銘々
至宝様がきてくださってから、なんと沢山の刺激があったことだろう。
翼賛の國君主、勇隼の息子、千隼は夕餉れの庭を眺めながら
色々と考えていた。千隼は、生まれ育ったこの屋敷の夕暮れの庭が
一番好きだった。夕暮れになると、屋敷の小鬼がトテトテと走り周り
灯籠に明かりを灯していく。夕日の名残と、夜の暗闇の間がくっきりと
空に線を引き、その中に行灯の様な明かりが浮かぶ。
そうすると、今日も無事に一日を終えたとホッとするのだ。
至宝様、雫という不思議なよく笑う女性が来るまで、
千隼は、自分はこのままなりたいものを決め、精進して人生を歩むだけだと
思っていた。そして、なりたいものが中々決められなかった時期だった。
千隼に隼は抜けなかった。残念な気持ちと、ホッとした気持ち。
両方を持っていた。剣の稽古も、父から任せられた仕事も、
飛び抜けて天才的にできるわけではない自分。
「焦るなよ、千隼」
父は、自分のもどかしさを見抜くかの様に、時々声をかけてくれた。
雫は、驚くべき女性だった。この世界にきたことに衝撃を受け、
怒っていると言いながら、勉強させろと父に話していた。
だいたい初日から変わっている御仁だったのだ。
母が、何か欲しいものはないか尋ねると、とんでもないと遠慮していた。
それを見て、この女性は自分の立場を利用しようとは思わないんだろうかと
素直に疑問に思った。あるいは、自分の立場が理解できていない……?
自分の素性がバレない方がいいと男装したり、
手足を豆だらけにして、ひたすら稽古したり、
気が見える様になるには、どうしたらいいのか2ヶ月近く悩んでいた。
夕暮れ時になると、大抵はここにいる自分の所に時々やってきて、
「美しい風景ですよね。私もこの風景、好きですよ」
と、嬉しそうに話したり。気が見えるかもしれないとわかった時は、
思わず自分も興奮して、雫と話し込んでしまった。
一番の驚きは、自分の長年の葛藤を、さらっと解き放ってくれたことだ。
千隼は、力が衰えることに、ある種の恐れを感じていた。
色々話すうちに、雫に不思議そうに尋ねられたのだ。
「千隼様、千隼様はいつでも1番でいたいですか?」
「1番……?」
千隼は、思いもしなかった質問に、自答した。
私は1番になりたかったのか……?……いや……。
そういうわけではないと、説明すると雫はホッとした様な顔になり、
ニコニコと元の世界の大師匠に勝てなかった話をしてくれたのだ。
「千隼様、何十年も修練した人が、たった一回、打ち込みに負けたくらいで
ひよっこに負けるわけはないでしょう?あそこまでいくとね、もう仙人ですよ?
それで良いんじゃないですかね?」
千隼の中に、雫の、それで良いんじゃないですかね?といった声が
木霊の様に響き渡って行った。
それで良い……。そう言われた千隼は、突然霧が晴れたかの様に
目の前に道ができたのだ。
雫様の様になりたい。はっきりと、そう願った瞬間だった。
千隼が、庭でのんびりと想いを巡らせている時、
仁と菊次郎は、清志郎に頼まれて、実道を連れ、
船の上にいた。それは屋形船と言われる船で、酒も料理も出してくれる。
人を気にせず、ゆっくりと話したい時や、密会に使われたり、
花火見物の時にも使われる、少し贅沢な乗り物だ。
馴染みの船頭は、口が堅く信用できる人物だった。
「ほら、飲め飲め」
仁は実道に酒をついでやると、自分は天ぷらにかじりついた。
菊次郎も、実道に天ぷらをとってやっている。
なかなか話し出さなかった実道だが、少し酔いが回ったのか
ポツポツと心の内をのぞかせ出した。
「仁様、……焦らなくて良いと言ったのは自分なのです。
その自分が、……雫を焦らせて、傷つけました……」
実道は、唇を噛み締めるほど後悔していた。
その気持ちがよく分かる仁と菊次郎は、変に慰めたりせずに
ただただ実道の気持ちの聞いていたのだ。
「雫は、……ポロポロと涙をこぼして……。
清志郎様の、よく1人で耐えたという、たった一言のねぎらいに、
涙をこぼしたのです。雫が、自分が考えていたよりも
ずっと色々なものに耐えて稽古していたことを痛感しました」
耐えきれなくなったかの様に話し出した実道の杯に、
菊次郎は、そっと酒をついだ。
「おまけに私を庇って、私は悪くないと、それに至らなかった点を教えてくれと
清志郎様に頭を下げていました。本当に、隣に並んだ兄弟子として
あれほど、自分を情けなく思ったことはありません。
なぜ、雫が嬉しそうにしたあの瞬間に、良くやったと言ってやれなかったのか。
悔やんでも悔やみきれないのです」
それを聞いていた菊次郎は、優しく実道に告げた。
「実道様、お気持ちは良くわかります。でも、その後悔を胸に、
明日からは、雫様の前で笑った方が良いと思います。
実道様が、いつまでも沈んでおられると雫様が再び傷つきます。
雫様の心に報いたいならば、歯を食いしばってでも笑うのも雫様のためです。
そうではありませんか?」
仁は、いつもとは違い静かに実道に語りかけた。
「実道、お前は自分のことを吐き出すのが下手だ。
菊次郎の言うとおり、せっかく吐き出せたんだから、
好きなだけ愚痴を言って、明日からは笑ってみろ。
それも一つの手なんだぞ?」
そう言って、グッと杯を飲み干した。そして、いつもの様にニヤリと笑うと、
実道にハッパをかけることにした。
「実道、そうやって真面目に自分を振り返るのは、お前の良いところだ。
でも、どんなに考えても過去には戻れん。じゃあ、顔を上げて
目の前を見るしかないだろう?お前がうつむいているうちに、
雫のことだ、また新しい案を考え出して、皆を出し抜くぞ。
それが危険なのか、そうでないかは、側にいるお前が判断してやらないと。
あっという間に、置いていかれるぞ?」
仁にそう言われて、実道はハッとした様な顔になった。
「新しい案……?」
「ああ、どうやら雫は四六時中、仕事のことが頭の中にあるらしいからな。
また思いもしない案が、飛び出してくるぞ?」
「仁様、それは周りが判断してやらないと、まだ雫だけでは難しい……」
「ほらほら、な?置いていかれん様に、しっかり雫の話を聞いてやれ。
落ち込むのは、もうおしまいだ。置いてけぼりになりたくないんならな」
仁にも諭されて、瞳に力の戻った実道を見て、菊次郎は
ようやくホッと安堵した。
これで大丈夫……。やれやれ……。
そう思いつつも、笑いながら菊次郎は実道に天ぷらを勧めるのだった。




