第37話 頼む
七十日目の朝、辞書を更新した。
二百六十語。
竜の言葉が、九つから、十二に増えた。あの十二の息の歌から、三つだけ、語の切れ目が分かったからだ。
夜中まで、小野寺さんと、通話をつないだまま、声紋を見ていた。
竜のひと息は長い。その中で高さが滑らかに動くから、どこで一語が終わるのか、目では分からない。
手がかりは、ズズの泡だった。
ズズが「みち」と三つの泡に割るところで、竜の息も、ほんの少しだけ、弱まる。そこが、語の切れ目だ。
切れ目が分かっても、意味は、まだ分からない。
声。もだ。それから、新しく、「そろう」に似た高さの並びが一つ。似ている、というだけだ。
「……ことは。また、それ、きいてるのか」
洗面器の縁から、ズズが言った。
私は、ヘッドホンを片耳だけ外した。
「はい。ズズのおばあさんの歌の、初めのほうです」
「おれ、そこ、ねてないぞ。……でも、ことばが、ふるすぎて、わかんないぞ」
ズズは、しばらく黙って、それから、小さく付け足した。
「……ばばが、うたうと、あったかかった。それだけ、おぼえてる」
あったかい。
市場が開いた日にも、ズズは、同じ言葉を使った。
私は、ノートの隅に、その言葉を書き足した。
まだ、線にはならない。点が、一つ増えただけだ。
◇
昼前、管理棟の前の広場に、トラックが三台並んだ。
アマツ資源の作業員たち。
縦坑の最後の区間を掘るための機械を、第十層まで下ろすのだという。
協会は、止められなかった。
支部長が出した差し止めの申し立ては、裁判所の机の上にある。対策本部の審議は、七十三日目。発破の、次の日だ。
テレビの中で、天城さんが言った。
『許可は、有効です。法令に基づいて、粛々と進めます、はい』
第十層の中継所から、霧島さんに伝言が来た。
ガラの使いが、いつもより早口だったという。
「『三百歩先で、石の音が鳴るなら、オレ様は、群れを上へ寄せる。……数は、もう、ほどけかけてる』」
十八本目の紐は、結び目が十一。
閉じてはいない。でも、ガラの声は、もう、数える声ではなかった。
夕方、ハヤテさんから、写真が届いた。
第三層の大広間。
旧坑道の鉄柵が、まっすぐに立っている。新しい蝶番に、鍵の無い掛け金。
「獅堂のやつ、五日かけて直したっす。今日から第三層で、通る魔物の道案内やるって」
「……案内、ちょっと上手いのが腹立つっす」
夜の七時、短い配信をした。
解読の途中経過だけを、正直に話した。
"アマツ止まらないの?"
"審議が発破の次の日って、わざとだろ"
"名無しの音声学徒: 声紋の切れ目、こちらでも三つ確認しました"
"元自衛官です。対策本部の発表、審議の日程しか出ていません"
「分かったことしか、言いません。……分かったら、すぐに言います」
画面の隅の同接は、ずっと、百万を切らなかった。
◇
夜の九時、霧島さんに、調査課へ呼ばれた。
部屋には、霧島さんしかいなかった。
机の上に、小さな、傷だらけのメモリーカードが一枚。
「六年前、第十九層で、仲間を一人なくした。……槙という男だ」
霧島さんは、カードを、ノートPCに差した。
四人のパーティーだった。霧島さんが、前に立っていた。
槙さんは、二十八歳。いちばん若くて、いちばん、足が速かったという。
「槙のヘルメットに付いていたカメラだ。……鳴き声が、ずっと入っている。私は、六年間、一度も、最後まで見ていない」
再生が始まった。
暗い通路。四人分のライト。
揺れるライトの輪の中で、岩の壁が、濡れて光っている。
カメラを付けた人の荒い息が、ずっと、すぐ近くで聞こえていた。
壁の上の方に、灰色のトカゲの魔物が、何匹も張りついている。
鳴いていた。
喉を絞るような、短い、高い声を、何度も、何度も。
画面の中で、若い霧島さんが、剣を構えた。
『威嚇だ。数が多い。槙、右から回れ』
『了解』
画面が、右の細い通路へ向いた。
トカゲたちの声が、急に、大きくなった。
私は、ヘッドホンに耳を押しつけた。
ズズが、保存容器の中で、体を硬くした。
下、下、上。
下、下、上。
危ない方から出ろ、という警告の並び。
一日目の夜、崩落の中で、スライムたちが鳴き交わしていた形だ。
「……ズズ。分かりますか」
「……したの、やつらの、ことば。ちょっと、にてる」
ズズの泡が、震えていた。
「そっち、だめ。……くずれる。そっち、だめ、くずれる。……ずっと、いってる」
画面が、大きく揺れた。
天井から、石が落ちる音。
ライトが、ぐるりと回って、止まった。
トカゲたちは、まだ、鳴いていた。
崩れた石の向こうへ向かって、警告の並びを、何度も。
霧島さんが、再生を止めた。
画面の端に、時刻の数字が、白く残っていた。
霧島さんは、その数字を、六年間、何度も見てきたのだろう。最後まで再生せずに。
◇
部屋が、静かだった。
霧島さんは、黒くなった画面を見ていた。
それから、私の方を向いた。
「あの日、魔物は、私たちを止めようとしていた」
「……はい」
「私は、聞かなかった。あの日も、去年も。……鳴き声は鳴き声で、故障は故障だった」
霧島さんは、椅子から立ち上がった。
机の横に、まっすぐ立つ。
そして、深く、頭を下げた。
白髪の混じった頭のてっぺんが、ライトの下に見えた。
「頼む」
低い声だった。
「竜の歌を、解いてくれ。……止める言葉があるなら、私が、どこへでも運ぶ。今度は、聞き逃したくない」
四十五歳の、元上級探索者の、調査課の係長。
六日目に、私の耳を試した人。ずっと、短く言い切るだけだった人。
その人が、頭を下げている。
部屋の空調が、低く鳴っていた。
廊下の向こうで、誰かが扉を閉める音がした。それ以外、何も聞こえなかった。
「……顔を、上げてください」
霧島さんは、上げなかった。
「解きます。……今夜から、寝ないで、解きます」
それで、ようやく、霧島さんは顔を上げた。
目の縁が、少しだけ、赤かった。
帰りの自転車で、ヘッドホンを耳に戻した。
十二の息の歌が、夜の府中の道に、低く流れる。
発破まで、あと二日。




