第22話 氷姫、少しだけ機嫌が悪い
機嫌が悪い人間には、だいたい二種類いる。
本当に怒っていて、周囲にも分かりやすく刺してくる人間。
そして、自分では平静を保っているつもりなのに、端々の温度だけが少しずつ下がっていく人間。
セレスティア・フォン・ルーヴェンは、間違いなく後者だった。
しかも厄介なことに、その“少しずつ下がっていく温度”を今の俺はかなり高い精度で察知できるようになってしまっている。
気づきたくなかった。
できれば一生、“氷姫はいつも通り冷たい”くらいの雑な理解で済ませたかった。
でももう無理だ。
翌朝、馬車へ乗り込んだ瞬間から、俺はその事実を思い知らされていた。
「おはようございます」
いつも通り言う。
「おはよう」
返ってくる声も、たしかにいつも通りだ。
なのに、何かが違う。
表情は整っている。
姿勢も完璧だ。
視線の角度も、声の温度も、大きくは崩れていない。
でも――機嫌がよくない。
理由は、だいたい分かる。
昨日、フィオナに思いきり指摘されたからだ。
“エイトが他の女の子と話している時、セレスティアは少し機嫌が悪い”
しかもその流れで、俺が「少し嬉しい」と正直に言ってしまった。
あれは完全に事故だった。
いや、本音ではあった。
でも本音だからこそ、あんな風に口に出してよかったとは到底思えない。
案の定、馬車の中の空気は微妙だった。
「……何」
やはり視線に気づかれた。
「え?」
「さっきから、何か言いたそうだけれど」
「そんなにですか」
「そんなに」
即答。
最近本当にこればかりだな、と思う。
でも実際、ここで何も考えずに座っていられるほど、俺は器用ではない。
「いや、その」
言葉を選ぶ。
「今日、少しだけ機嫌悪くないですか」
言ってしまってから、やや直球すぎたと思った。
セレスティアの青い瞳が、すっと細くなる。
「悪くないわ」
「そうですか」
「そうよ」
「でも」
「何」
「返事がちょっと早いです」
「……」
「図星の時のやつです、それ」
「あなた、本当に余計なところだけよく見ているわね」
来た。
否定ではない。
いや、言葉では否定しているのだが、今の返し方そのものが“少しは当たっている”側のそれだ。
それに気づいてしまうと、今度はこっちが妙に落ち着かない。
「何が原因ですか」
半分、自分でもやめておけと思いながら訊く。
「何もないと言っているでしょう」
「じゃあ、俺の気のせい?」
「そうよ」
「本当に?」
「しつこいわね」
その“しつこいわね”が、今朝いちばん機嫌の悪い言い方だった。
なるほど。
やっぱり少し怒っている。
怒っているというか、多分、扱いに困っているのだろう。
フィオナに見抜かれたことも。
俺が嬉しいと口にしたことも。
そして自分が、あまり強く否定しきれなかったことも。
そう考えると、急にこっちまで変に意識してしまう。
「……すみません」
とりあえず謝る。
「何に対して」
「いろいろです」
「便利な言葉ね」
「最近の俺の命綱なので」
「脆い命綱だこと」
その返しのあと、ほんの少しだけ空気が緩む。
やっぱり、完全に怒っているわけではない。
ただ、自分でも整理できないものを抱えたまま朝を迎えて、あまり余裕がないだけなのだ。
それが分かると、少しだけ安心する。
でも同時に、そういう細かな変化に一喜一憂している自分に軽く引く。
「……あなたも」
セレスティアがぽつりと言う。
「はい?」
「今日は少し落ち着きがないわ」
「それは最近ずっと言われてます」
「今日はいつも以上」
「原因を分かってて言ってません?」
「何のことかしら」
「絶対分かってるやつだ」
そこでセレスティアは、ほんの少しだけ目を逸らした。
ああ、今の。
それ、分かっている時の仕草だ。
もうだめだ。
この人、最近本当に分かりやすすぎる瞬間が少しずつ増えている。
いや、増えているのではなく、俺の方が見えてしまうようになっただけなのかもしれないが。
学園へ着くと、その日は比較的穏やかな空気だった。
噂はまだ消えていない。
王子派も、クラーヴェル侯爵家の縁談候補も、全部まだ動いている。
けれど少なくとも、今朝の正門前では、昨日までのような露骨な囁きは減っていた。
その代わり、別の種類の視線がある。
“あの二人、やっぱり少し近くない?”
