第21話 人気者の伯爵令嬢は、空気の変化に敏感
噂というものは、生き物に似ている。
弱いと思えば噛みついてくる。
効かないと分かれば形を変える。
ひとつの獲物で満足できなくなると、今度はもっと食べやすい方へ向かう。
だから、噂を相手にする時に一番怖いのは、“もう慣れた”と思うことなのかもしれない。
翌朝、ルーヴェン家の馬車へ乗り込んだ俺は、案の定というべきか、セレスティアの顔を見た瞬間に少しだけ落ち着かなくなった。
昨夜のうちに彼女は本邸へ呼ばれ、兄リュシアンと話をしてきたはずだ。
縁談候補の件。
クラーヴェル侯爵家。
“正しい相手”という言葉の息苦しさ。
そのあたりの話がどうなったのか、気にならないわけがない。
だがいきなり訊くのも違う気がして、俺は妙にぎこちない挨拶しかできなかった。
「おはようございます」
「おはよう」
返ってきた声は、思っていたより穏やかだった。
セレスティアはいつも通り整っている。
銀髪も制服も、表情の薄さも、全部いつも通り。
なのに、昨日より少しだけ空気が柔らかい気がする。
気のせいかもしれない。
でも、今の俺はそういう“気のせいかもしれない変化”をやたらと拾ってしまう。
「何」
視線に気づいたのか、セレスティアが言う。
「いえ」
「最近、そればかりね」
「便利なので」
「本当に便利な言葉だこと」
その返しの温度で、少しだけ分かる。
少なくとも、昨夜の本邸で何か決定的に悪い方へ転んだわけではないらしい。
思わず少しだけ肩の力が抜ける。
「……少し分かりやすいわよ」
セレスティアがぽつりと言った。
「え?」
「今、安心したでしょう」
「そんなに顔に出てました?」
「ええ」
「ひどい」
「事実よ」
でも、その“事実よ”の声が前よりやわらかいのが、また困る。
俺はごまかすように窓の外へ視線を向けた。
朝の王都は今日も変わらず、人の流れと馬車の音で満ちている。
世界はこんなに平然としているのに、俺の心拍数だけが妙にうるさい。
「本邸では」
俺はできるだけ自然に訊いた。
「何か決まったんですか」
「まだよ」
セレスティアは短く答える。
「正式な返答は保留」
「保留」
「ええ」
「それは……」
少しだけ言葉を選ぶ。
「悪くない方向、って思っていいですか」
「今すぐ何かを決められる段階ではない、という意味ではそうね」
それだけで十分だった。
少なくとも、“今日から縁談候補優先です”みたいな話ではない。
ほっとした、と思った瞬間、セレスティアが少しだけ目を細める。
「本当に分かりやすいわね」
「やめてください」
「やめないわ」
「最近ちょっと意地悪では?」
「あなたに言われたくない」
そのやり取りが、妙に自然だった。
昨日までなら、縁談の話が出るたびに空気が重くなっていた。
でも今朝は違う。
重さが消えたわけではない。
ただ、その重さを前提にしながら会話できるようになった感じがある。
それは多分、かなり大きい変化だ。
学園へ着くと、正門前からして少し空気が妙だった。
前みたいな露骨な囁きは少ない。
だが代わりに、遠巻きに見る視線と、“ああ、あの二人ね”と確認するような目が増えている。
セレスティアもそれに気づいたらしく、馬車を降りてすぐ小さく言った。
「今日は昨日までとまた少し違うわね」
「ええ」
俺も頷く。
「静かになったようでいて、別の方向にまとまり始めてる感じがします」
「そういう言い方ができるようになったのは成長かしら」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「まだ油断できないという意味よ」
その通りだった。
正門をくぐり、中庭を抜け、本校舎へ入る。
廊下のあちこちで視線が止まり、すぐ逸れる。
昨日までの“氷姫が冷酷”だの“下級貴族が取り入ってる”だのとは少し違う。
今はもっと、“二人が本当にどういう距離なのか”を測る目だ。
それを最初に明確に言語化したのは、やはりフィオナだった。
「おはよう、二人とも」
いつもの明るい声。
「空気変わったの、分かる?」
「分かるわ」
セレスティアが答える。
「俺も」
俺も頷く。
フィオナは教室へ入る前の廊下の窓枠へ軽く寄りかかり、少し声を落とした。
「昨日までは“氷姫の噂”とか“仮恋人の下級貴族”とか、外から分かりやすくつつける材料が中心だった」
「ええ」
「でも今朝からは、もう少し別の流れが出てる」
「別の流れ?」
