第41話 語り部の歌
七十四日目の朝。
ズズは、洗面器の中で、泡をふくらませていた。
はじけても、音はしない。
探知機の画面も、平らなままだ。二日間、ずっと、そうだった。
それでも、ズズは、やめなかった。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。私の名前の形を、何度も。
配信は、二日、休んでいる。
コメント欄には、ズズの名前が並んでいるはずだった。開けなかった。
七時に、霧島さんから電話が来た。
毎朝、同じ時刻に、同じ短さで来る。
「第七層の詰所は、今日の夕方に引き上げる。線は、階段を上りきった。明日には、第七層が黙る」
「長老は」
「蜘蛛が、第六層の天井へ運んだ。ガラの群れも、一緒だ。……子スライムも、群れに戻った」
それだけ言って、霧島さんは、少し黙った。
「鳴瀬さん。ズズは」
「……泡は、作っています。音は、まだです」
「そうか」
電話は、それで切れた。
三日で、一層。
第一層まで、あと十九日。
ちゃぶ台に頬をつけて、洗面器を見ていた。
水面に、小さな輪が立っている。
ズズの体は、二日前より、少しだけ白っぽい。
それでも、水の中で、ゆっくり、ふくらんだり、しぼんだりしている。
ズズが泡を作るたびに、輪が、三つ。
一つ目は小さく、二つ目はもっと小さく、三つ目が、少しだけ大きい。
私は、体を起こした。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
水の輪が、名前の形をしていた。
声は、空気に出ていない。
でも、ズズの体は、まだ、震えている。
第八層の、長老の糸を思い出した。
蜘蛛の言葉は、空気を通らない。糸を伝う震えだった。
押し入れから、鞄を引っぱり出す。
接触マイク。島で、太鼓の皮の響きを録った道具。
マイクを、食品用のラップで包んだ。
ヘッドホンをつけて、洗面器の縁に、そっと手を入れる。
「ズズ。……少しだけ、触ります」
ズズの返事は、無い。
ラップ越しに、マイクを、ズズの背中に当てた。
ヘッドホンの中で、低い音が鳴った。
水の中で、誰かが、喉を鳴らしているような音だった。
ぷ、ちゅ、ぷちゅ。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
「……はい。ここに、います」
ヘッドホンの中の音が、跳ねた。
ズズの体が、洗面器の中で、ぐるりと回った。
「――きこえるのか!? ことは、おれの、きこえるのか!?」
初めて話した夜に、ズズが言った言葉と、同じだった。
おまえ、きこえるのか。
「聞こえます。……ちゃんと、聞こえます」
声が、うまく出なかった。
ズズは、何度も何度も、名前の形を鳴らした。そのたびに、私は、はい、と答えた。
◇
昼、管理棟の三階の、調査課に行った。
ズズの容器の蓋に、接触マイクを貼りつけてある。
ヘッドホンを、片耳だけ。もう片方の耳は、部屋の声を聞くために空けておく。
ハヤテさんが、窓際の椅子から、立ち上がった。
二日前より、頬が、こけていた。
「先生……ズズ、どうっすか」
「話せます。……体の震えなら、聞こえます」
ハヤテさんの口が、開いたまま、止まった。
ヘッドホンの中で、ズズが、短く鳴った。
「――でかいの。なんで、ないてるんだ」
「……泣いてないっす」
「――ないてるぞ。かお、ぬれてる」
「……汗っす」
ハヤテさんが、袖で顔をこすった。
それから、容器を、両手で、そっと持ち上げた。
「……ズズ。俺、盾なのに」
「――しってる。でかいのは、たて、だ。だから、おれが、いった」
訳しながら、喉の奥が、熱くなった。
霧島さんは、机の向こうで、黙って、それを聞いていた。
ハヤテさんは、容器を机に戻して、椅子に座りなおした。
膝の上で、両手を、ぎゅっと握っている。
「先生。俺、昨日、一日じゅう考えてたっす。盾の持ち方とか、走る順番とか。……でも、どれも、間に合わなかったっす」
「――でかいの。おれ、にげなかった。だから、こは、にげなかった」
「……え」
「――でかいのが、てを、だしたから、こは、にげた。おれが、だしたから、にげなかった。……それだけ、だぞ」
訳して、少し、間を置いた。
ズズは、慰めているつもりなのだと思う。言い方は、いつもの、ため口のままだったけれど。
「……ズズ、それ、慰めてるっすか。けなしてるっすか」
「――どっちも、だぞ」
ハヤテさんが、笑った。泣き笑いの顔だった。
霧島さんが、初めて、口を開いた。
「体の震えが聞こえるなら、ズズは、まだ、声のもとを持っている。……鳴瀬さん、そう考えていいか」
「分かりません。……でも、空気に出ないだけで、言葉は、まだ、ここにあります」
霧島さんは、短く、うなずいた。
◇
「――ことは。うた、うたえる」
ズズが、そう言ったのは、三時を過ぎたころだった。
「――ばばの、うた。おわりまで。……からだが、おぼえてた」
「ズズは、途中で寝ていたのでは」
「――ねてた。ねてるこに、うたうんだ。おわりは」
スライムは、眠るとき、群れで重なる。
ばばは、眠った子どもたちに、体を寄せて、歌の終わりを歌った。耳ではなく、体に。
声を失って、耳で聞けなくなって。
ようやく、ズズは、体の奥に残っていたものに、気がついた。
竜は、言った。
歌は、どこかで、まだ鳴っている。
ここで、鳴っていた。
ズズが、歌い出した。
私は、ノートを開いて、震えを、一つずつ書き取った。
始まりは、知っている。底から、上へ。
何度も聞いた道のりの歌が、ゆっくり、上ってくる。
広い洞で、みんなで、歌った。
下から、静かなものが、上ってきた。
大きなものが、道を掘った。
群れは、道を上った。糸の下を、通った。
ズズの訳は、短い。
でも、私は、その一つ一つを、別の声で聞いたことがあった。竜の声で。長老の糸で。ガラの紐で。
ズズの群れは、十年かけて、この道を上ってきた。
歌は、その十年を、順番に数えていた。
光が、見えた。
上には、知らない声が、たくさんあった。
その先は、初めて聞く部分だった。
上がって、上がって、上がる。
下がって、上がって、下がる。
同じ二つの並びが、何度も、何度も、繰り返される。
二十回を超えたところで、ズズが、止まった。
「――ここから、みんなで、いっしょに、いう。……おれ、ひとりだと、できない」
ノートの上で、ペンが止まった。
この二つの並びを、私は知っている。
意味が分からないまま、ずっと、ノートの最初のページに置いてあった。
ノートPCを開いて、いちばん古いフォルダを探した。
三月三十一日。第一層。ファイルは、四十七。
声紋を、一つずつ並べる。
ズズの体の震えを書き取ったノートと、横に並べる。
霧島さんが、後ろから、画面をのぞきこんだ。
ハヤテさんも、椅子ごと寄ってきた。
「……同じっすか」
「同じです。……高さの形が、全部」
あの夜、スライムたちは、出口へ向かって流れながら、ずっと鳴いていた。
私は、それを、ただの鳴き声の癖だと思っていた。
一日目の夜、第一層の見学路で、四十七回録った並びだった。




