第45話 練習配信
八十六日目の夜、九時。
管理棟の前の広場に、折りたたみの机を一つ出した。
机の上に、ズズの容器と、接触マイク。
小野寺さんのノートPCが二台。片方に配信の画面、もう片方に、声紋。
広場には、人が集まっていた。
近所の人。仕事帰りの人。子どもを肩車した父親。数えようとして、やめた。
ハヤテさんは、机の横に立っている。
盾は、背中に背負ったままだ。
「先生。俺、今日、ここで練習するっす。……三歩のとき、俺だけ呼んでたんで」
「はい。一緒に」
配信をつけた。
画面の隅の数字が、十万から始まった。
◇
「こんばんは。鳴瀬です。……今日は、一語だけ、覚えてもらいます」
画面に、二つの並びを出す。
上がって、上がって、上がる。――いるか。
下がって、上がって、下がる。――ここに、いる。
「呼ぶのは、私がやります。皆さんは、答えるほうだけです。……ん、あ、ん」
口を閉じて低く。開いて、少し高く。閉じて、低く。
大きな声は、要りません。形だけ、合わせてください。
"ん、あ、ん"
"思ったより低い"
"声出したら隣の部屋から壁ドンされた"
"ん、あ、ん(ささやき)"
広場のあちこちで、同じ三つの音が、ばらばらに上がった。
低すぎる人。高すぎる人。途中で笑い出す人。
それでいい、と思った。
島で、最初に言葉を習ったときも、私は、ずっと、笑われていた。
「この言葉は、一日目の夜、第一層のスライムが、逃げながら言い合っていた言葉です」
画面に、一日目の、同接1の配信の切り抜きを出した。
見学路の手すりから身を乗り出している、私の背中。足元を、上へ、上へと流れていく、水色の群れ。
「いるか、と呼ばれたら、ここに、いる、と答える。……誰も置いていかないために、答えます。答えが一つ足りないと、全員で、探しに戻ります」
"点呼の歌か"
"逃げながら点呼って、ちゃんとしてるなスライム"
"うちの祖母、山で迷った子を探すとき、名前呼んで返事させてた。同じだ"
"答えられなかった子が、ズズなんだよな"
最後のコメントで、指が止まった。
ヘッドホンの中で、ズズの体が、じっとしていた。
「――ことは。いまは、こたえられるぞ。……からだで」
「はい。……ズズは、今日、答えられます」
それだけ、訳した。
◇
「では、ハヤテさん」
「うっす!」
ハヤテさんが、胸を張った。
深く、息を吸う。
「ンアーーーンッ!!」
広場の鳩が、一斉に飛び立った。
"wwwwwww"
"鳩が逃げた"
"盾の人、また呼んでる"
"ハヤテの視聴者です。こいつ、カラオケでもこうです"
小野寺さんが、無言で、もう一台の画面をこちらへ向けた。
ハヤテさんの声紋。上がって、上がって、上がっている。
「……呼ぶ形、です。しかも、強めの」
「マジっすか!?」
「大きさではありません。形です。……最後を、下げてください」
「下げるっす!」
二回目。三回目。
最後が下がらない。下げようとすると、真ん中まで下がる。
「ん、ん……ンアン!?」
「――でかいの。いま、もんだいの、かたちだったぞ」
ズズの震えを、そのまま訳した。
上がって、上がって、下がる。問いかけの形。
"ズズ先生きびしい"
"三回目は質問になってて草"
"スライムに発音指導される探索者"
ハヤテさんは、頭を抱えて、しゃがみこんだ。
そのとき、肩車の上の女の子が、言った。
「ん、あ、ん」
きれいな、下がって、上がって、下がる、だった。
「……今の、です」
「子どもに負けたっす……」
ハヤテさんは、しゃがんだまま、女の子を見上げた。
女の子が、もう一回、言った。ハヤテさんが、それを、小さく真似した。
ん、あ、ん。
小野寺さんの画面で、ハヤテさんの声紋が、初めて、最後に、下がった。
「……できました」
「できたっす!?」
"できたあああ"
"四回目で草"
"女の子が師匠"
◇
十一時を回るころ、協会の告知が出た。
八十八日目、第一層と第二層に、一般の人を入れる。
第一層の見学路に、三千人。抽選。
零時には、応募が、十万を超えた。
コメント欄に、見覚えのある名前が流れた。
"元自衛官です。数千人の声を一度にそろえるなら、合図が要ります。広い場所では、声より先に、目で見える合図か、全員に同時に届く音が"
"たま屋のおばちゃんの孫です。おばちゃんが、拡声器の電池を買いに行きました"
"おばちゃんwww"
"売店は逃げないってこういうことか"
拡声器。
一日目の夜、側道の分かれ道で、私の言葉を、そのまま大きくした声。
あの拡声器が、まだ、たま屋のどこかにある。
霧島さんから、短いメッセージが来た。
『第三層。獅堂とガラの群れと、探索者が四十人。夜通し、練習するそうだ』
続けて、獅堂さんから、短い動画が届いた。
第三層の大広間。
壁際に、探索者たち。真ん中に、ガラの群れと、スライムと、大ネズミ。天井に、蜘蛛の糸。
獅堂さんが、カメラの外から、叫んでいる。
「はい、いくよー! 鳴瀬さんの代わりに、オレが呼ぶからな! ……ん、ん、ん!」
答えが、返る。
喉の鳴りと、泡の音と、糸の音と、四十人の、ん、あ、ん。
そろってはいない。
でも、誰も、やめていなかった。
動画の最後に、ガラが、カメラの前に顔を突き出した。
何か、短く言った。音が割れていて、半分しか聞き取れない。
――一つ、答えた。だから、一つ、もらう。
ガラらしい、と思った。
何をもらうつもりなのかは、まだ、分からなかったけれど。
画面の向こうで、百万を超えた数字が、まだ増えていた。
でも、ダンジョンの中に届くのは、第三層の、四十人と、魔物たちの声だけだ。
その夜、私は、二時まで、呼ぶ声を、出し続けた。
島の、最後の話者だったおばあさんのことを、考えていた。
話す相手のいない言葉は、黙っている。おばあさんは、そう言った。
今夜、百万を超える人が、同じ三つの音を、口にしている。
この言葉には、話す相手が、いる。
◇
八十七日目の朝、七時。
霧島さんの電話は、いつもと、違う言葉で始まった。
「線が、遅れた」
「……え」
「第四層の、上りの階段の下。夜のあいだ、ずっと、そこで止まっていた。……第三層の声が、階段を下りて、届いていたらしい」
四十人と、魔物たち。
一晩、答え続けた声。
「第三層に入るのは、早くて、明日の朝だ。……半日、稼いだ」
電話を切った。
ヘッドホンの中で、ズズの体が、震えた。
「――ことは。みんな、こたえてた」
「はい」
半日。
声が、自分の力で、稼いだ半日だった。




