第49話 ズズの返事
八十八日目の夜、第一層の三千人は、歌いながら、地上へ上がっていった。
ん、あ、ん。
もう、誰も、合図を待っていなかった。ばらばらで、楽しそうで、ちっともそろっていなかった。
おばちゃんは、穴の縁で、拡声器を下ろして、座りこんでいた。
最後の一人が階段を上がるまで、そこを、動かなかったそうだ。
八十九日目、霧島さんは、白銀の四人と一緒に、下へ下りた。
第四層。第五層。第六層。
どの層も、苔が光っていた。魔素計の針は、真ん中にあった。
夜、霧島さんから、電話が来た。
いつもの短さで、でも、いつもと違う言葉で。
「第十層の振動計が、また、記録を送ってきた。……第十一層の市場も、光っている」
「第十一層も」
「線は、見つからなかった。……どこまで下りても、見つからなかった」
霧島さんは、少し黙った。
「鳴瀬さん。明日、市場へ行けるか。ガラが、呼んでいる」
◇
九十日目の朝、四時。
管理棟を出て、東口の専用階段から、下へ。
ハヤテさんが、盾を背負って、先を歩く。
霧島さんが、最後尾。私の胸には、ズズの容器。
第七層を過ぎたあたりで、上ってくる魔物と、すれ違った。
いや、違う。下りていく魔物を、私たちが、追い越していた。
大ネズミの群れ。トカゲが二匹。
上へ逃げてきた者たちが、少しずつ、自分の層へ、帰っていく。
誰も、私たちの前には、立たなかった。
私たちも、誰の前にも、立たなかった。
◇
九時前、第十一層の市場に着いた。
天井の高い空洞。壁の光る苔。
十八日前、七十二日目の朝の発破で、一度に黙った場所だ。
市場は、まだ、がらんとしていた。
品物の並ばない台と、ひっくり返った籠。
それでも、奥の方で、若いゴブリンが二匹、籠を起こしていた。
天井の高いところを、細い糸が一本、下へ向かって伸びていく。長老の蜘蛛たちが、自分の層へ帰る道を、張り直しているのだ。
市場の真ん中に、ガラが、座っていた。
首の紐の束を、膝の上に、全部、広げて。
「――来たか。耳のでけえ女」
「来ました。……ガラ、いるか」
ガラは、喉の奥で、笑った。
それから、ここに、いる、の形を、短く返した。
「――見ろ」
ガラが、紐の束の、いちばん新しい何本かを、指でつまんだ。
第八層が黙ってから、三日に一本ずつ増えた紐。
ガラは、その結び目を、一つずつ、ほどきはじめた。
「――数は、ほどけるぞ、と、前に言ったな」
「……五十三日目に」
「――あれは、脅しだった。……今日のは、違う」
結び目が、一つ、ほどける。
また、一つ。
黙った層の数だけ、結んできた紐。
その層が、また、鳴りはじめた。だから、ほどく。
「――親父の紐は、ほどかねえ。あれは、あれで、本当にあったことだ。……でも、オレ様の紐は、ほどく。オレ様は、答えた者だからな」
ガラの四本の指が、最後の結び目を、ほどいた。
まっすぐな紐が、膝の上に、残った。
◇
そのとき。
床ではなく、空洞ぜんたいが、内側から、震えた。
市場の脇の、一番古い横道。
岩をどけた穴の、ずっと奥から。
ハヤテさんが、反射的に、盾を構えた。
霧島さんが、それを、手で下ろさせた。
「……犬飼。違う。あれは」
低い音が、長く、続いた。
一音が、ひと息、ずっと続いて、その中で、高さが滑らかに動く。
竜の、言葉。
ヘッドホンを、外した。
探知機も、要らない。これは、体で、聞く声だ。
「――言の葉の子よ」
私は、文語のまま、口に出した。
竜の言葉は、そう訳すと、決めている。
「――汝らの答え、底まで、届きたり。……我も、下より、答えたり」
八十八日目。
光が、声より速く、下へ走っていった。下からも、何かが、押し返しているように。
竜だった。
「――もだは、退けり。底の、さらに下へ。……底は、なお、黙りてあり。されど、道は、もはや、黙らぬ」
「――汝に、問うた。汝らは、いずこへ逃ぐる、と」
「――汝らは、逃げなんだ。ここに、いる、と答えた。……我らは、昔、それを、忘れておった」
竜の声が、少しずつ、遠くなる。
眠そうに、ゆっくりと。
「――我は、底へ還りて、眠る。……語り部の子よ。歌を、渡したな」
◇
腕の中で、ズズが、震えた。
ヘッドホンは、外したままだった。
ズズの体が、竜の声のする方へ、ぐっと伸びた。
答えようとしている。
語り部の子として。声の無い泡で。
泡が、ふくらんだ。
ぷ。
音がした。
ハヤテさんが、振り返った。
霧島さんの手が、止まった。ガラが、紐を握ったまま、顔を上げた。
ズズ自身が、いちばん、驚いていた。
容器の中で、体を、ぶるっと震わせて。
もう一度、泡が、ふくらんだ。
ぷ、ちゅ、ぷちゅ。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
十八日間、ずっと、声の無い泡で作り続けていた、形。
私の、名前。
探知機の電源を、震える指で入れた。
画面に、高い笛の音の線が、はっきりと、立っていた。
「……ズズ」
「ことは」
ヘッドホンを通さない、空気の中の、ズズの声だった。
「ことは。ことは。……おれ、こえ、でたぞ!」
答えようとして、声が、出なかった。
今度は、私の方が。
ハヤテさんが、盾を放り出して、容器ごと、私とズズを、抱えこんだ。
うおおおっ、と、言葉にならない声で。
霧島さんは、後ろを向いていた。
肩が、少しだけ、震えていた。
「……そうか」
それだけ、言った。
夜、小野寺さんから、メッセージが来た。
今日の録音を、七十二日目の声紋と、並べたのだそうだ。
『同じです。高さも、長さも、泡の割れ方も。……ズズさんの声です』
洗面器の中で、ズズが、泡を鳴らしていた。
うるさいくらいに、何度も。
「ことは。ばばにも、きこえたかな。……おとといの、みんなの、こたえ」
「聞こえたと思います。……上の方まで、届いていましたから」
「そっか。……なら、いい。いつか、さがしにいくぞ」
「はい。一緒に」
ズズは、満足したように、洗面器の底で、平たくなった。
それから、思い出したように、もう一度だけ、私の名前を鳴らした。
話す相手のいない言葉は、黙っている。
でも、ズズには、話す相手がいる。




