第44話 全部の声で
八十六日目の朝、九時。
第四層の、真ん中。
通路の先で、光る苔が、少しずつ暗くなっていく。
暗さの先は、何も無い。ライトは届くのに、音が返ってこない。
線から十歩手前の床に、白い塗料の印。
霧島さんが、今朝、引いたものだ。
「魔素計、ゼロ。……印の上で、もう、ゼロだ」
霧島さんが、胸の盤を指で叩いた。
針は、左の端に、張りついたまま動かない。
集まったのは、人と魔物を合わせて、二十ほど。
私と、ハヤテさんと、霧島さんと、獅堂さん。
ガラと、ガラの群れの若いゴブリンが三匹。
長老が寄越した、若い蜘蛛が一匹。天井から、細い糸で下りてきている。
それから、スライムが十匹。
下の群れから、来てくれた。その中に、親指ほどの、小さな水色が一匹いた。
七十二日目に、ズズが、静けさの中でかばい続けた子だ。
子スライムは、ズズの容器の横に、ぴたりとくっついて、離れなかった。
「――おれの、こだぞ」
「ズズの子では、ありません」
「――おれが、たすけたから、おれの、こだぞ」
訳すと、ハヤテさんが噴き出した。
ガラが、うるさそうに鼻を鳴らした。
獅堂さんは、壁にもたれて、白い印と、その先の暗さを、交互に見ていた。
「……で、鳴瀬さん。これ、ほんとに、声で、どうにかなんの」
「分かりません。だから、試します」
「分かんないのに、ここまで来んのかよ。……ウケる」
笑っていなかった。
獅堂さんは、七十二日目に、第三層で、人と魔物がぶつかるところを見ている。柵を開けたのは、獅堂さんの手だった。
◇
最初に、録音を試した。
小型のスピーカーを、白い印の上に置く。
一日目の、第一層の点呼。いるか。ここに、いる。それを、何度も、繰り返し流す。
十分、待った。
苔は、暗いままだった。
霧島さんの針も、動かない。線は、一歩も、退かなかった。
「――石が、鳴いてるだけだ」
ガラが、低く言った。
ズズに訳してもらわなくても、もう、分かる。ゴブリンの「石」は、硬くて、命の無いもの、という意味だ。
「……声の形をしていても、声では、ないんですね」
録音は、声の写しだ。
写しは、形だけを持っていて、中身を持っていない。
中身。いきのもと。
二十二日目に、長老はそう呼んだ。
◇
「では、生きた声で、試します」
私は、白い印の前に立った。
語り部が呼んで、一人ずつ答えて、最後に、全員で同時に答える。
ズズの体が覚えていた順番の、そのままに。
呼ぶのは、私だ。
ズズの体の形を、ヘッドホンで聞きながら、私の喉で。
「ん、ん、ん」
上がって、上がって、上がる。――いるか。
スライムが答えた。泡の音が、十。
ゴブリンが答えた。喉の鳴りが、四。蜘蛛の糸が、一本、弾かれた。
霧島さんが、低く。獅堂さんが、少し照れくさそうに。
ハヤテさんが――
「ンアーーーンッ!!」
通路じゅうに、響いた。
高さの形が、ぜんぜん違う。上がって、上がって、上がっている。それは、呼ぶほうの形だ。
「ハヤテさん。……それは、答えではなく、呼んでいます」
「マジっすか!?」
「――でかいの、へたくそだぞ」
ズズの声が、ヘッドホンの中だけで、きっぱりと言った。
訳さなくても、ハヤテさんには、伝わったらしい。耳まで、赤くなった。
もう一度。
今度は、最後の一回を、全員で、同時に。
私が、手を振り下ろす。
「ん、あ、ん」
二十ほどの声が、一つの形で、重なった。
その瞬間。
白い印の向こうで、暗かった苔が、一つ、灯った。
◇
「……針が」
霧島さんの声が、かすれていた。
胸の盤の針が、左の端から、少しだけ、浮いている。
苔が、もう一つ、灯る。
線が、退いた。一歩。二歩。三歩。
「続けてください! 答え続けて!」
ん、あ、ん。ん、あ、ん。
スライムの泡と、ゴブリンの喉と、蜘蛛の糸と、人の声が、同じ形で、何度も重なる。
ヘッドホンの中で、ズズの体が、震えた。
「――あったかい」
七十日目の朝に、ズズは言った。
ばばが歌うと、あったかかった、と。
声が、いきのもとを、生んでいる。
五分で、息が続かなくなった。
声が、一つ、また一つ、途切れていく。
最後の声が止んで、しばらくして。
苔が、奥から、一つずつ、暗くなった。
十分ほどで、線は、元の場所に戻った。
誰も、すぐには、口をきかなかった。
ハヤテさんが、盾を床に置いて、両手で顔をこすった。
子スライムが、ズズの容器の横で、ぷるぷると跳ねている。
獅堂さんは、壁から背中を離していた。
「……今の、見た? オレら、押したよな。三歩」
「押しました」
「マジかよ。……ウケる」
今度は、少しだけ、笑っていた。
ガラが、自分の指を、じっと見ていた。片手四本の指を。
ガラが、言った。
「――数えるのは、オレ様の仕事だ。……二十ほどで、三歩。なら、十倍なら、どうだ。百倍なら」
私は、ノートを開いた。
七十一日目から、仮説、と書いてきた行がある。声は、魔素を生む。
仮説、の二文字を、線で消した。
「決めます。……声は、魔素を生みます。そろった声の前で、もだは退きます。これで、行きます」
◇
昼、管理棟の大会議室に戻った。
支部長と、担当者と、霧島さんと、私。
机の上に、今朝の記録。苔の写真と、魔素計の針と、私のノート。
霧島さんが、線の先の動きを、断面図に書き込んだ。
「第三層に入るのは、明日の夜。中央通路を抜けて、大広間に届くのは、明後日だ」
「明後日、八十八日目。……そこで、全員で、答えます」
私は、断面図の、第三層と、第二層と、第一層を、指でなぞった。
「第三層の大広間には、もう、魔物が集まっています。人も、第三層と第二層と第一層に、入れるだけ入ってください。声は、階段と、崩れた床の穴を通って、下へ落ちます」
「録音では、だめなんですね」
「だめです。……そこにいる人の、生きた声だけです」
「全国の人は。……家から、一緒に言ってもらうのでは、だめですか」
「届きません。画面の向こうの声は、ダンジョンの中には、入りません」
担当者は、少し、肩を落とした。
私は、続けた。
「でも、覚えた人は、来られます。来られない人も、覚えておけば、いつか、どこかで答えられます。……言葉は、覚えている人がいる限り、黙りません」
担当者が、しばらく、地図の赤い円を見ていた。
それから、ペンで、管理棟の出口に書いてあった「固める」という字を、消した。
「出口を固めるはずだった人たちを、第一層に並べます。……それで、いいですか」
「はい」
汝らは、いずこへ逃ぐる。
逃げません。
ここに、いる、と答えます。
夕方、配信の告知を出した。
今夜、九時。
日本じゅうに、一語だけ、教える。




