第43話 第四層まで
三日ごとに、霧島さんの電話は、同じ言葉で始まった。
七十八日目、第六層が黙った。
蜘蛛たちは、前の晩のうちに、長老を糸で吊ったまま、第五層の天井へ運んだ。
八十一日目、第五層。
協会の詰所は、第四層の階段の上まで下がった。机も、無線も、毎回、少しずつ減っていった。
そして、昨日。八十四日目、第四層。
一度も、遅れなかった。一度も、早まらなかった。
ガラの使いが詰所へ来て、紐の結び目を見せるたびに、数は、私の表と、ぴたりと合った。
毎晩、短い配信をつけた。
ズズの体の震えを流して、最後に、みんなで、ん、あ、ん、と一回だけ言う。
同接は、毎晩、増えた。
小学校で、休み時間に、ん、あ、ん、と言い合うのが流行っている、というコメントがあった。
それでも、線は、一歩も、遅れなかった。
画面の向こうの声が、ダンジョンの中まで届いているのかは、分からなかった。
それしか、できることが無かった。
◇
八十五日目の朝。
管理棟の三階の、大会議室。
長い机の端に、支部長が座っていた。
その隣に、内閣官房の担当者。六十五日目に、支部の会議室で会った人だ。
霧島さんと、私。
机の上に、ズズの容器。蓋には、接触マイクを貼りつけたまま。
壁の断面図に、赤い線が引いてある。
第四層の、真ん中あたり。
「現状を、確認します」
担当者が、手元の紙を読み上げた。
「もだは、三日で一層。このままなら、八日後に、第一層に届きます。……地上に出る魔物の数は、協会の推計で、数千」
「数千のうち、ほとんどは、スライムと大ネズミだ」
霧島さんが、短く足した。
「人を噛む魔物ではない。人が、前に立たなければ」
「その、前に立たない、というのが、地上では難しいんです」
担当者は、地図を広げた。
多摩迷宮を中心に、赤い円が描いてある。半径、二キロ。
「この円の中の住民に、避難をお願いします。五日後から。……それと、管理棟の出口を、自衛隊が固めます」
円の端に、府中の、私のアパートのある町が、入っていた。
それよりも。
出口を、固める。
「……それは、九日目と、同じです」
「九日目?」
「第三層で、ブレイズが通路を塞ぎました。逃げてくる群れの前に、人が立ちました。……あの日、怪我をしたのは、塞いだ人たちだけでした」
担当者は、黙った。
霧島さんが、手元の記録を、机の真ん中へ滑らせた。
「九日目、死者はゼロだった。……通路を空けたからだ。塞いでいたら、そうはならなかった」
「それは、第三層の中の話でしょう。地上には、通路がない。街がある」
担当者の声は、静かだった。
意地悪で言っているのではない、と分かった。守らなければならないものの数が、違うだけだ。
支部長が、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「鳴瀬さん。では、どうする。……逃げる者を、通すだけでは、もだは止まらない。地上まで、来る」
「分かっています」
分かっている。
通すだけでは、逃げる先が、地上に変わるだけだ。
汝らは、いずこへ逃ぐる。
竜の問いに、私は、まだ、答えを持っていなかった。
「一つだけ、試させてください。……明日、第四層の線の前で」
「何を」
「答えてみます。――ここに、いる、と」
会議室が、静かになった。
ヘッドホンの中で、ズズの体が、一度だけ、強く震えた。
支部長が、眼鏡をかけ直した。
四十八日目に、自分で第十一層まで下りて、取り決めに名前を書いた人だ。
「……条件は、一つ。線の向こうへ、魔物を近づけるな。人は、いい。魔物は、だめだ」
「はい」
「それと、記録を残しなさい。うまくいっても、いかなくても」
担当者は、何も言わなかった。
ただ、手元の紙に、何かを一行、書き足した。
◇
昼すぎ、管理棟の前の広場で、小野寺さんから電話が来た。
「鳴瀬さん。……久我先生のこと、聞きましたか」
「いいえ」
「調査委員会の結論が、先週、出ました。ノートの盗用、認定です。……それで、昨日、学会の臨時の場で、説明を求められて」
小野寺さんは、少し、言葉を探した。
「何も、答えられなかったそうです。図1のことを聞かれて、黙ったまま。……今朝、大学に、辞表が出ました」
広場の向こうで、子どもが、ん、あ、ん、と言いながら走っていった。
母親が、笑いながら、それを追いかけていく。
「……そうですか」
「それだけ、ですか」
「それだけです。……久我さんは、もう、私の話す相手では、ありませんから」
電話の向こうで、小野寺さんが、小さく息を吐いた。
安心したような、少しだけ、寂しいような音だった。
「研究室、鳴瀬さんの机、まだ空いてます。……誰も、使ってません」
「……今は、ちゃぶ台があります」
「知ってます。わたしも、使いましたから」
◇
夕方、第三層へ下りた。
大広間は、魔物で、いっぱいだった。
天井には、長老の蜘蛛たちの糸。
壁際には、ガラの群れ。第四層から上ってきた大ネズミと、トカゲ。床を埋める、水色のスライム。
人は、旧坑道の側の壁に沿って、細く並んでいる。
その真ん中で、獅堂さんが、両手を広げていた。
「はーい、人はこっちー! 真ん中は魔物の道ー! 焦らない、焦らない!」
金髪の根元の黒が、前に会ったときより、長く伸びていた。
獅堂さんは、私に気づいて、手を挙げた。
「鳴瀬さん。……明日、線の前で、なんかやるって聞いた」
「答えてみます」
「何に」
「竜の問いに、です」
獅堂さんは、少し考えて、肩をすくめた。
「……オレ、盾も無いし、学もないけど。声なら、でかいよ」
隣で、ハヤテさんが、手を挙げた。
「声なら、俺のほうが、でかいっす! あと盾もあるっす!」
「張り合うとこじゃねえだろ」
天井の糸が、一本、震えた。
私は、接触マイクを、ズズの容器から剥がして、壁際に垂れた糸に貼った。
ヘッドホンの中で、ゆっくりした弾きが、三度ずつ、並ぶ。
長老の言葉だ。
ズズが訳さなくても、今は、半分くらいなら、自分の耳で分かる。
――声を、拾う、娘。
――答える、歌を、見つけたか。
「見つけました。……でも、何人で答えればいいのか、分かりません」
しばらく、糸が黙った。
それから、もう一度、三度ずつ。
――数えるのは、わしの、仕事では、ない。
――わしの糸は、答える。ここに、おる、と。それだけじゃ。
急くな、とは、言わなかった。
もう、急がなくていい時間は、残っていなかった。
マイクを、ズズの容器に戻す。
ヘッドホンの中で、ズズが、短く震えた。
「――ことは。おれも、いく。……こえ、でないけど」
「はい。一緒に」
夜、アパートに帰った。
五日後には、この部屋も、避難の円の中だ。
ちゃぶ台の上の、洗面器。ステッカーだらけの録音機。島から持って帰ってきた、全部。
汝らは、いずこへ逃ぐる。
逃げる先なら、ある。
円の外へ。もっと遠くへ。地上は、広い。
でも、底の魔物たちも、そう思って、上ってきたのだ。
逃げた先に、また、逃げた者がいた。
第一層まで、あと八日。
明日、線の前で、初めて、逃げずに答えてみる。




