第46話 市場から、糸から
八十七日目の昼。
東口の専用階段から、第二層へ下りた。
第二層は、人で、ざわついていた。
協会の職員が、床に白い線を引いている。ここから先、魔物の道。ここから手前、人の場所。
迷彩服の人たちが、段ボールの案内板を運んでいた。
出口を固めるはずだった人たちだ。今は、明日、第一層に入る三千人と、第二層に並ぶ人たちのための、矢印を立てている。
その間を抜けて、第三層への大階段を下りると、音が、押し寄せてきた。
泡の音。喉の鳴り。糸の弾ける音。爪が石を掻く音。
それに混じって、かすれた人の声。
中央通路の奥から、大広間の手前まで、魔物が、ぎっしりと詰まっていた。
それでいて、誰も、誰の前にも立っていない。
「はーい、通るよー! ネズミ、左寄って! ……そう、それ!」
大広間の入口で、獅堂さんが、両腕を振っていた。
声が、半分、潰れている。夜通し、呼んでいたのだ。
「……獅堂さん。寝ましたか」
「寝てない。……ウケるよな。オレ、ブレイズのころ、徹夜の配信、三日もたなかったのに」
獅堂さんは、かすれた声で笑って、それから、通路の奥を指さした。
「下から、まだ来てる。第四層の、最後の連中。……あいつら、ちゃんと、人の前に立たないの。オレが手、上げたら、止まんの」
七十二日目に、この人は、柵を開けた。
今は、柵の代わりに、自分の腕で、道を作っている。
◇
大広間は、いつもより、狭く見えた。
天井には、長老の糸が、何重にも張り渡されている。
白く褪せた背の毛の大蜘蛛が、その真ん中に、じっと吊り下がっていた。
壁際の一角に、ガラの群れ。
紐の束を首に下げた肩の広いゴブリンが、その前に、腕を組んで立っている。
床の真ん中は、水色だった。
下の群れのスライムと、第四層から上ってきたスライムと、どこから来たのか分からないスライム。
探索者たちは、旧坑道の側の壁に沿って並んでいた。
灰色の防護服に銀の線、白銀の四人。真鍋さんが、私に気づいて、小さく頭を下げた。
その隣に、見覚えのある四人組がいた。
剣が二人、槍が一人、弓が一人。
「スライムの人! ……俺らも、来ました」
鉄風のリーダーだった。
二十五日目に、第八層で、蜘蛛の糸に絡まっていた人たちだ。
「あのとき、助けてもらったんで。……答えるくらいは、させてください」
ハヤテさんが、私の横で、鼻をすすった。
霧島さんは、黙って、魔素計の盤を、指で叩いていた。
ズズの容器の中で、震えが、強くなった。
「――ことは。おろせ。……むれの、ところに」
容器を、床の水色の真ん中に、そっと置いた。
蓋を開けると、ズズが、ぬるりと出ていく。
スライムたちが、寄ってきた。
一匹、また一匹。ズズの体に、自分の体を、ぴたりとつける。
眠るときの、群れの形だった。
ばばが、子どもたちに、歌の終わりを歌った形。
ヘッドホンには、もう、何も届かない。
マイクは、空の容器の蓋に、貼ったままだ。
でも、見ていれば、分かった。
ズズの体が、ゆっくり、震えている。それが、くっついたスライムへ、そのまた外側へ、波のように、伝わっていく。
声の出ない語り部の子が、体で、歌を渡していた。
◇
ガラが、私を手招きした。
群れの前まで行くと、ガラは、片手の四本の指を、全部立てた。
それから、一本ずつ、折っていく。
「――一つ、答えた。だから、一つ、もらう。……昨日、そう言った」
「はい。何を、差し上げればいいですか」
ガラは、すぐには、答えなかった。
首の紐の束を、指で、一本ずつ、なぞっていく。十年分の十八本と、この半月で増えた、五本。いちばん新しい一本は、まだ結びかけだ。
「――親父は、二本目の途中で、結ぶのをやめた。……数えても、数えても、誰も、答えなかったからだ」
「…………」
「――道を作った方には、名前がねえ。呼ぶ者が、底にもう、いなかったからだ。……呼ばれねえ者は、答えようがねえ」
ガラは、私の目を、まっすぐに見た。
「――呼ぶとき、オレ様の名前で、呼べ。耳のでけえ女。……オレ様は、数えるだけの者じゃねえ。答える者だ」
喉の奥が、熱くなった。
私は、ゴブリンの言葉で、ガラ、と言った。
喉を鳴らす、低い、二つの音。それから、呼ぶ形を、乗せた。
ガラ。いるか。
ガラは、目を閉じた。
それから、喉の奥で、下がって、上がって、下がった。
ここに、いる。
「――……悪くねえ。勘定は、合った」
ガラの群れが、低く、喉を鳴らした。
笑っているのだと、なんとなく、分かった。
◇
天井の糸が、一本、私の肩の高さまで、下りてきた。
接触マイクを貼る。
――声を、拾う、娘。
長老の弾きは、昨日より、さらに、ゆっくりだった。
――わしの、糸を、第二層の、階段まで、張らせる。
――娘が、手を、下ろしたら、わしが、糸を、弾く。巣じゅうが、同時に、知る。
元自衛官のコメントを、思い出した。
数千人の声をそろえるなら、全員に同時に届く合図が要る。
「……ありがとうございます。合図を、探していました」
――糸は、もともと、そのためのものじゃ。
――十年前、わしは、巣の下を、歌の通るのを、聞いておった。今度は、わしが、通す番じゃ。
◇
夕方、一度だけ、大広間の全部で、答えた。
私が、手を上げる。
長老が、糸を、弾く。天井から壁へ、壁から床へ、震えが走る。
私が、呼ぶ。
ん、ん、ん。
答えが、返ってきた。
数百の泡と、喉と、糸と、四十を超える人の声。
そろっては、いなかった。
スライムは早く、ゴブリンは遅く、人は、その真ん中で、ばらばらだった。
ただ、床の真ん中だけは、違った。
ズズを中心に、くっつき合ったスライムたちの泡が、輪になって、同じ形で、はじけていた。
内側から、外側へ。
声の無い真ん中から、声のある外側へ。
ハヤテさんだけが、きれいに、下がって、上がって、下がっていた。
昨日の夜、肩車の女の子に習った形のまま。
「……今の、ハヤテさん、合ってました」
「マジっすか!?」
大広間じゅうから、笑いが起きた。
スライムの泡も、ゴブリンの喉も、なぜか、一緒に揺れた。
夜、霧島さんが、第四層からの階段の下まで、魔素計を持って下りた。
戻ってきて、短く言った。
「線は、階段の一番下にいる。……明日の朝、上ってくる」
明日、八十八日目。
第一層に、三千人が入る。
大広間の天井で、長老の糸が、一度だけ、鳴った。
まるで、誰かを、呼ぶように。




