第48話 ここにいる
ヘッドホンの中で、ズズの体が、上がって、上がって、上がった。
私は、それを、喉で、なぞった。
「ん、ん、ん」
――いるか。
大広間の空気が、震えた。
答えは、まだ、返さない。最初は、一つずつ。ズズの体が覚えていた、その順番のままに。
ゴブリンの言葉で、喉を鳴らす。
低い、二つの音。それから、呼ぶ形。
「ガラ、いるか」
壁際で、ガラが、胸を張った。
喉の奥から、下がって、上がって、下がる。
――ここに、いる。
ガラの群れが、続いた。
何十もの喉の鳴りが、一つずつ、重なっていく。
天井を、見上げた。
「長老。……いるか」
糸が、鳴った。
天井から壁へ、壁から床へ、ゆっくりした弾きが、三度。
――ここに、おる。
床の水色が、ふくらんだ。
ズズの容器を囲んだスライムたちが、泡を鳴らした。大ネズミが、トカゲが、知らない声で、同じ形を返した。
「人。……いるか」
旧坑道の側の壁から、四十を超える、ん、あ、ん。
鉄風の四人。白銀の四人。獅堂さんの、潰れた声。
はるか上で、割れた声がした。
「第二層! いるかい!」
おばちゃんの拡声器だ。
穴の下から、大階段を伝って、何百もの答えが、降ってきた。
「第一層! いるかい!」
三千の答えは、遠すぎて、音には、ならなかった。
ただ、ダンジョンの壁が、かすかに、鳴った気がした。
◇
線は、止まらなかった。
大広間の入口から、苔が、一つ、また一つ、暗くなっていく。
暗さの中に入ったスライムの泡が、音を失って、はじける。
悲鳴が、上がった。
人の列が、揺れた。
獅堂さんが、壁から飛び出した。
暗さの中へ、まっすぐに。足音が、ふっと消える。
人は、もだに喰われない。
獅堂さんは、黙った床から、音を失ったスライムを両腕にかき集めて、光の側へ転がり出た。
「……っ、はあ、何これ、自分の息も聞こえねえ」
腕の中のスライムたちが、泡を鳴らした。音が、戻っていた。
獅堂さんは、もう一度、暗さの縁へ戻って、次の一匹に手を伸ばした。
まだだ。
一つずつ答えただけでは、そろっていない。歌の最後は、全員で、同時に。
私は、右手を、もう一度、上げた。
長老の糸が、張りつめる。霧島さんが、無線のスイッチを押す。
「――全員で!」
ん、あ、ん。
ばらばらだった。
近くの声が先に、遠くの声が後に。泡は早く、喉は遅く。上からの答えは、さらに遅れて、降ってくる。
線が、来る。
ズズの容器を抱えた、私の足元の、三歩先。
苔が、消えた。
腕の中で、ズズが、震えた。
「――ことは。……さがるな」
さがるな。
逃げるな、ではなかった。ここに、いろ、と言っていた。
肩を、後ろから、大きな手が、つかんだ。
ハヤテさんだった。盾を床に置いたまま、両手で、私の肩を支えている。
「先生。俺、後ろにいるっす。……下がんないっすよ」
もう一度。
声が、出なかった。
喉が、震えて、形にならない。
そのとき、横で、低い声がした。
霧島さんだった。
無線を胸に当てたまま、暗さの方を、まっすぐに見ていた。
「……俺も、いる。槙。……ここに、いる」
小さな声だった。
でも、その声は、きれいに、下がって、上がって、下がっていた。
六年前、第十九層で、答えられなかった声の、分まで。
私は、息を吸った。
ヘッドホンの中で、ズズの体が、上がって、上がって、上がった。
「ん、ん、ん」
長老の糸が、弾けた。
無線が鳴る。全館放送が鳴る。拡声器が鳴る。
一瞬だけ、待った。
上からの声が、降りてくるまで。
そして、手を、振り下ろした。
◇
ん、あ、ん。
泡と、喉と、糸と、爪と、人の声。
第三層と、第二層と、第一層。
全部が、一つの形で、重なった。
足元の、三歩先で。
消えていた苔が、灯った。
「……針が!」
霧島さんの声が、跳ねた。
胸の盤の針が、左の端から、一気に、真ん中まで振れている。
苔が、灯る。灯る。灯る。
大広間の入口へ。中央通路の奥へ。光が、暗さを、押し返していく。
「続けて! 答え続けてください!」
ん、あ、ん。ん、あ、ん。
光が、走る。
中央通路の奥へ、第四層からの階段へ。
速すぎる、と思った。
八十六日目、二十ほどの声で、三歩だった。
今日の声は、その何百倍もある。それでも、光の走る速さは、声の届く速さより、ずっと速い。
まるで、下からも、何かが、押し返しているように。
魔物たちが、一斉に、声を大きくした。
怯えてではなかった。何かに呼ばれて、答える声だった。
ズズの体が、腕の中で、下の方を向いた。
「――した。……したから、なにか、きこえる」
「何が、ですか」
「――わかんない。……でも、こたえてる。おれたちと、おなじ、かたちで」
線が、退いた。
中央通路から、苔の暗さが、すっかり消えた。
霧島さんが、魔素計を胸に、中央通路へ走っていった。
しばらくして、戻ってきて、短く言った。
「第四層への階段まで、針が、戻っている。……階段の下は、まだ、光っている」
声が、続く限り、光は、下へ、下へと、降りていった。
◇
どれくらい、答え続けたのか、分からない。
気がついたら、大広間は、ふつうの明るさだった。
苔が、全部、灯っていた。
ハヤテさんの手の中のスマホが、震えた。
小野寺さんからの、短いメッセージ。
『第二層、声紋、最後の三十回、そろってます。……全部、同じ形です』
大階段の上から、割れた声が、降ってきた。
「やったのかい!? ねえ、お姉ちゃん! やったのかい!」
おばちゃんの拡声器だった。
答えようとして、声が、かすれて出なかった。代わりに、ハヤテさんが、大階段に向かって叫んだ。
「やったっすーーー!!」
上から、地鳴りのような歓声が、降ってきた。
今度は、形も何もない、ただの、人の声だった。
誰かが、床に座りこんだ。
それをきっかけに、人も、魔物も、ばらばらと、座りこんだ。
獅堂さんが、壁にもたれて、天井を見上げていた。
ガラが、首の紐の束を、指で、強く握っていた。
いちばん新しい紐に、今日の結び目は、まだ、結ばれていなかった。
腕の中の容器を、のぞきこんだ。
ズズが、泡を、ふくらませていた。
ヘッドホンの中で、体が、震えている。
「――ことは。……あったかい。すごく、あったかいぞ」
「はい」
「――ばばの、うたの、さいごだ。……みんなで、こたえた」
泡が、はじけた。
音は、まだ、しなかった。




