鏡の中の俺
男の顔が歪んだ笑いを浮かべました。
私のデビュー作となったあの新人賞、しかし……。
「あの時の受賞者にはアンタはいなかったはず……」
ゴスッ。
今度は鉈の柄で頭を殴られました。
その時の男の目は一生忘れられません。
狂気、悪意、殺意、憎悪、嫉妬、怨恨。
思いつく限りの負の感情が溢れる恐ろしい目でした。
でも、それだけじゃない、それだけじゃなかった。
もうひとつ、邪悪で凶暴な感情とは一線を画す別な感情があった。
悲しみ、それが瞳の闇の中に小さな星のように光っていました。
「お前さえいなきゃ俺も入選してデビューできてたんだ!お前が賞を獲っちまったからデビュー枠がひとつ減っちまったんだよ!おかげで俺は何処からも注目されないちっぽけな出版社からデビューして……」
男の目から涙が溢れました。
恐らくは何度も何度も挫折して、自分の才能に見切りをつけようとして、それでも諦めきれなくて。
惨めな生活の中で夢にしがみついて。
知人からも家族からも後ろ指さされて。
「それが!お、俺みたいな才能のない人間にやっとチャンスが!一生に一回あるかないかのチャンスが!お、お、お前の、お前なんかに!」
男は私の襟首を掴み、締め上げました。
鉈を投げ捨て素手で何度も殴りました。
泣きじゃくりながら、涙と鼻水を盛大に撒き散らしながら私を殴りました。
そして私が、その時口にした言葉は。
「わかるよ……」
男の手が止まりました。
私の顔を涙をあふれさせた目で私を見つめていました。
私は腫れあがり血を流した顔で男を見上げました。
恐怖心が麻痺してしまったのか、落ちついていました。
男は黙って次の言葉を待っているようでした。
「わかるよ。なぜアンタがそこまで追い詰められてったか。同じ、だから」
家族と喧嘩別れしてまで、この道を選んだのに。
物書きを名乗りながら、バイトで生活費を稼ぐ屈辱。
腹が減っても資料本の購入優先。
腹いっぱい飯を食いたいのも、たまには思いきり遊びたいのも我慢して何年も書き続け、芽が出るどころか落選ばかり。
仲間は次々と華々しいデビューを飾り、〆切だの安い原稿料だのを幸せそうに愚痴っているの尻目に、自分は光明もない闇の中。
誰かを怨まなきゃ砕け散りそうな心を保てない。
それは目の前の彼の現実であり、そして私のことでもありました。
「ただ、俺は……一人じゃなかった。一人のつもりだったけど。一人じゃなかったんだ」
デビュー前には一心に身を案じてくれる母がいた。
敵として正面から向かい合ってくれた父がいた。
そして今は私の大切な同居人となった、じいさんがいる。
いつでも私はひとりぼっちじゃなかった。
でも、目の前にいる彼には、きっと誰もいない……。
「ク、ウウウウ!」
男は苦しそうな泣き声を上げました。
ダランと下げられた両腕は人を殴る力もなく、既に狂気の顔ではありませんでした。
疲れた顔で泣いている絶望した哀れな男がいるだけでした。
私は彼に手を差し伸べました。
私の指先が彼の痩せこけた頬に触れ……。
「駄目だ!」
彼は私の手を払いのけ、後ろに跳び下がりました。
そしてゆっくり顔を上げる。
その瞳に宿っていたのは狂気でも悪意でもなかった。
恐怖、彼は怯えていました、何に?
たぶん、これまでの自分を、今の自分自身が否定してしまうことに。
ここまでの人生全てが無意味だったと認めてしまうことに、恐怖していました。
「やっぱり、お前を、俺は、お前が!」
彼の手が私の首にかかりました。
おそらく自分でも何をいってるのか、何をしようとしているのか、もうわからなくなっていたのでしょう。
私は彼の両手を振り払おうとしましたが、身を弱々しくよじるのが精一杯でそれ以上は動けませんでした。
「お前が、俺を、俺は…………」
泣きながら彼は私の首を絞めていました。
頚動脈を絞めつけられ、血流を遮断された脳が悲鳴を上げていました。
意識がだんだん遠く……。
(ああ、これが『死』なのかな。殺されるってこういうことなのかな……うん、次の作品で活かせる……か、な?)
真っ暗なところへ落ちていく中でそんな馬鹿げたことを考えていました。
助かりたいとか、生きたいとか考えればいいのにね。
でも、目の前の哀しそうな彼の顔がね、今でも忘れられないんです。
自分の命より彼の救いのなかった人生の方が大切に思えてしまった。
ドンドンドンッ!
激しく玄関のドアを叩く音がしました。
男はハッとして私の首を放して振り返りました。
私の意識も暗黒の中から再浮上し、朦朧とする頭を上げました。
「警察の者です!先生、大丈夫ですか」
勢いのいい緊張した声が家の中に響き渡りました。
警察、という言葉に彼は目を見開きました。
ようやく正気に戻ったのでしょう。
私の顔をマジマジと見つめ、それから自分の両手を食い入るように見つめていました。
「は、は?ああ、あああぁぁぁ―――ッ!」
自分がしようとしていたしていたことの重大さ恐ろしさに気づいたようです。
驚きとも恐怖ともしれない絶叫を彼はあげました。
頭を抱え、髪を振り乱し狂ったように身もだえしていました。
その間にも警察を名乗る声は続きました。
「先生、先生!不審者がうろついているとの通報で来ました!」
「ち、違う!俺はこんなこと!俺は!」
「今の声は誰ですか!ご無事ですか、先生!」
「違う、違うんだぁーッ!」
ガシャン!
彼は窓に体当たりして外へ飛び出しました。
ガラス片でどこか怪我をしたようで、手から血を流し、泣き喚きながら駅の方へ走り去っていきました。
「……助かった、っということか」
私は大きくため息をつきました。
命が助かって嬉しい、という感覚はありませんでした。
とても哀しく嫌な気分でした。まるで…………。
「まるで鏡の国の自分に出会ったみたいな気分だぜ」
「何をワケわからんこというとるんじゃかのぅ?」
聞きなれた声に私は顔をあげました。
声の主の姿はそこにはありませんでした。
「おっと、大丈夫でありましたか、大作家先生?本官が参りましたからにはご安心下さい」
わざとらしいニセ警官の口上に私はニィと笑いました。
「葡萄農家から警官か、いつから商売替えしたんだい。じいさん?」
「ヒヒヒ、どうじゃ?名演技じゃろう」
声の主はもちろんじいさん『警察の者です』なんてのは大嘘つきでした。
私は大笑いしたかったのですが、その元気はありませんでした。
「ああ、名演技だよ。『大洋に燃えろ』から出演依頼がくるぜ」
「ほんとうか?うむ、なら役者を目指してみるかのぉ」
「ああ、頑固でひねくれたジジィ役でボスと競演すれば大人気になるな」
「……ケッ、相変わらず口の悪い三文小説家じゃい」
ちょっとの間、沈黙がありました。
その後は二人で大爆笑。
少し元気も出てきました。




