第39話 獅堂の鉄柵
七十二日目、朝の六時四十分。
第十一層の市場は、半分、空になっていた。
ガラは、群れを上へ寄せはじめていた。
昨日の夜のうちに、年寄りと子どもを、第十層へ。残っているのは、若いゴブリンと、下から来たばかりの者たちだ。
「……来たか。耳のでけえ女」
「七時に、三百歩先で、石の音が鳴ります。今までで、いちばん大きいのが」
ズズが泡にするより先に、ガラは、首の紐の束を握った。
「知ってる。てめえの顔に、書いてある」
十八本目の紐。結び目は、十三。
まだ、閉じていない。
ガラは、四本の指を立てて、市場ぜんたいに向かって、喉を鳴らした。
上へ。今の私には、訳さなくても、分かった。
◇
七時ちょうどに、東から、音が来た。
ずうん、では、なかった。
もっと近く、もっと重く、床と天井が、いっぺんに鳴った。
光る苔の粉が、天井から、雪のように降ってくる。
ハヤテさんが、盾を頭の上にかざした。
揺れが、収まった。
そして、市場の下へ続く階段の口で、苔の明かりが、消えた。
消えた暗さが、階段を、上ってくる。
五十五日目に第十四層で見た、あの線。あのときは、止まっていた。
今は、歩くより、速かった。
「走れ」
霧島さんの声と、ガラの喉の音が、同時に鳴った。
ハヤテさんが、ズズの容器を胸に抱えた。
私を一度だけ見た。私は、うなずいた。
「先に、行ってください」
「……っ、すぐ上で、待ってるっす!!」
ハヤテさんは、一度も振り返らずに、階段を駆け上がっていった。
◇
第九層の途中で、静けさが、私に追いついた。
最初に消えたのは、自分の足音だった。
次に、息の音。最後に、耳の奥で鳴っている、自分の血の音。
横を、ゴブリンが走っていく。
口が、大きく開いている。叫んでいる。なのに、何も、聞こえない。
大ネズミの群れ。下のスライム。苔の大トカゲ。
何百もの魔物が、音のない階段を、上へ、上へ、流れていく。
体は、どこも痛くなかった。
人は、もだに喰われない。竜が言ったとおりだ。
ただ、自分が叫んでも、自分の声が、聞こえない。
島のおばあさんが亡くなった日の座敷よりも、ずっと、深い静けさ。
霧島さんが、私の腕をつかんで、上を指さした。
唇が、動いている。読めた。走れ。
第八層は、糸に覆われていた。
何百本もの糸が、どれも、鳴っていない。長老の巣が、黙っている。
蜘蛛は、一匹もいなかった。
みんな、もう、上へ逃げたのだ。そう、思うことにした。
第七層への階段を、半分ほど上ったときだった。
はっ、と、自分の息の音が、戻ってきた。
「――先生!!」
ハヤテさんの声だった。
階段の上で、盾を床に突いて、待っていた。
胸に抱えた容器の中で、ズズが、ぷちゅ、と鳴った。
「ことは!! ことは、こえ、ある!?」
「……あります」
自分の声が、こんなに、うれしかったことはない。
振り返ると、上ってきた階段の途中で、苔の明かりが、途切れていた。
線は、そこで、止まっていた。
第七層の天井には、白く褪せた毛の大蜘蛛が、糸にぶら下がっていた。
長老だった。ほかの蜘蛛たちが、その体を、何十本もの糸で、吊り上げてきたのだ。
少し遅れて、ガラが、群れの最後から、階段を上ってきた。
首の紐の束を、片手で、胸に押しつけるように握っていた。
◇
第三層の大広間に着いたのは、十時すぎだった。
大広間は、ぎっしりだった。
第四層から下で避難の放送を聞いた探索者たちと、第八層から下を逃げてきた魔物たちが、同じ部屋で、ぶつかっていた。
第二層への道は、細い通路が一本だけ。
そこに、人と魔物が、両方から押し寄せている。
「押すな! 押すなって!」
「なんで魔物がこっちに来るんだよ!」
誰かが、剣の柄に手をかけた。
ゴブリンが、低く喉を鳴らした。
九日目と、同じだった。
出口が、塞がりかけている。
そのとき、大広間の壁際で、鉄のこすれる音がした。
旧坑道の、鉄柵の扉。
新しい蝶番が、軋みもせずに回る。掛け金を外して、扉を、いっぱいに開けた人がいた。
獅堂さんだった。
「人間は、こっちだ! 旧坑道、第二層の東に抜けてる! 広いし、いまは魔物いねえから!」
獅堂さんは、扉の横に立って、腕を大きく振った。
配信で何万人に呼びかけていた、あの声で。
「はい、焦らない焦らない! 装備重いやつは後ろ! 怪我人、先!」
探索者たちが、一人、二人と、旧坑道へ流れはじめた。
獅堂さんが、こちらを見た。
人の頭の上から、まっすぐ、私に向かって叫んだ。
「鳴瀬さん!! 魔物の方、頼む! 真ん中の通路、あっちに流して!」
スライムのお姉さん、では、なかった。
初めて、名前で呼ばれた。
私は、ズズの容器を、高く掲げた。
「ズズ。『みち』を。……真ん中へ」
ズズが、泡を鳴らした。
上がって、下がって、上がる。みち、こっち、とおれ。
天井の糸で、長老の蜘蛛たちが、同じ並びを弾いた。
ガラの若いゴブリンたちが、喉で、同じ並びを繰り返した。
魔物の流れが、ゆっくりと、真ん中の通路へ向きを変えた。
人は、左の旧坑道へ。魔物は、真ん中の通路へ。
二つの流れは、もう、ぶつからなかった。
◇
最後の探索者が旧坑道に消えたのは、十一時半だった。
獅堂さんは、扉の横で、壁にもたれて座りこんでいた。
金色の髪が、汗で額に張りついている。
「……獅堂さん。ありがとうございました」
獅堂さんは、私を見ずに、そっぽを向いた。
「……別に、柵直しただけだし」
ハヤテさんが、その横に、どさりと座った。
何も言わずに、水のボトルを一本、獅堂さんの膝に置いた。
獅堂さんは、それを、黙って受け取った。
私は、大広間の壁に張られた糸に、接触マイクを当てた。
第七層から、長老の糸が、ここまで続いているはずだった。
糸が、細かく震えていた。
ズズが、それを聞いて、体を硬くした。
「……こが、いっぴき、たりない、って。……したの、すらいむの、こ」
ズズの泡が、低く沈んだ。
「せんの、むこうに、いる。……こえが、きこえない、って」