俺が訊くと、フィオナはわざとらしくため息をついた。
「エイトくん、本当に鈍いのね」
「そこまでですか」
「そこまで」
彼女は指を一本立てる。
「最近増えてるのは、“ルーヴェン様って案外、あの子に甘いのかも”とか、
“あれ、ただの仮恋人にしては距離が近くない?”とか、
そういう話」
「……」
「……」
俺もセレスティアも、一瞬だけ黙った。
やっぱり、そう来るのか。
フィオナはさらに続ける。
「噂ってね、最初のラベルが効かなくなると、次は“見てる側が勝手に補完できる話”へ移るのよ」
「見てる側が補完できる話」
セレスティアが繰り返す。
「そう。“冷酷な氷姫”は昨日の夜会で少し崩れた。
“下級貴族が一方的に取り入ってる”って話も、二人の連携見たら押しづらい。
じゃあ次は、“実は二人とも本気なんじゃないか”が一番広げやすい」
その言葉は、思っていた以上に真っ直ぐ胸へ入ってきた。
本気。
そこを噂として言われるのは、かなり危険だ。
なぜなら今の俺は、完全に笑い飛ばせるほど無関係ではないからだ。
横を見ると、セレスティアも少しだけ表情を引き締めていた。
「面倒ね」
「でしょ?」
フィオナは肩をすくめる。
「しかも、この方向の噂は前よりタチが悪い。
だって否定しようとすると、“図星だから慌ててる”って取れるし、
無視すると、“やっぱり”ってなる」
「つまり、今までより誤魔化しにくい」
俺が言うと、
「そういうこと」
フィオナが頷いた。
俺は小さく息を吐いた。
なるほど。
“冷酷な氷姫”という悪評を崩し始めた結果、今度は“仮じゃなく本気なのでは”という方向へ流れ始める。
投稿サイト的には美味しいが、当事者としてはかなり困る。
いや、今そういうことを考えてる場合ではない。
「何か対策あります?」
俺が訊くと、フィオナは首を傾げた。
「あるにはあるけど、二人とも空気を揃えないと逆効果」
「どういう意味?」
セレスティアが訊く。
「簡単よ。
“必要だから並んでいる”という軸は崩さない。
でも、変に他人行儀すぎると、それもそれで不自然。
だから今まで通り、自然に連携して、でも露骨に甘くはしない」
「難しいわね」
「そうよ。だから言ってるの」
「なるほど」
俺も頷く。
「要するに、“仮”だと見せすぎても駄目だし、“本気”に見えすぎても駄目ってことですね」
「そう。
その細い橋を落ちずに渡るのが、今のあなたたちの仕事」
「無茶だなあ」
「でも、もうそこまで来てるのよ」
そこでフィオナは、少しだけにやっとした。
「あと、一個だけ教えてあげる」
「何」
セレスティアが警戒した声を出す。
「さっき、二年の女子たちが話してた」
「何を」
「“セレスティア様、最近エイトくんが他の女の子と話してるとちょっと機嫌悪くない?”って」
「は?」
声が出たのは俺の方だった。
セレスティアは一瞬だけ完全に固まったあと、すぐに冷たい顔へ戻る。
「気のせいよ」
「即答」
フィオナが笑う。
「そういうのが一番怪しいんだって」
「怪しくないわ」
「じゃあ、エイトくんが私と話してても別に気にならない?」
「気にならないわ」
「昨日、だいぶ目が冷たかったけど」
「フィオナ」
「はいはい、怒らないで」
いや、ちょっと待て。
今の会話、俺の処理能力を超えている。
「……本当なんですか」
思わず訊いてしまった。
「何が」
セレスティアがじろりとこちらを見る。
「いや、その」
「気のせいだと言ったでしょう」
「言いましたけど」
「じゃあ終わりよ」
「そんな強制終了あります?」
フィオナが声を殺して笑っている。
この人、完全に面白がってる。
でも、その面白がりの奥に、ちゃんと観察があることも分かる。
彼女は見たのだろう。
セレスティアが俺と他の女子生徒の会話を、必要以上に気にしているように見えた瞬間を。
それが本当に嫉妬なのか、仮恋人としての見え方を管理したいだけなのかは、まだ断定できない。
でも、少なくとも外からそう見える程度には、彼女の反応が変わってきている。
それは、かなり危うい。
同時に――かなり、嬉しい。
いや、そう思うのはだめだろう。
だめだが、思ってしまう。
「エイト」
セレスティアが低い声で言う。
「何ですか」
「今、少し嬉しそうな顔をしたわね」
「してません」
「した」
「してないです」
「したわ」
「いやそれは」
「何かしら」
逃げ場がない。
フィオナはもう肩を揺らしている。
本当に一番危険なの、この人では?
