きな噴水の少し離れたところで、一人で立っていた。
人の視線を避けるほど隠れてはいない。
でも、自分から誰かの輪へ入る気もない。
そんな距離感だ。
俺は少し迷ってから、その隣へ歩いていった。
「一人ですか」
「見れば分かるでしょう」
いつもの返し。
「そうですね」
「何」
「いや、別に」
「その“別に”も最近信用できないわね」
「便利だからって、最近使いすぎました」
セレスティアは噴水の水面を見たまま、小さく息をついた。
「あなたも、今日は一人で沈むのをやめたの?」
「……半分は」
「残り半分は?」
「沈んだまま来ました」
「正直ね」
「そこだけは」
少しだけ沈黙が落ちる。
昼の光が噴水の飛沫を細かく光らせている。
水音は穏やかだ。
その穏やかさの中で、俺たちは妙に静かだった。
「……昨日」
セレスティアが言う。
「アシュレイと話していて、思ったの」
「何を」
「すごく、ちゃんとしているって」
「ええ」
「言葉も、距離感も、空気の読み方も」
「ええ」
「だから、周囲があの人を“正しい”と思うのも分かる」
そこで彼女は少しだけ目を伏せた。
「でも」
「でも?」
「それを見ていて、安心するより先に、息が詰まったわ」
その言葉を、俺は黙って聞いた。
セレスティアは続ける。
「正しい相手。
正しい縁談。
正しい再出発。
そういう言葉ばかりが先に並ぶと、“では私は、それを選ぶべきなのだろう”って顔をしなければいけない気がして」
「……」
「でも、実際にはそういう気持ちになれない」
「そうでしょうね」
「ええ。
そのことに、自分で少し疲れるの」
その疲れた横顔を見た時、俺はようやく分かった気がした。
俺がアシュレイを前にして感じていたのは、ただの劣等感だ。
でもセレスティアが感じているのは、もっと根の深いものなのだろう。
“正しい世界”に育てられた人間が、正しい答えに心が向かない。
それは多分、想像以上に苦しい。
「……俺」
少し迷ってから言う。
「昨日の帰り、比べるなって言われても無理だって思ってました」
「ええ」
「でも今の話聞いて、少しだけ分かりました」
「何が」
「セレスティア様、俺と違う方向でしんどいんだなって」
「違う方向」
「俺は“正しい相手に負けた気がして沈む”」
「ええ」
「でもセレスティア様は、“正しい相手を前にして心が動かない自分”が苦しい」
「……そうね」
そこで初めて、彼女は少しだけこちらを見た。
「だから」
俺は続ける。
「俺だけが一人で惨めぶるのも違うのかなって」
「ようやく?」
「遅いですね」
「遅いわ」
「でも、まだ完全には整理できてません」
「それでいいわ」
「いいんですか」
「ええ。
私だって整理できていないもの」
その一言が、妙に救いだった。
全部分かっていなくていい。
向こうもまだ整理できていない。
なら、少なくとも“自分だけが置いていかれている”わけではない。
そう思った瞬間、胸の奥にたまっていた重さが少しだけ動いた。
全部消えるわけではない。
でも、“苦しいのが自分だけじゃない”というだけで、人はこんなにも救われるのかと少し驚く。
「……セレスティア様」
「何」
「俺、昨日の自分、ちょっとみっともなかったです」
「ちょっと?」
「だいぶ」
「そうね」
「そこは否定しないんだ」
「しないわ」
そこで、ほんの少しだけセレスティアの口元が緩んだ。
小さな笑み。
ほんの一瞬だ。
でも今の俺には、それが前よりずっと自然に見えた。
ああ、と思う。
この人は今、アシュレイではなく、こっちとこうして話している時の方がよほど人間らしい。
その事実が、またしても胸をかき乱す。
「何」
見てしまっていたらしい。
「いえ」
「またそれ」
「便利なので」
「本当に便利ね」
「でも今のは」
「何?」
「ちょっとだけ、安心しました」
そう言うと、セレスティアは少しだけ目を細めた。
「何に」
「セレスティア様が、ちゃんと苦しいって言ってくれたこと」
「……」
「一人で“正しい人が来た、終わった”って決めるよりは、だいぶましです」
「勝手に終わらせないでって、前にも言ったでしょう」
「分かってます」
「本当に?」
「今度は前よりちゃんと」
セレスティアは少し考えるように沈黙してから、ぽつりと言った。
「……ならいいわ」
その声は柔らかかった。
噴水の水音が続く。
昼の中庭は穏やかだ。
その穏やかさの中で、ようやく俺は少しだけ、自分の中の劣等感に名前をつけられた気がした。
正しい男と、隣にいた男。
今の俺は、前者になれない。
でも、ただ惨めに縮こまるだけの後者で終わるわけにもいかない。
少なくとも、今セレスティアの隣にいるのは俺だ。
その事実だけは、誰にも勝手に否定させたくないと思った。
その日の帰りの馬車では、朝より少しだけ自然に会話ができた。
「今日は珍しく沈みきっていないわね」
セレスティアが言う。
「少しだけ浮上しました」
「どのくらい」
「水面ぎりぎり」
「微妙ね」
「だいぶ前進ですよ」
「そう」
そこで彼女は少しだけ視線をやわらげた。
「でも、次はもっとひどいかもしれません」
俺が言う。
「何が」
「アシュレイ様がまた来たら」
「……そうね」
「その時また沈んでたら」
「その時はまた引き上げるわ」
「え」
「何」
「今、さらっとすごいこと言いませんでした?」
「別に」
「別にじゃないですよ」
「あなたが一人で勝手に沈むと、面倒でしょう」
「仮恋人として?」
「ええ」
「そこは絶対ですね」
「絶対よ」
きっぱり言われる。
でも、その“面倒”の中身が、前より少しだけ増えている気がしてならない。
それを確かめる勇気はまだない。
でも、確かめなくても分かってしまうことが増えてきている。
それが、今はいちばん危ないのかもしれなかった。




