第40話 ズズの声
七十二日目の午後、一時半。
私たちは、第七層の、下りの階段の上にいた。
階段の途中で、苔の明かりが、途切れている。
そこから先が、第八層。今朝、黙った層だ。
長老は、天井の糸に、ぐったりとぶら下がっていた。
白く褪せた背の毛が、ところどころ、抜けている。それでも、脚で、糸を一本だけ弾いた。
「――下のスライムの子が、一匹。上る群れから、はぐれた。……わしの糸が黙ったとき、まだ、下におった」
ズズが訳す長老の声は、いつもより、ずっとゆっくりだった。
「――糸が黙っておるゆえ、わしには、もう、見えぬ」
◇
霧島さんが、ライトで、階段の下を照らした。
線の、すぐ内側。
黙った側の、三段目に、親指ほどの、小さな水色が、ぽつんと乗っていた。
動いていない。
でも、ときどき、体の表面が、かすかに震える。
「……まだ、いる」
私の声も、震えていた。
人は、もだに喰われない。
だから、人が下りて、拾ってくればいい。
「俺、行くっす」
ハヤテさんが、盾を置いて、階段を下りた。
線を越える。ハヤテさんの足音が、ふっと消えた。
ハヤテさんが、手を伸ばした。
子スライムが、跳ねた。
ハヤテさんの指の間を、つるりと抜けて、もう一段、下へ転がる。
スライムは、人を見れば逃げる。
一日目の夜から、ずっと、そうだった。
黙った中では、私の声も、ズズの泡も、届かない。
あの子には、大きな人間の手が、ただ、迫ってくるようにしか見えないのだ。
ハヤテさんが、もう一度、手を伸ばす。
子スライムは、また、一段、下へ逃げた。
逃げるほど、静けさの、奥へ。
「……ことは」
ズズが、容器の中で、言った。
「おれが、いく」
「だめです」
「おれなら、にげない。……おれ、スライムだぞ」
私が、蓋を押さえるより先に。
ズズは、蓋の隙間から、ぬるりと抜け出して、階段を、跳ねていった。
◇
線を越えた瞬間、ズズの泡が、消えた。
ズズは、止まらなかった。
ハヤテさんの足の横をすり抜けて、五段、六段、静けさの奥へ。
子スライムの前で、ズズが、体を広げた。
泡を鳴らしているのが、見えた。音は、無い。それでも、ズズは、鳴らし続けた。
子スライムが、逃げなかった。
ズズが、その小さな体を、自分の体で包んだ。
それから、階段を、上へ、押しはじめた。
一段。二段。
ズズの体が、ふだんより、白っぽく見えた。
十秒。二十秒。
五十五日目、ズズは、十秒で戻ってきた。今は、もう、その倍を過ぎている。
ハヤテさんが、膝をついて、両手で、二匹ごと掬い上げた。
駆け上がって、線を越える。
子スライムが、ハヤテさんの手のひらの上で、ぷちゅ、と鳴った。
泡の音が、ちゃんと、聞こえた。
ズズは、鳴らなかった。
◇
私は、ズズを、両手で受け取った。
冷たかった。
いつもの、ひんやりとは、違う冷たさだった。
「ズズ」
ズズの体の表面に、泡が、ふくらんだ。
ぷちゅ、と、はじける。
音が、しなかった。
コウモリ探知機を、つけた。
針は、少しも、動かなかった。高い音も、出ていない。
ズズは、もう一度、泡をふくらませた。
もう一度。もう一度。
形は、分かった。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
私の、名前の形。
でも、それは、どこにも、聞こえなかった。
一分。十分。
五十五日目のように、戻ってくることは、なかった。
話す相手のいない言葉は、黙っている。
島のおばあさんは、そう言った。
今、ズズには、話す相手がいる。ここに、いる。
なのに、ズズの言葉は、黙っている。
ハヤテさんの手のひらで、子スライムが、ズズの方へ、ころりと転がってきた。
ズズの体の端に、ぴたりとくっついて、離れなかった。
ハヤテさんが、階段に座りこんで、顔を両手で覆った。
霧島さんは、黙って、ライトを消した。
長老が、天井の糸で、ゆっくりと、低い弾きを鳴らした。
ズズが訳さないので、私には、半分しか分からなかった。
声を、なくした者を、悼む形だった。
子スライムは、ガラの若いゴブリンが、第七層に逃れた下のスライムの群れへ、そっと連れていった。
最後まで、ズズの方を、振り返っていた。
◇
夜の九時。
府中の部屋の、テレビがついていた。
対策本部は、七十三日目の審議を、今夜に繰り上げた。
協会の振動計の記録が、出たからだ。第十層の振動計は、黙る直前の一分まで、地上へ記録を送り続けていた。七時ちょうどの発破と、その直後の、もだの跳ね。小野寺さんのグラフも、映っていた。
アマツ資源の深層掘削の許可は、取り消された。
十時すぎ、天城さんが、会見を開いた。
紺のスーツ。細い銀縁の眼鏡。笑顔は、無かった。
『本日付で、開発部長を辞任いたします。……届け出の無い発破があったことは、事実です』
天城さんは、最後まで、一度も「はい」と言わなかった。
コメント欄も、ニュースも、ざまぁ、という言葉で埋まっていた。
私は、テレビを消した。
スマホには、いくつも、短い文が届いていた。
「先生。俺、盾なのに、間に合わなかったっす」
「第三層、魔物も人も、全部通した。……犬飼から聞いた。ズズ、どうなった」
『声紋、記録として残しておきます。戻ったとき、比べられるように』
ハヤテさんと、獅堂さんと、小野寺さん。
どれにも、すぐには、返事が書けなかった。
洗面器の中で、ズズが、泡をふくらませていた。
はじけても、音はしない。
それでも、ズズは、ふくらませ続けていた。高さの形だけを、何度も。
十一時、霧島さんから電話が来た。
「ガラの使いが、第七層の詰所に来た。……十八本目が、閉じた。結び目は、十三」
霧島さんは、少し間を置いた。
「ガラの言葉を、そのまま言う。『市場の声は、散った。……もう、止めるものがねえ』」
市場が開いて、声が集まって、もだは、足踏みをしていた。
その声が、今朝、散った。
三日で、一層に戻るなら。
第八層から、第一層まで、七層。二十一日。
九十三日目に、第一層。
電話を切って、洗面器の前に座った。
ズズが、声のない泡で、私の名前の形を、もう一度、作った。
もだは、止まらない。
↓第4章の番外編「十八本目」(ガラ視点。竜の道を開けたゴブリンの十三日)
https://note.com/wise_turtle184/n/nf20d070aa25e?app_launch=false