“仮にしては空気が自然すぎる”
そんな補完を勝手にしたがっている目だ。
フィオナの言っていた通りだった。
「今の空気、やっぱり面倒ですね」
俺が小声で言うと、
「ええ」
セレスティアが返す。
「でも、あなたが変にびくびくしていると、余計に見られるわ」
「びくびくしてます?」
「かなり」
「そこまでですか」
「そこまで」
相変わらず容赦がない。
だが、その返し方はもう朝より少しだけ柔らかかった。
さっきまでよりは落ち着いてきたのかもしれない。
教室へ入ると、フィオナがすぐに気づいたらしい。
こちらを見るなり、いかにも面白そうに眉を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
俺が返すと、
「二人とも、今朝はちょっと静かね」
と彼女は言う。
「いつも通りよ」
セレスティアが即答する。
「その即答がいつも通りじゃないんだけどなあ」
「フィオナ」
「はいはい。でも本当でしょ?」
フィオナは完全に楽しんでいる。
俺は席に座りながら小さく息をついた。
「今日は煽らないでください」
「煽ってないわよ」
「いや、だいぶ煽ってます」
「私は事実確認をしてるだけ」
「一番厄介なやつだ」
そう言うと、フィオナは笑った。
その笑い方を見て、少しだけ救われる。
この人がこうしていつも通りに茶化してくるうちは、まだ全部が深刻一色に染まっているわけではない。
だが、そんな穏やかな空気が崩れるのは案外早かった。
一時間目と二時間目の間の短い休み時間だった。
窓際の一角で、エイト――つまり俺が同じクラスの女子二人と話していただけのことなのだ。
話の内容は本当に他愛ない。
昨日の魔法理論の課題が難しかったとか、礼法実践のダンスで何度足を踏みそうになったとか、その程度の話だった。
相手は上級貴族でも、噂好きの中心でもない。
比較的穏やかな雰囲気の女子で、ここ最近の教室の空気が変わってきたこともあって、前より普通に話しかけてくれるようになっていた。
「アルヴェルくん、昨日のダンス、ちゃんとしてて意外だった」
「“意外”が余計じゃない?」
「だって最初は絶対踏むと思ってたもの」
「俺も思ってたよ」
「じゃあ一緒だね」
そんな、何でもない会話だった。
何でもないはず、だった。
「エイト」
不意に名前を呼ばれて振り向く。
セレスティアが立っていた。
声量はいつも通り。
顔もいつも通り。
でも、温度が少し低い。
「あ、はい」
「次、移動教室よ」
「まだ鐘鳴ってませんけど」
「先に行く方がいいでしょう」
「いや、それはそうですけど」
女子二人が少しだけ気まずそうに視線を交わした。
あ、これ。
外から見たらだいぶあれなやつだ。
「ルーヴェン様、少し話していただけですので」
片方の女子が遠慮がちに言うと、
「ええ、見れば分かるわ」
セレスティアは答える。
「なら」
「でも、移動が遅れるのはよくないでしょう?」
理屈は通っている。
通っているのに、何か違う。
俺は慌てて立ち上がった。
「じゃあ、行きます」
「うん、またね」
「……はい」
その場を離れ、セレスティアの隣へ並ぶ。
廊下へ出るまで、彼女は何も言わなかった。
その沈黙がまた、妙に機嫌の悪さを伝えてくる。
「……今の」
俺が小声で言う。
「何?」
「ちょっとだけ急かしすぎでは」
「そうかしら」
「そうだと思います」
「授業に遅れたいの?」
「さっきも似たようなことありましたよね」
「気のせいよ」
「いや、これは多分気のせいじゃないです」
言うと、セレスティアの足がほんの少しだけ止まった。
「あなた」
「はい」
「本当に、そういうところだけはよく見ているわね」
「褒めてます?」
「褒めていない」
「でも否定もしない」
「……知らないわ」
そこで彼女は歩く速度を少しだけ落とした。
怒っているのか。
困っているのか。
自分でも持て余しているのか。
多分全部だ。
そして、そういう感情がほんの少しでも俺に向いているのだとしたら――それはかなり危ない。
嬉しくて危ない。
まさに最悪だ。
三時間目のあと、フィオナが案の定やってきた。
「見た」
「何を」
セレスティアがとぼける。
「さっきの」
「何のことかしら」
「エイトくん回収してたやつ」
「回収って何ですか」
俺が抗議すると、
「ほら、そういうところ」
フィオナは笑う。
「やっぱりちょっと機嫌悪かったじゃない」
「悪くないわ」
「じゃあ何」
「移動時間の管理よ」
「その言い訳、そろそろ苦しくない?」
「苦しくない」
セレスティアはきっぱり言い切る。
だがそのあとで、ほんの少しだけ耳が赤い。
フィオナがそれを見逃すはずもない。
「うわ、本当に分かりやすくなってきた」
「フィオナ」
「ごめんごめん。でも、前よりずっと出るようになったよ?」
「何が」
「感情」
「……」
「エイトくんが他の子と話してる時だけ、妙に空気が冷えるもの」
今度は俺の方が黙ってしまった。
そこまではっきり言われると、さすがに反応に困る。
いや、困るだけではない。
心臓にもかなり悪い。
「エイトくんは?」
フィオナがこちらを見る。
「何が」
「今、どう思ってるの」
「どうって」
「嬉しいのか、困ってるのか、調子に乗ってるのか」
ひどい三択だな。
だが、嘘をついても仕方がない気がした。
「……全部です」
正直に言う。
「正直」
フィオナが笑う。
「知ってる」
セレスティアが小さく言う。
え、知ってるの?
