壁
*
王宮の図書館で初講義と相成ったが、本日の講義予定を説明する前にアランは思った。否、知っていたのに今頃気付いたのだ。デアの目が見えていないことに。これでは読むことも書くことも難しいだろう。揃えた資料では教えるのが難しい部分もある。今後のために練り直さなくては。そのためには対象者に聞き取りをするのが効率的だ。
「本日より講義が始まりますが、今後の講義のために、まずはデア様のことを聞かせてください」
「いいだろう」
凛と座り、凛と答える。
「ではまず、読み書きや計算などはどの程度できますか」
「本はよく読んだ、書ける、だが今はが無理だ。四則計算は習った。あとは暮らしに必要な計算。占いや薬の調合に必要な計算、編み図を考える時にも計算する」
聞きながら、アランはペンを走らせた。
【読み書き可。計算可。】
「プロメテウスの歴史や、世界の国々のこと、それから時事などはご存じですか」
「歴史や世界の国々のことは習った。時事は商人や魔女仲間から伝え聞いている」
【知っている様子。復習を兼ねて確認が必要】
「ダンスはどの程度?」
「魔物と踊れる程度には」
【魔物?】
「……では次。テーブルマナーを学ばれたことは」
「ある。パンはお替り自由だ」
【一緒に食事をとる中で作法は確認済み。問題なし】
「お茶会に参加されたことは」
「ある。魔女集会という名目の茶会に」
【ティータイムで作法確認済み。問題なし。外部の人間に対する適応力が不明。今後の課題】
「乗馬はどうですか」
「ユニオルコーンなら。馬は乗ったことがない」
【馬で一度確認する】
と書いたあと。頭の隅っこに残っているある言葉を書き出した。
【ピアノ】
少し間があって、アランはペンを置いた。
「……なるほど。質問は以上です、ありがとうございました」
そっとファイルを閉じようとしていると、デアはむんずと腕を組んだ。
「ピアノは聞かないのだな」
言葉より先に、アランの瞳がデアに向いた。近衛騎士団参謀長だけに、傍から見れば冷静沈着であるが。デアが絡んだこととなると柄にもなく内心焦るし、しかも図星をつかれて返答に困った。
二人の間の沈黙は数舜だったが、相手に言えない事情があると判断するのに十分な時間だった。
「ソルのやりそうなことだ。ピアノは餌に過ぎないということか。釣られた私が悪いのだが」
大正解である。ソルから『ピアノは最後の最後にちょっとやればいい、っていうかそうしろ』と命令されていた。講義の量を加味しての発言だが、デアの気持ちを利用するやり方はあくどいとしか言いようがなかった。実際デアに伝えるのはアラン自身なわけで、どのように伝えれば理解を得られるか、何か策はないか、悩んでいた。
しばし無言でいたデアだったが、こらえきれなくなったように口を開いた。
「呼び出しに応じ、王女であることを受け入れた。この講義も。ソルの意向を受け入れているが、果たして相手にこちらの意向は通っただろうか」
そういうとデアは勢いよく立ち上がり、歩き出した。
「デア様、どちらへ、」
「ソルの所へ案内しろ」
言いながら歩いて行ってしまう。机や椅子にぶつかりながら、それでも来た道順を追って歩いている。
「お待ちください」
慌てて追いかけるアランの声が背中に聞こえても、デアの足は止まらない。
「案内出来ないなら自分で探す、ついてくるな」
『石にされたくなかったら許可なく触れるな』石化を解かれて一番初めに聞いた言葉だ。それが昨日の今日だ、触ろうにも触れなかった。
「お待ちください、そっちは、」
タンッ、と蹴り出す音をデアの耳が拾ったそのあと。顔面から壁ではない何かにぶつかった。壁にしてはなんだか柔らかい。机や椅子の硬さとは違う。得体の知れない壁を前にして、ふんすか荒げていた鼻息も静かになっていた。
(一体なんだ?)
恐る恐る触れてみる。やはり通常の壁にはない弾力があって、温かくて、ずっと嗅いでいたいくらい、いい香りがする。
手のひらに伝わってくるのはそれだけではない。
(微かに起伏して動いてる? しかも脈打っているような……)
耳を当ててみると、確かに心臓の音がした。規則正しいけれど、鼓動は少し早いようだ。
(壁は生きてるな。……ってまさか、)
正体に気がついて、自分はもっともっと驚くと思っていたけれど。いい匂いだからか居心地がいいからか、離れ難かった。
「壁……この向こうには、何がある」
「太い柱が」
(壁が答えた……守ってくれたのか)
意味もなく壁になったのなら石にするところだが。職務遂行というやつだ。
(この匂い、懐かしいような気がする……なにとは思い出せないが)
胸に頬をうずめられ、結った赤いリボンが気持ちを掻き立てる。アランの背中にぞわぞわ痺れが走り、似合うと思って選んだリボンなのに、何という罪を結ってしまったのかと自分を責めた。
「触れるなと言っておいて、私が触れてしまっている……矛盾しているのは分かっている、だが触るな、壁」
「これは予期せぬ事故です、問題はない」
身を任せる小さな体を抱きしめてしまいたくなる衝動を、なんとか理性で押さえ込む。
「デア様のお気持ちはわかります。今の状況は対等でないと俺も思っている。ですが今の講義にピアノを加えるとなると時間が足りないのも事実。しかしピアノを習う上で大事なのは毎日ピアノに触れること。短期間に詰め込んでも上達は難しい」
「では、ピアノは無理ということか」
胸元から見上げる布越しの瞳が、不安げに揺れた気がした。
アランは顔では微笑みながら、こぶしを握って爪を食い込ませ、意識を逸らすのが精いっぱい、もう限界が近い。
「……提案ですが、講義以外の時間を使って、ピアノを教えることは出来ます」
「本当か」
一瞬で変わった明るい表情と弾んだ声に、ついに理性は敗北した。衝動的に赤いティアドロップの耳飾りが下がる耳元へ唇を寄せていた。図書館には他に誰もいないというのに、ひっそりと、まるで恋人同士の秘密のやり取りのように囁いた。
「……眠る前の時間を、ほんの少し、俺にください」
耳飾りが光に煌めいた。すぐさま胸に顔をうずめたその頬が、赤く染まっていた……ような。
「約束だ……壁」
「はい」
煌めく塵光が、静かに二人を彩っていた。




