第50話 鳴き声の文法
百日目の朝は、ズズの声で、始まった。
「ことは! おきろ! きょうは、なんか、もらうひだぞ!」
「……もらうのではなく、任命です」
「にんめいって、なんだ。たべられるか」
「食べられません」
「なら、いらないぞ」
洗面器の中で、ズズが、ぷちゅ、ぷちゅ、と泡を鳴らしている。
声が戻ってから、十日。ズズは、黙っていた十八日分を取り戻すみたいに、朝から晩まで、しゃべっていた。
その朝、管理棟の三階の、大会議室で、紙を一枚、受け取った。
多摩迷宮 魔物語通訳官。
その下に、私の名前。番号は、一。
「前例が、ありませんので。……職務の中身は、これから一緒に決めさせてください」
内閣官房の担当者は、そう言って、頭を下げた。
八十五日目に、出口を固める、と言った人だ。八十六日目に、その字を、自分で消した人。
「一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「通訳は、話す相手が両方いて、初めて仕事になります。……魔物の側の言い分も、同じ重さで、聞いてください」
担当者は、少し笑って、手元の紙に、一行、書き足した。
支部長が、隣で、眼鏡を外して、目頭を押さえていた。困っているときとは、少し違う押さえ方だった。
三月三十一日に、私は、肩書きを一つ失くした。
百日目に、知らない肩書きを、一つもらった。
◇
昼、『多摩迷宮 魔物語辞典』の第一版を、公開した。
三百二十語。
スライムの泡と、ゴブリンの喉と、蜘蛛の糸と、竜の言葉の名残。どの語にも、録音と、声紋と、人の喉で言うときの形を付けた。
編者は、鳴瀬ことはと、小野寺栞。
協力の欄には、名前を四つ並べた。ズズ。糸繰りの長老。ガラ。それから、名前の無い、道を作った方。
誰でも、読める。誰でも、使える。
読むのに、特別な耳は、要らない。
公開してから一時間で、最初の誤りの報告が来た。
送り主は、「名無しの音声学徒」だった。
『百四十二番、蜘蛛の「あした」、例文の弾きの数が一つ多いです。……公開前に気づかなくて、すみません』
隣の机で、小野寺さんが、顔を真っ赤にしていた。
研究室に籍を置いたまま、今は、協会の調査課の、私の隣の机に通っている。
久我さんの名前は、どこにも、載せなかった。
大学を去ったあと、どこで何をしているのかは、知らない。知ろうとも、思わなかった。
アマツ資源は、深層の掘削から、手を引いた。
第十二層の東の端の縦坑は、ガラの群れが、物置に使っている。
◇
午後、第三層へ下りた。
大広間の真ん中は、魔物の道。両側の壁沿いが、人の道。
床に、協会の白い線が、きれいに引き直されている。
その境目に、獅堂さんが立っていた。
協会の腕章を付けて。肩書きは、第三層案内人。
「はーい、人は右ー! ネズミは真ん中ー! ……あ、鳴瀬さん」
獅堂さんは、私に気づいて、腕章を、少しだけ、指でつまんだ。
「……これ、似合ってねえだろ」
「似合っています」
「……別に、柵直しただけだし」
前と同じことを言って、獅堂さんは、そっぽを向いた。
金髪は、もう、根元から半分まで、黒くなっていた。
大階段の方から、子どもの声がした。
見学の札を首から下げた小学生たちが、引率の先生と一緒に、下りてくる。第三層の見学は、先週から、少人数だけ、許されるようになった。
その先頭に、見覚えのある男の子がいた。
八十八日目に、第一層で、私の袖を引いた子だ。
「お姉ちゃん! ぼく、辞典、三十語、覚えた!」
男の子は、通路の真ん中を横切るスライムに向かって、しゃがみこんだ。
それから、ゆっくり、ていねいに、言った。
ん、あ、ん。
スライムが、止まった。
泡を一つ、ぷちゅ、と鳴らして、また、真ん中の道を、のんびり上っていった。
壁際に垂れた糸が、一本、震えた。
接触マイクを当てる。下から、ずっと下から、ゆっくりした弾きが、三度ずつ。
――声を、拾う、娘。
――また、こい。
長老は、もう、第八層の巣に帰っている。
それでも、糸は、ここまで、つながっていた。
「はい。……また、行きます」
ハヤテさんが、後ろで、腕を組んでうなずいていた。
先週、中級の試験に、一回で受かった。面接で、ゴブリンの言葉で挨拶をして、面接官を固まらせたらしい。
◇
霧島さんは、その日、休みを取っていた。
白銀の真鍋さんと一緒に、第十九層へ下りたのだと、あとで聞いた。
何をしに行ったのかは、聞いていない。
夕方、短いメッセージが、一つだけ来た。
『第十九層のトカゲに、礼を言ってきた。……訳は、合っていたと思う』
底には、まだ、もだがある。
竜は、その上で、眠っている。
いつか、底の言葉も、聞いてみたい。
一つの洞で、全部の魔物が、同じ言葉で歌っていたころの言葉を。
それは、ずっと、先の話だ。
◇
夜、九時。
府中のアパートの、ちゃぶ台の前で、配信をつけた。
百日目の配信。
配信の名前は、一日目から、変えていない。鳴き声の文法。
同接の数字は、見なかった。一日目は、一だった。それだけ、覚えていればいい。
「こんばんは。鳴瀬です。……今日の一語は、蜘蛛の言葉から。また、あした」
声紋を出して、弾きの数と、高さを説明する。
コメント欄が、いつものように、少しずつ、ずれた形で、真似をする。
"また、あした"
"弾きの数むずい"
"元自衛官です。孫に教わりました"
"スライム愛好会会長です。会員が三千人を超えました"
島の、最後の話者だったおばあさんのことを、思った。
話す相手のいない言葉は、黙っている。
おばあさんは、そう言った。
この言葉には、今夜も、話す相手がいる。
だから、黙らない。
配信の最後は、毎晩、同じだ。
私が呼んで、みんなが、答える。
「では、最後に。……いるか」
画面が、同じ三文字で、埋まっていく。
ん、あ、ん。ここに、いる。
洗面器の中で、ズズが、ぷちゅ、と泡を鳴らした。
探知機の画面に、高い笛の音の線が、くっきりと立つ。
私は、もう一度だけ、呼んだ。
洗面器に、向かって。
「ズズ。……いるか」
ズズが、洗面器の縁に、ぴょんと乗った。
「ここに、いるぞ! ことは、あしたも、ここに、いるぞ!」
↓第5章の番外編「閉館の案内」(たま屋のおばちゃん視点。拡声器と、十年前の朝の話)
https://note.com/wise_turtle184/n/nbd5f4a72c203?app_launch=false