思わずそちらを見ると、セレスティアは少しだけ眉を寄せた。
「そんな顔をしないで」
「いや、今の」
「あなたがそういう時、嬉しいのに困っている顔をしているのは分かるわ」
「そんなに顔に」
「出てる」
セレスティアとフィオナが同時に言った。
最悪だ。
でも、その同時の言い方に、フィオナが声を上げて笑った。
「ほら、そういうとこ!」
「何が」
「息合ってるって」
「……」
「……」
まただ。
そして困ることに、セレスティアも今度は強く否定しなかった。
ただ少しだけ視線を逸らし、小さく息をついただけだった。
それが何より雄弁だった。
午後の授業中、俺はしばらく教本を開いたままほとんど内容が入ってこなかった。
他の女子と話していると機嫌が悪い。
フィオナにそう指摘されて、セレスティアが完全には否定しきれなかった。
そして俺が嬉しいのに困ってる顔をしているのも、向こうにバレていた。
何だそれは。
もう仮恋人という建前だけで押し通すには、だいぶ危ないところまで来ているのではないか。
いや、危ない。
間違いなく危ない。
でも、その危うさの中に、少しだけ心地よさが混じっているのも事実だった。
授業終わり、フィオナがちらりとこちらを見て、わざとらしく肩をすくめる。
「まあでも」
「何ですか」
俺が訊くと、
「悪い方向だけじゃないよ」
「どういう意味?」
セレスティアが問う。
「だって、見てる側からすると、二人とも前よりずっと“人間”っぽいもの」
「……」
「冷酷な氷姫でもなければ、下級貴族が一方的にまとわりついてるだけでもない。
ちゃんと感情がありそうに見える」
「それ、今の学園だと危ないんじゃ」
俺が言う。
「危ないわよ」
フィオナは頷く。
「でも同時に、それが“噂の作られた物語”を崩してるのも本当」
「なるほど」
「だから、難しいけど、悪いことだけじゃない」
「……そうね」
セレスティアが小さく言う。
その声を聞いて、少しだけ思う。
もしかすると今の俺たちは、
“仮だから安全”な場所からはもう出てしまっていて、
“でも本物とはまだ言えない”場所に立っているのかもしれない。
その中途半端さが、いちばんじれったくて、いちばん危ない。
放課後、馬車へ向かう途中で、俺はとうとう訊いてしまった。
「セレスティア様」
「何」
「今日のあれ」
「どれ」
「俺が他の子と話してる時のやつ」
「……」
「やっぱり少しは」
「何」
「機嫌悪かったですか」
廊下の窓から差し込む夕方の光が、彼女の横顔を薄く照らす。
少しの沈黙のあと、セレスティアは本当に小さく言った。
「……少しだけ」
その一言で、心臓が跳ねた。
「え」
「だから、少しだけよ」
「否定しないんですか」
「毎回、全部を否定していたらきりがないでしょう」
「それはそうですけど」
「でも、勘違いしないで」
「はい」
「理由は、半分は仮恋人としての見え方」
「半分は?」
「……知らないわ」
そこで彼女は視線を逸らした。
だめだ。
それはかなりだめだ。
“知らない”が一番危ないやつだろ。
俺が何も言えずにいると、セレスティアが少しだけ歩調を早めた。
「もうこの話は終わり」
「いや、でも」
「終わり」
「はい」
強制終了だった。
でも、その“少しだけ”と“半分は知らない”だけで、今日一日の重さはだいぶ変わってしまった。
嬉しい。
かなり嬉しい。
でも、それ以上に、これで本当に後戻りしづらくなった気もする。
氷姫は、少しだけ機嫌が悪い。
その理由の一部が俺かもしれない。
そんな事実が、どうしようもなく心をかき乱すのだった。




