第7話 スライム百匹討伐配信
「やだ! やだぞ!」
ズズが、洗面器の水を全部はね飛ばした。
「あいつら、にげてきただけだぞ! 下から、にげてきただけだぞ! なんで、たおすんだ!」
畳に散った水を、私はタオルで拭く。
ズズの体は、いつもより濃い青になっていた。怒っているときの色だと、この一週間で覚えた。
「ブレイズの人たちは、スライムが逃げてきたことを知らないんです」
「じゃあ、おしえろ! ことは、おしえろ!」
教えて、聞いてもらえるだろうか。
私の言葉は、ついこのあいだまで、大学の先生にすら届かなかった。
でも、ズズの言葉を訳せるのは、いまのところ私しかいない。
◇
七日目の昼。
管理棟の前の広場に、人だかりができていた。
真ん中にいるのは、赤いジャケットの青年だった。
金色に染めた髪。片耳に光るピアス。後ろに、撮影用の機材を抱えたクランの仲間が五人。
「はいどーも、ブレイズの獅堂でーす! 明後日の百匹討伐、もう待ちきれないってことで、今日は前夜祭の前夜祭! ウケる!」
獅堂レオ。二十六歳。
同時接続は、いつも数万。多摩迷宮でいちばん有名な配信者だ。
「先生、本当に行くんすか」
隣で、犬飼さんが珍しく小さな声を出した。
「獅堂さん、カメラの前だと何言うか分かんないっすよ」
「だからこそ、です。たくさんの人が見ている場所で、話したいんです」
私は人だかりをかき分けて、前に出た。
「獅堂さん。少しだけ、お時間をください」
獅堂さんが、私を見る。
一秒考えて、それから、にやっと笑った。
「あっ、知ってる! スライムのお姉さんじゃん! 洗面器の! はい、撮れ高〜」
カメラが、いっせいにこちらを向く。
足がすくんだ。でも、ここで下がったら、ズズとの約束を破る。
「明後日の討伐を、やめていただけませんか」
「は?」
「いま第三層にいるスライムは、下の層から逃げてきた群れです。人を襲うために上がってきたのではありません。ただ、上へ逃げているだけなんです」
獅堂さんは、ぽかんと口を開けた。
それから、お腹を抱えて笑い出した。
「ちょ、待って、ウケる! スライムが逃げてきた? 何から?」
「……まだ、分かりません」
「分かんないのかよ!」
まわりのファンたちも、つられて笑う。
獅堂さんは、私の肩をぽんと叩いた。
「あのさ、お姉さん。第三層のスライム、ここ一か月で三倍に増えてんの。協会も駆除の許可出してんの。オレらがやんなきゃ、探索者が通れなくなるわけ。分かる?」
理屈は、通っていた。
増えすぎたスライムは、通路を塞ぐ。探索者の足元で潰れて、滑る。だから第三層では、スライムは駆除の対象になっている。
「……逃げ道を、作ってあげられませんか。倒すのではなくて、上へ通してあげれば、増えたまま留まることは無いはずです」
「スライムに道を譲れって? オレらが?」
獅堂さんの笑顔が、すっと消えた。
「てめえ、誰に言ってんの?」
低い声だった。
犬飼さんが、私の前に半歩出る。
次の瞬間には、獅堂さんはまた笑っていた。
「ま、いいや。お姉さんも明後日、見に来なよ。百匹倒すとこ、翻訳してよ。スライムがなんて鳴いて死ぬのか、絶対バズるから!」
ファンたちの歓声に押されて、私は人だかりの外に出された。
「ふざけんなっす!」
広場の端で、犬飼さんが人だかりに向かって叫んだ。
「先生は、スライムのことも、探索者のことも考えて言ってんすよ! それを笑うとか」
「犬飼さん」
私は、犬飼さんの袖を引いた。
「ありがとうございます。でも、怒鳴っても、たぶん届きません」
「でも、先生!」
「届かせる方法を、考えます」
犬飼さんは、まだ何か言いたそうに口を開けて、それから閉じた。
盾を背負った大きな背中が、少しだけ丸くなる。
鞄の中で、ズズが、ずっと黙っていた。
◇
「協会では、止められないんですか」
その日の夕方、調査課の部屋で、私は霧島さんに聞いた。
「止められない。駆除の許可は、正規の手続きで出ている。配信も禁じられていない」
「……そうですよね」
「だが、明日、第三層へ下りることはできる」
霧島さんは、壁の断面図の第三層を指で叩いた。
「魔物がどこを通って上がってくるのか、録って、地図にしてくれ。何かが起きるなら、どこで起きるかを知っておきたい」
◇
八日目。
私は生まれて初めて、第二層より下へ下りた。
東口の専用階段は、第一層の見学路の階段よりずっと狭くて、急だった。
前に霧島さん、後ろに犬飼さん。私はその間で、録音機とズズの容器を抱えて歩く。
「先生、足元気をつけてくださいっす! そこ、滑るっす!」
「犬飼。声を落とせ」
「すいませんっす!」
霧島さんは、もう何も言わなかった。
第三層は、湿った石の大きな通路だった。
真ん中に、太い中央通路が一本。両側に、細い枝道がいくつも口を開けている。
枝道の奥から、声が聞こえてくる。
ぷちゅ、ちゅい。スライムの泡。ギッ、ギ。ゴブリンの喉。チッ、チチッ。大ネズミの歯。
私は録音機を回し、声紋の上で声の向きを追った。
昼までかけて、三十か所で録る。
全部の声が、同じ道筋をたどっていた。
第四層からの階段を上がり、中央通路を通って、第三層の大広間へ。大広間の先で通路は一本に細くなり、第二層への大階段につながっている。
「ここです」
私は、大広間の地図に丸をつけた。
「上がってくる魔物は、全部ここを通ります。それなのに、大広間から上へ抜ける道は、この細い通路一本しかありません」
霧島さんが、大広間の脇を指さした。
「もう一本ある。旧坑道だ。協会が掘った古い作業用の道で、第二層に抜けている。危ないので、鉄柵で閉めてある」
大広間の壁際に、錆びた鉄柵の扉があった。
南京錠が二つ。その向こうに、暗い通路が続いている。
「……ブレイズの討伐配信は、どこでやるんですか」
犬飼さんが、スマホの告知を見せた。
「大広間っす。百匹集めて、出口を塞いで、まとめて倒すって」
私は、地図の上の大広間を見つめた。
魔物が上へ抜ける唯一の場所を、人が塞ぐ。
「ズズ」
容器の蓋を開ける。
ズズは、第四層への階段のほうへ、体を伸ばしていた。
「下のほうで、みんな、さわいでる」
「何と言っていますか」
「下から、くる。……あした。あしたの、あさ。おおきいのが、くる」
ズズの体が、細かく震え始めた。
「おれたちだけじゃないぞ。もっと下のやつらも、みんな、くる」
◇
九日目の朝。
ブレイズの配信が始まる二時間前、私たちは、もう一度第三層にいた。
大広間では、赤いジャケットのクランの人たちが、機材を並べている。
獅堂さんが、カメラの位置を指示する大きな声が響く。
その声の向こう、第四層への階段の、さらに下から。
ヘッドホンをしていなくても聞こえる、地鳴りのような声が上がってきた。
スライムの泡ではない。ゴブリンの喉でもない。
もっと大きな体の、もっとたくさんの、声の群れだった。




