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任期切れの言語学者、魔物の鳴き声を翻訳する配信を始めたら ~拾ったスライムが「下から来る」と言っています~  作者: ま
第五章 全部の声で

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第47話 全館放送



 八十八日目の朝、八時。

 管理棟の手すり付きの階段を、八十七日ぶりに、一般の人が下りていく。


 第一層は、二日目から、ずっと閉じていた。

 見学路の手すりには、薄く埃が積もっている。壁の苔だけが、あの夜と同じ色で光っていた。


 入口の階段は、崩落のあとで、協会が直した。

 新しいコンクリートの段が、古い段の上に、白く継ぎ足されている。


 抽選に当たった三千人が、一人ずつ、見学路に並んでいく。

 協会の職員と、迷彩服の人たちが、手すりの外から、矢印を持って立っていた。



「押さない押さない! ほら、そこの坊や、手すりに登らない!」



 割れた声が、第一層じゅうに響いた。


 見学路の先。

 売店から二十歩のところ。一日目の夜に床が抜けた穴の、すぐ手前。


 たま屋のおばちゃんが、拡声器を構えて、立っていた。



「お姉ちゃん! 遅いよ!」


「……おはようございます。拡声器、まだ、あったんですね」


「あの日から、うちの押し入れにあったんだよ。店に戻しそびれてね。……電池は、新品だよ」



 おばちゃんは、拡声器の側面を、ぽんと叩いた。

 ステッカーが一枚、増えていた。手書きの文字で、「たま屋」。




◇




 段取りは、昨日の夜、霧島さんと、何度も確かめた。


 第三層の大広間で、私が、手を上げる。

 長老が、糸を弾く。糸は、第三層の天井から、第二層への大階段まで張ってある。


 同時に、霧島さんが、無線で、管理棟へ。

 管理棟が、全館放送で、第一層の見学路のスピーカーへ。


 そして、おばちゃんの拡声器が、穴の下の、第二層へ。



「あたしは、管理棟の放送が鳴ったら、これで、下に向かって、言えばいいんだね」


「はい。呼ぶ声は、私が、第三層で出します。……おばちゃんは、合図だけ」


「合図だけってのは、さみしいね。……あたしも、答えていいのかい」


「答えてください。全部の声で」



 おばちゃんは、にっと笑った。

 それから、拡声器を、穴の縁に向けて、構え直した。


 穴の下から、人のざわめきが、上ってきた。

 第二層にも、もう、人が並んでいる。




◇




 見学路を戻る途中で、袖を、引かれた。


 小学生くらいの男の子だった。

 後ろで、母親が、頭を下げている。



「お姉ちゃん。……ぼく、覚えてる?」



 すぐには、分からなかった。

 男の子が、手すりの向こうの、側道の鉄柵の扉を、指さした。



「あの日、ここで、泣いてた。……お母さんが、お姉ちゃん、スライムとしゃべれるんでしょ、って言った」



 一日目の夜。

 私の画面をのぞきこんで、へんなのー、と言った子。側道で、泣き出した子。


 背が、少し伸びていた。

 たった八十七日で。



「……覚えています」


「お姉ちゃん、スライムと、しゃべれるようになった?」



 あの夜は、しゃべれません、とは言えなかった。



「しゃべれます。……今日は、あなたも、しゃべれます」



 男の子は、胸を張って、小さく言った。

 ん、あ、ん。


 きれいな、答える形だった。




◇




 昼、東口から、第二層へ下りた。


 第二層の白い線の内側に、人が、隙間なく並んでいた。

 探索者証を持つ人と、協会が付き添う一般の人。床の穴の真下だけ、丸く空けてある。


 穴の下に、小野寺さんがいた。

 折りたたみの椅子に、ノートPCを二台。トートバッグは、足元。



「第二層の声紋、ここで録ります。……そろったかどうか、あとで、ちゃんと数えられるように」


「お願いします」


「それと」



 小野寺さんは、画面の隅のフォルダを指さした。

 七十二日目、と名前の付いたフォルダ。ズズの、最後の声紋。



「いつでも、比べられます。……戻ったら」



 戻ったら、とだけ、小野寺さんは言った。

 私は、うなずいて、第三層への大階段を下りた。


 大広間は、静かだった。

 数百の魔物と、四十を超える探索者と、協会の人たちが、息を詰めていた。


 中央通路の奥で、苔が、暗くなっていた。


 朝、線は、第四層からの階段を上りきった。

 それから、中央通路を、一歩ずつ。


 霧島さんが、通路の入口に、白い塗料の印を引き直していく。

 十歩手前。また、十歩手前。そのたびに、印が、大広間へ近づいてくる。



「魔素計、ゼロ。……あと、五十歩」



 スライムたちが、床の真ん中で、ひとかたまりになっていた。

 その真ん中に、ズズ。容器から出て、群れに体を寄せたまま。


 私は、水色の間に膝をついて、ズズの背中に、ラップで包んだマイクを当てた。



「ズズ。呼ぶのは、私がやります。……でも、私の喉は、スライムの呼び方を知りません」


「――しってる。だから、おれが、からだで、よぶ。ことはが、それを、こえにしろ」



 六十三日目。

 竜の前で、ズズの泡の高さのまま、私の喉で言い直した。あれと、同じだ。


 ズズを、両手で掬い上げて、容器に入れた。

 容器を、胸に抱える。ヘッドホンを、両耳に。


 周りのスライムたちが、ズズの容器を追って、私の足元に集まってきた。


 ゴブリンの若い一匹が、後ずさった。

 細い通路の方へ。第二層への大階段の方へ。人の並んでいる方へ。


 ガラが、低く、喉を鳴らした。

 第十一層の市場を仕切っていた、若頭の声で。



「――逃げるな。……今日は、逃げねえ日だ」



 若いゴブリンが、止まった。

 獅堂さんが、その前に立たず、横に回って、そっと、肩に手を置いた。



「……大丈夫。オレも、こええから」




◇




 スマホの配信の画面は、ハヤテさんが持っていた。

 同接の数字は、もう、見なかった。テレビも、同じ画面を流しているらしい。


 天井から、長老の糸が、一本、私の手の届くところまで、下りてきた。


 ――声を、拾う、娘。

 ――わしの糸は、全部、張った。


 霧島さんが、無線を、口の前に構えた。

 ハヤテさんが、盾を、床に下ろした。今日は、盾を構えるのではなく、声を出す日だ。


 苔が、また一つ、暗くなった。

 大広間の入口の、ひとつ手前の苔だった。



「線、印を越えた。……来るぞ」



 霧島さんの声が、低かった。


 大広間の入口で、光が、消えた。

 音が、返ってこなくなった。


 魔物たちが、一斉に、身をすくめた。

 人の列から、誰かの、短い悲鳴が上がった。


 私は、右手を、上げた。


 長老の糸が、張りつめる。

 霧島さんが、無線のスイッチを押す。


 はるか上で、管理棟の放送が鳴るのが、大階段と、床の穴を伝って、かすかに聞こえた。

 それから、割れた、おばちゃんの声。



「――いくよ、みんな!」



 私は、息を吸った。



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