第42話 歌を訳す
七十六日目の朝、六時。
小野寺さんは、始発で来た。
トートバッグから、ノートPCが二台出てくる。
一台は自分の、もう一台は声紋を何本も同時に並べるための、古い重いもの。
「一日目の四十七本、全部、同じ画面に並べたいんです。一台だと、足りません」
「並べるのは、得意ですね」
「六十八日目から、得意になったんです」
小野寺さんは、そう言って、ちゃぶ台に二台を並べた。
昨日の夕方、第七層が黙った。
霧島さんの電話は、いつも通り短かった。予定通りだ、と。
長老とガラの群れは、第六層の奥へ移った。
協会の詰所は、第五層まで下げた。上ってくる魔物の前に、人は立たない。
取り決めは、まだ、生きている。
ただ、取り決めを結んだ市場が、もう、黙っているだけだ。
予定通りに、一層ずつ、近づいてくる。
第一層まで、あと十七日。
◇
ちゃぶ台の上に、二つのものを並べた。
一つは、一日目の夜に録った、四十七のファイル。
もう一つは、おととい、ズズの体から書き取った、歌の終わり。
「数えます」
小野寺さんが、黙ってうなずいた。
四十七回のうち、上がって、上がって、上がる、が二十一回。
下がって、上がって、下がる、が二十二回。残りの四回が、ほとんど出ない並び。
「時刻を、並べてください。秒まで」
小野寺さんが、表を作る。
指が速い。研究室で、私の二つ隣の机で、いつもこの速さだった。
上がって、上がって、上がる。
そのあと、三秒以内に、必ず、下がって、上がって、下がる。
二十一回のうち、二十一回。
一度も、外れていない。
「……対になってます。一つ鳴ると、別のどれかが、必ず返してる」
「同じ個体ですか」
「違います。声紋が違う。……呼ぶのが一匹で、返すのが、別の一匹」
小野寺さんの声が、少し速くなった。
私の喉も、同じだった。
◇
島のことを、思い出していた。
霧の深い朝、漁に出た舟が、港へ戻ってくる。
岸のお年寄りが、沖へ向かって、一艘ずつ、名前を呼ぶ。
舟から、声が返る。
おるぞ。ここに、おるぞ。
全部の舟が答えるまで、岸の人たちは、呼ぶのをやめなかった。
答えが一つ足りない朝は、港じゅうの人が、黙って沖を見ていた。
あの声も、私は録っていた。高さの形は、呼ぶ声が上がり続けて、答える声が、下がって上がって、下がった。
「呼ぶ形と、答える形です」
私は、ノートに、二行書いた。
上がって、上がって、上がる。――いるか。
下がって、上がって、下がる。――ここに、いる。
ヘッドホンの中で、ズズの体が、強く震えた。
「――そうだぞ。ばばが、よぶ。みんなが、こたえる。……さいごは、みんなで、いっしょに、こたえる」
ばばが呼んで、一匹ずつ答える。
全員が答え終わったら、最後に、全員で、同じ答えを、同時に。
竜の、十二の息。
声の、そろう所、もだは、退く。
そろう、というのは、これだった。
◇
小野寺さんが、表の一点を指さした。
「鳴瀬さん。一日目のこれ……崩落の、十分前からです」
「……床が鳴る前から、数えていた」
あの夜、第一層のスライムたちは、出口へ流れながら、ずっと互いを呼んでいた。
いるか。ここに、いる。
置いていかないように。
一匹ずつ、確かめながら、上へ。
ヘッドホンの中の震えが、小さくなった。
「――おれ、あのとき、こたえられなかった。……いしが、おちてきて、からだが、かけて」
「ズズ」
「――こたえられなかったから、いないと、おもわれた。……だから、おいてかれた」
十六日目に、ズズは言った。
置いていかれたのは、自分のせいだと。
あれは、半分だけ、本当だった。
ズズのせいではない。でも、ズズは、答えられなかった。
「答えられなかったのは、ズズのせいではありません。……声が出なかったら、誰でも、答えられません」
「――いまも、でない」
「今は、私が、聞こえます」
ズズは、しばらく、黙っていた。
それから、体の奥で、小さく、下がって、上がって、下がった。
ここに、いる。
◇
昼すぎ、小野寺さんが、自分の声で試した。
スライムの声の半分は、人の耳に聞こえない高さにある。
だから、高さの形だけを、人の喉に移す。
「……ん、あ、ん」
口を閉じて低く、開いて高く、閉じて低く。
竜の言葉は、ひと息の中で高さが滑る。その名残を、いちばん素直に出せる形だった。
私も、続けた。
ん、あ、ん。
「――にてる。……へたくそだけど」
「ズズさん、厳しいです」
「――ほんとの、ことだぞ」
小野寺さんが、笑った。
夕方までに、辞書は、二百七十語になった。
最後の二語は、「いるか」と「ここに、いる」だった。
◇
夜、四日ぶりに、配信をつけた。
ちゃぶ台の上に、洗面器。
接触マイクの線を、配信の音声に、細くつないである。
画面の隅の数字が、つけた瞬間から、跳ね上がった。
"ズズは!?"
"ニュースで声が出ないって"
"生きてる? 生きてるよね?"
「こんばんは。鳴瀬です。……ズズは、ここにいます」
ラップ越しに、マイクを当てる。
ズズの体の震えが、低い、くぐもった音になって、配信に乗った。
ぷ、ちゅ、ぷちゅ。
水の底で鳴らしているような、私の名前。
"聞こえた"
"泣いた"
"スライム愛好会会長です。今日は会を休んで泣きます"
「空気には、出ません。でも、体は、まだ話しています。……今日は、それで分かったことを、一つだけ話します」
一日目の四十七回。
呼ぶ形と、答える形。
画面に、二つの並びを出して、島の舟の話をした。
霧の朝の、名前の呼び合い。
"点呼か"
"元自衛官です。点呼は、一人も欠けていないことを確かめるためにやります。返事が無い者がいたら、全員で探します"
"スライムも点呼してたのか……"
"一日目のアーカイブ、何回も見た。あれ、点呼だったのかよ"
「答える形を、人の喉で言うと、こうなります。……ん、あ、ん」
隣で、小野寺さんが、同じように言った。
コメント欄が、同じ三文字で埋まった。
"ん、あ、ん"
"んあん"
"ん、あ、ん(低い声で)"
ヘッドホンの中で、ズズの体が、くすぐったそうに震えた。
「――みんな、へたくそだぞ」
「……ズズの感想は、今日は、訳さないでおきます」
「――やくせ!? ほんとのことだぞ!?」
訳さなかったところは、コメント欄には、届かない。
小野寺さんだけが、横で、肩を震わせていた。
でも、一つだけ、どこにも書いていないことがあった。
竜は、底で一度だけ、押し返したと言った。
底にいたのは、全部の魔物だった。
何人で答えれば、もだは退くのか。
その数は、どの歌にも、入っていなかった。