「……そういう風に言われると、反応に困るだけです」
苦し紛れにそう返すと、
「それならいいわ」
セレスティアはきっぱり言った。
「いいんですか」
「他の意味があるよりましでしょう」
「その言い方はちょっと刺さるなあ」
「知らないわ」
その会話自体が、もうだいぶ危ない気もする。
教室へ入ってからも、フィオナの言葉は妙に頭に残っていた。
他の女の子と話してると機嫌が悪い。
それが本当なら、かなりまずい。
俺にとっては嬉しい方向でまずいし、外から見れば“仮にしては感情が出すぎ”という意味でまずい。
そして困ることに、その日の午前中だけで、その片鱗は二度ほど見えた。
一度目は、授業の合間に同じクラスの女子が紙の件について少し真面目に謝ってきた時だった。
彼女は上級貴族ではなく、中級の騎士家の娘らしい。
最初の頃は噂に流されていたが、最近の教室の空気を見て、少し考え直したらしい。
「アルヴェル様」
「はい?」
「この前は……その、失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい」
「え、ああ」
「ルーヴェン様の件も、ちゃんと見ないと駄目だなと思って」
素直な謝罪だった。
だから俺も普通に返しただけだ。
「いえ。気にしないでください。
俺も、最初から全部うまくやれてたわけじゃないので」
「でも、今はちゃんと隣に立ってます」
「まあ、どうにか」
「少しすごいなって思って」
そこまで言われて、俺は少し困ったように笑った。
こういう真面目な子に素直に褒められると、むしろ反応に困る。
その時だった。
「エイト」
後ろから呼ばれた声の温度が、妙に低かった。
振り返ると、セレスティアが立っていた。
表情はいつも通りだ。
いつも通りなのだが、今だけは少しだけ冷気の密度が高い気がする。
「次の授業、移動よ」
「あ、はい」
「早くしなさい」
「はい」
俺が慌てて立ち上がると、謝罪してきた女子が少し気まずそうに下がる。
別にセレスティアはその子を責めたわけではない。
責めてはいないのに、妙に空気が冷えた。
教室を出たあと、俺は小声で訊いた。
「……今の」
「何」
「ちょっと急ぎすぎでは」
「授業に遅れたいの?」
「そうじゃなくて」
「なら問題ないでしょう」
ぴしゃり。
でも、声にわずかな棘がある。
フィオナの言葉が頭に浮かぶ。
もしかして。
いや、でも。
いや、もしかして。
二度目は、昼前にフィオナがわざと俺へ距離を詰めてきた時だ。
「エイトくん」
「何ですか」
「これ、見て。
紙の件で新しい流れありそう」
フィオナが俺の机へ身を乗り出す。
距離が近い。
近いのだが、フィオナは多分わざとやっている。
分かっていて試している顔だ。
そして案の定――
「フィオナ」
横からセレスティアの声。
「何」
「近いわ」
「資料見せてるだけだけど」
「見せるなら机に置けばいいでしょう」
「そうだけど、別にこのくらい」
「よくないわ」
「ええ?」
フィオナが、今度は完全に面白がる目になった。
だめだ、この人、火の気配を見つけるとすぐにうちわで煽る。
俺は慌てて割って入る。
「いや、置いてもらえれば十分なので」
「……」
「……」
セレスティアとフィオナが同時に俺を見る。
怖い。
フィオナは小さく吹き出した。
「はいはい、置きますよ」
彼女は紙を机の上へ置く。
「でも今の、だいぶ分かりやすかったなあ」
「フィオナ」
「ごめんごめん。言わない」
言ってる。十分言ってる。
セレスティアは何も言わず席へ戻ったが、その後しばらく、机へ目を落としたまま妙に静かだった。
あれをどう解釈すればいいのか。
仮恋人としての管理。
外聞。
必要な距離感。
全部、理屈としては説明できる。
できるのだが――
「何」
また視線に気づかれたらしい。
「いえ」
「最近そればかり」
「便利なので」
「本当に嫌な学習をしたのね」
「セレスティア様に言われる筋合いは」
