第38話 声は、魔素を生む
七十一日目の朝、ちゃぶ台の上は、紙だらけだった。
十二の息の歌を、一息ずつ、別の紙に書き出してある。
声紋を刷ったもの。ズズの泡の高さを書き取ったもの。竜の芯の語の表。
窓の外が白くなるころ、小野寺さんが、始発で来てくれた。
玄関で靴を脱ぐなり、トートバッグから、刷り出した声紋の束を出した。
「切れ目、昨日の三つから、九つまで増えました。……十二の息で、たぶん、十五語です」
「十五語のうち、分かるのは」
「芯の語が、四つ。声、もだ、下、道。……あとは、鳴瀬さんの『そろう』に似た並びが、二回出てきます」
ズズが、洗面器の縁で、ぷちゅ、と鳴った。
「……ことは、ねてないのか」
「寝ないと、言いましたから」
一晩、同じ十二の息を、何百回も聞いた。
聞くたびに、竜の喉の奥の、あの琥珀色の目を思い出した。解け、汝は言の葉の子なれば。
解けなかったら、あの竜に、合わせる顔がない。
◇
分からない語を、分かる語で挟んで、読む。
島の言葉を、最初に記録したときと同じやり方だ。
四つ目の息。
声、それから「そろう」に似た並び、それから、場所を表すらしい短い下がり。
五つ目の息。
もだ。それから、ズズに聞くと「さがる」とも「にげる」ともとれる、と言った並び。
「……もだが、逃げる?」
小野寺さんが、声紋の上で、ペンを止めた。
もだは、いつも、逃げられる側ではなかった。
逃げる者を、追う側だった。
私は、ノートを、前へめくった。
五十三日目。市場が開いてから、もだが遅くなった。
理由は分からない、と書いてある。その横に、ズズの言葉。こえが、いっぱい、だったから、あったかい。
六十二日目。竜の道の、黙った百歩。
竜が鳴いている間、静けさが、退いた。
六十三日目。竜の言葉。
この道だけは、我が息のある間、黙らぬ。
昨日の朝、ズズの言葉。
ばばが、うたうと、あったかかった。
◇
ばらばらに書き留めてきた言葉が、ページの上で、一本の線になった。
「小野寺さん。……二十二日目に、長老が言ったことを、覚えていますか」
「もだは、声を消す。声と一緒に、いきのもと……魔素も、消える」
「はい。声と魔素は、一緒に、消えます」
私は、六十二日目の録音を開いた。
黙った百歩に、竜の声が上ってきた、あの瞬間。
録音機の波形と一緒に、白銀の若い人のカメラが、霧島さんの胸の魔素計を映していた。
竜の声が届いた瞬間、針は、ゼロから跳ね上がっている。
「声が消えると、魔素が消える。……なら、逆も、あるのかもしれません」
「声が、魔素を、生む……?」
小野寺さんの声が、かすれた。
市場が開いて、声が集まった。
もだは、第十三層で、足踏みを始めた。
竜の道は、竜の息で、鳴り続けていた。
だから、黙った層の中で、あの道だけが、黙らなかった。
逆に、地を砕く音は、声ではない。声を散らす。
散らされたところから、もだは、喰らう。
「ズズの『あったかい』は、たとえでは、なかったんです」
自分でも、早口になっているのが分かった。
文法の切れ目を見つけたときと、同じ速さだった。
「ズズの体は、魔素でできています。声が集まると、そこの魔素が増える。ズズは、それを、あったかい、と感じた。市場が開いた日も、竜の声が鳴った日も、おばあさんが歌った日も。……全部、同じことを、言っていたんです」
ズズが、洗面器の縁から、ずるりと半分だけ顔を出した。
「……おれ、ずっと、ほんとのこと、いってたのか」
「はい。ずっと」
◇
もう一度、四つ目の息を聞いた。
声、そろう、ところ。
五つ目の息。もだ、退く。
訳語は、竜の言葉だから、古い日本語にする。
私は、声に出して、読んだ。
「――声の、そろう所、もだは、退く」
小野寺さんが、私の顔を見た。
ズズが、洗面器の中で、ぴたりと止まった。
六つ目から九つ目の息は、もっと難しかった。
ズズが知っている語が、ほとんど無い。小野寺さんと二人で、高さの並びを、一つずつ、芯の語と比べた。
昼をすぎて、ようやく、読めた。
「――昔、底にて、一たび、歌いて、押し返せり」
一度だけ。
底で、誰かが歌って、もだを押し返したことがある。
十から十二の息は、短かった。
歌。持つ。者。
「――その歌は、歌を持つ者が、持つ」
歌を持つ者。
十六日目に、長老がズズを呼んだ言葉。スライムの群れの、歌を持つ者の、子。
ズズの、おばあさん。
歌を、始めから終わりまで竜の傍らで歌って、終わりを持ったまま、上へ行った語り部。
「……ばばの、うたが、そうなのか」
ズズの泡が、震えていた。
「おれ、おわり、しらないぞ。……ねてたんだぞ」
私は、洗面器の前にしゃがんだ。
終わりが、どこにあるのかは、まだ分からない。でも、何を探せばいいのかは、もう分かっていた。
「歌の終わりを、探します。……ズズと、一緒に」
◇
夕方、霧島さんに、電話で全部を話した。
霧島さんは、途中で、一度も口を挟まなかった。
最後まで聞いてから、短く言った。
「……運ぶ。本部にも、対策本部にも、今夜のうちに」
それから、少し、間があった。
「差し止めは、退けられた。……発破は、明日の朝、七時だ」
受話器の向こうで、霧島さんが、息を吸うのが聞こえた。
「第十層の中継所は、今夜、空にする。……鳴瀬さんは、どうする」
「明日の朝、市場へ行きます。ガラさんに、知らせます。……群れを、上へ寄せてもらいます」
霧島さんは、止めなかった。
「二時に、管理棟だ。犬飼にも、伝える」
電話を切った。
窓の外は、もう、暗かった。
ズズが、洗面器の縁に張りついて、私を見上げていた。
声のそろう所、もだは、退く。
散らす音の鳴る所、もだは、喰らう。
明日の朝、七時。
三百歩先で、アマツは、発破をかける。




