じいさんはそこにいる
「ハァ―ッ、ハァ―ッ、ハァハァハァ。た、ただいま……」
精根使い果たした私が家の中へ倒れこむように入ったのは、列車を降りて二時間も後のことでした。
全身ずぶ濡れ、などという表現ではとても足りない。
途中なんども転んだおかげで、髪の毛も顔も泥だらけ。
一着しかないよそいきの背広は汚れた程度ではすみませんでした。
「ハハハ、一張羅が台無しだ……」
袖が破れ、ボタンはちぎれ、ボロ布と化していました。
土砂崩れ現場を越えて来た時には膝まで泥に埋もれ、靴も片方なくしていてね。
普段の私なら泣きたくなるくらいの経済的被害の状況でした。
でも、その時にはそんなことを気にしている余裕はなかった。
「列車なら十五分の距離がこれほどとは思わなかったな。なんとか……ハァ、ハァ。たどり、つけた、が……」
玄関上がったところでぶっ倒れ、そのまま大の字になって寝転がってしまいました。
「おっと、こんなことしてる場合じゃなかったんだ。じいさ……ゲホッ、ゲホッ。じいさん!」
半身を起こした私は咳き込みながらじいさんを呼びました。
嵐の轟音の中で返事を待つ。
しかし返事はなかった。
「風の音で……聞こえないのか?じいさん。おい、じいさん!返事をしてくれ、大変なことが起きたんだ。いやこれから起こるかもしれないんだ!」
返事は、やはりありません。
私はヨロヨロと立ちあがり、ふらつく足を動かして廊下を歩きました。
居間に首を突き出して大声を出しました。
「じいさん、いないのか!」
台所に入って呼びかける。
「じいさん、ここか!」
バスルームで叫ぶ。
「いるんなら返事をしてくれ!」
二階に上がり、部屋のひとつひとつに入ってじいさんを呼びました。
しかしどこにもじいさんはいなかったのです。
「なんてこった。この嵐の中、いったいどこへ……」
家の中にじいさんがいないのは確実でした。
土砂崩れに娘さんが巻きこまれるかもしれない。
そのことだけをなんとしても伝えねばならない。
その一念だけで、やっとの思いで帰ってきたというのに。
「肝心のじいさんがいないだなんて思わなかった。どうすりゃいいんだ?」
ヘトヘトの体に疲れがドッと押し寄せてきました。
もう一歩も動けなかった。
ずぶ濡れのままでベッドの上に倒れこみ、そのまま立ちあがれなくなりました。
シーツが泥まみれになるのも構わず、手足を広げて寝そべりました。
「……考えてみりゃ、娘さんが汽車に乗ってるとは限らないんだよな。それに汽車だって動いてたかどうかわからない。どこかの駅で足止めになってただけかもしれないんだ」
その時の私は最悪の結果だけは考えないようにしていました。
だから誰かに連絡して百年前に事故が起きたかどうか、調べるのを忌避していたのです。
「俺のしていることって結局、無駄だったのかな?でも、もしも事故が起きていたら?娘さんが巻きこまれていたら?もし、その事故で命を……」
そこまで考えて私はゾクリとしました。
もし最悪の結果になっていたら?私はどうすべきなのでしょう。
私が事故の可能性を知ったのは偶然です。
娘さんが命を落とすかもしれないなどと私が知っていたとは、じいさんは気がつくことはないでしょう。
そして何食わぬ顔、いや声でお悔やみをいい、何ひとつ変わることなくじいさんと奇妙な共同生活を続ければいいのか?
疲れ切っているとは思えないほど勢いよく、私は跳ね起きました。
「無理だ!俺にそんなマネができるもんか……できるもんかよ」
私は必死に考えをめぐらせました。
じいさんは今、どこにいるのか。
村の外へ行ったとは考えにくい。
村から出るには鉄道か、山道を歩くしかない。
しかし村の外にいくような用事はなかったはずだし、この嵐の中で無理をする理由も考えにくい。
既に汽車が事故がに遭っていると連絡が入って、出掛けた?
いや、電話もない時代にそんなに早く伝わるものではない。
第一、その汽車に娘さんが乗っていることまではわからない。
ならば?
「ならばじいさんはこの村のどこかにいる?」
しかし、それでも結果は同じでした。
過去と現在の音を伝えるのはこの家と庭だけ。
村の他の場所では何も聞こえはしないのです。
「待てよ、村の中とはいえ嵐の日に行かなきゃならない場所なんてあるのか?近所に何か被害でも出てそこへ行ったということなのか?」
この嵐で家屋が壊れ怪我人でも出て手助けを求められた、ということならありそうです。
「いや、それも妙だ。村人ならじいさんの体が不自由なのに気づいているはずだ。それを承知で呼び出すなんてするだろうか?」
ならば、じいさんは呼び出されたのではなく自発的に出ていったことになります。
この大風の中に、不自由な左半身という爆弾を抱えて、突風と豪雨の中へ行く理由?
そこまでじいさんにとって大切な物?
「あそこか…………」
私はの目は窓越しの裏庭の向こうを凝視していました。
ゴウゴウと唸る風に翻弄される雑草が一面に広がるそこを。
立派な葡萄園が広がっていた過去の時代を。
「そこにいるのか、じいさん」
家を出て嵐の中を私はそこへと急ぎました。
朽ちかけた柵の向こう側、今は一本だけ老木が残る葡萄園の跡地。
そこにじいさんがいる、根拠は何ひとつないのに私は確信していました。
「じいさん、じいさぁ―――ん!」
嵐に負けじと私は叫びました。
空から吹き降ろしてくる風の音にかき消されそうになりながら、私はじいさんを呼びつづけました。
「じいさん!じいさん!じい……」
柵を乗り越えた瞬間に私は凍りつきました。
それまで耳をおおうほどだった風の音がいきなり静まったのです。
いや、音が止んだわけではりません。
風は相変わらず強く、唸りを上げています。
でも一瞬前までの轟きに比べれば半分か、それ以下の……
「しまった、ここはもう、庭じゃなかったんだ」
過去からの音が伝わる境界線はこの家の庭まで、そこから先は現代の音だけなのです。
たとえこの家に隣接している葡萄畑であっても。