「何かしら」
「いえ、何でも」
だめだ。
今日は本当に押し返される。
昼休み、フィオナと三人で話している時、彼女は結局、はっきり言った。
「セレスティア様」
「何」
「今の、ちょっと機嫌悪かったよね」
「悪くないわ」
「じゃあ何」
「仮恋人として不用意な誤解を増やしたくないだけ」
「うん、それ“そういう意味で気になる”って言ってるのとあんまり変わらない」
「違うわ」
「どう違うの」
「……」
セレスティアは一瞬だけ言葉を切った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
フィオナは俺の方を見る。
「ほら」
「ほら、じゃないです」
「でも分かったでしょ」
「何がですか」
「もう“何でもない仮恋人”で押し通すの、ちょっと苦しくなってるってこと」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
冗談半分に聞こえる。
でも、内容は核心に近い。
俺は思わずセレスティアを見る。
彼女は少しだけ視線をそらしていた。
否定しない。
でも認めもしない。
その中途半端な沈黙が、今の関係そのものみたいだった。
「……面倒ね」
セレスティアがぽつりと言う。
「そうですね」
俺も返す。
「エイトくんは?」
フィオナが訊く。
「何が」
「他の子と話してる時、今みたいに反応されたら」
「……少し嬉しいです」
言ってしまってから、しまったと思った。
フィオナがぱっと笑う。
セレスティアははっきりこちらを見る。
目が合った瞬間、逃げたくなった。
「正直」
フィオナが言う。
「いや、その」
「うわ、珍しく自分から地雷踏んだ」
「うるさい」
「今のはさすがにエイトが悪いわね」
セレスティアが言う。
「え、俺ですか」
「ええ」
「でも事実なので」
「なお悪い」
その返しが少しだけ速すぎて、俺は逆に変な確信を持ちそうになった。
だめだ。
そういうところを拾って勝手に意味づけするのが一番危ない。
分かっている。
でも、嬉しいものは嬉しい。
フィオナが肩をすくめる。
「はいはい、じゃあ忠告は終わり」
「終わり?」
俺が訊く。
「ええ。
噂の角度が変わってる。
外から見ても二人の空気が変わってる。
しかも本人たちも少しずつ誤魔化しづらくなってる。
以上」
「まとめ方が雑だな」
「でも間違ってないでしょ」
間違っていないから困る。
放課後、馬車へ向かう途中で、セレスティアがぽつりと言った。
「あなた」
「はい」
「今日の“少し嬉しい”は忘れなさい」
「無理です」
「即答」
「本音だったので」
「本当に厄介ね」
「お互い様じゃないですか」
「何が」
「いろいろです」
「便利な言葉」
「最近の俺の盾なので」
「薄い盾ね」
その会話が、前よりずっと軽く続く。
なのに中身は重い。
この感じが、一番危ないのかもしれない。
馬車へ乗り込み、向かい合う。
しばらくして、セレスティアが小さく言った。
「……フィオナの言うこと、全部は信じないで」
「全部じゃないです」
「どこまで?」
「半分くらい」
「ちょうどいいわね」
「でも」
「でも?」
「半分くらいは当たってる気もします」
言ってから、セレスティアの目が少しだけ細くなる。
「何が」
「さっきのとか」
「……」
沈黙。
それから彼女は、ほんの少しだけ目を逸らして言った。
「あなたは、本当に余計なところだけ鋭いのね」
「褒めてます?」
「褒めていない」
「でも完全否定もしない」
「……知らないわ」
その“知らないわ”が、何よりの答えみたいに聞こえる。
俺は窓の外へ視線を向けた。
口元が勝手に少しだけ緩みそうになるのを隠すためだ。
下級貴族の家にも風は吹く。
正しい縁談候補は強い。
噂はまだ消えない。
なのに、こういうどうしようもなく小さなことで少し浮かれてしまう自分がいる。
たぶん、もうだいぶ遅いのだろう。




