第4話 三つ数えたら、左です
「うおおおっ!! 第四層っ!! 来たっすよ、みんなー!!」
ノートPCのスピーカーが、割れた。
私は慌てて音量を下げる。洗面器の中で、ズズがぴょんと跳ねた。
「うるさいぞ! なんだこいつ!」
「犬飼ハヤテさんです。探索者で、配信をしている方です」
「うるさいぞ!」
二回言った。大事なことらしい。
次の日の夜、八時。
私は自分の配信を開いたまま、隣の窓で犬飼さんの配信を流していた。いわゆる同時視聴だ。
昼のうちに、犬飼さんには一度だけメッセージを送っていた。
第四層は危ないかもしれません。スライムがそう言っています。
送ってから読み返して、自分でも怪しいと思った。返事は無かった。毎日何百通も届く人なのだろうし、私でも返さない。
だから、見ていることにした。
見ているだけで何ができるのかは、分からないまま。
画面の中の犬飼さんは、大きな盾を背負った、背の高い青年だった。
二十二歳。仲間は二人。剣を持った男の人と、弓を持った女の人。
同時接続は二千を少し超えている。私の配信の、倍以上だ。
『第四層は、俺らみたいな中堅には正直ギリっす! でも今日は行くっす! 初攻略っす!』
"ハヤテ声でかすぎ"
"でも嫌いじゃない"
"ズズちゃん耳ふさいでるように見える"
私の配信のコメント欄も、同じ画面を見ていた。
昨日の「四つめは、こわいとこ」を覚えている人が多い。
「ズズ。四つ目には、何がいるんですか」
「しらない。でも、うたで、四つめはこわいって」
「その歌は、誰が歌っていたんですか」
「むれの、おとな」
それ以上は、ズズにも分からないようだった。
犬飼さんたちは、湿った石の通路を進んでいく。
壁の光は第一層より暗く、天井から水が落ちる音がする。
画面の奥で、何かが鳴いた。
ギッ、ギ、ギィ。
スライムの泡の音とは違う、喉を鳴らすような低い声。
探知機を通さなくても、人の耳に聞こえる高さだ。
『今の何っすか? ゴブリンっすかね?』
犬飼さんは盾を構えて、笑っている。
ゴブリンは、第三層から下に出る、子どもくらいの背丈の魔物だ。群れで動き、武器を使う。
「ゴブリン、きらいだぞ」
ズズが、水の中で体を平たくした。
「おれたちのこと、けとばす。でかい声で、いばる」
「……知り合いなんですか」
「しらない。でも、うたで、そう言ってた」
"スライムにも好き嫌いあるの草"
"ゴブリンに蹴られるスライム、想像したらかわいそう"
私はノートPCの声紋を、犬飼さんの配信の音に切り替えた。
ギッ、ギ、ギィ。三つで一まとまり。高さは、上がって、下がって、上がる。
スライムの命令形と、同じ形だった。
「ズズ。今の声、分かりますか」
ズズは洗面器の縁にのって、画面のほうへ体を伸ばした。
「ちょっと、わかる」
「スライムの言葉ではないのに?」
「下のやつら、みんな、ちょっとにてる。ゴブリンのは、むずかしいけど」
次の声が、続けて鳴った。
ギ、ギッ。ギィ、ギ、ギ。ギャッ。
ズズが、泡を弾かせて訳す。
それを私が、もう一度日本語に訳す。
訳の訳は、伝言ゲームと同じだ。
一つ間違えれば、意味はまるで変わる。論文なら、絶対に出せない手順だった。
けれど、いまは論文を書いているわけではない。
「まわれ。……みっつ、かぞえたら。ひだりから」
私は顔を上げた。
画面の中の犬飼さんたちは、まっすぐ前を見ている。その左の壁に、横穴が一つ、黒く口を開けていた。
「犬飼さんたち、囲まれています」
口に出してから、私はマイクに向き直った。
「ゴブリンの声です。三つ数えたら、左の横穴から来ます。犬飼さんに、伝えられる方はいませんか」
"え、マジ?"
"ハヤテのコメ欄に書いてくる"
"三つ数えたら左、了解"
"元自衛官です。今の、囲む前の合図っぽい鳴き方だと思う"
コメントが、滝のように流れた。
隣の窓の、犬飼さんの配信のコメント欄にも、同じ言葉が並び始める。
"左!!"
"三つ数えたら左から来るって鳴き声の文法の人が言ってる"
"ハヤテ左見ろ左"
『え、なんすか? 左?』
画面の中で、ギッ、と短い声がした。
一つ。
『みんな、なんか左って言ってるんすけど』
ギッ。
二つ。
犬飼さんが、首をかしげながら、盾を左へ向けた。
ギャッ。
三つ。
横穴から、影が三つ飛び出した。
錆びた短剣が、盾に当たって、甲高い音を立てる。
『うおおおおっ!? マジっすか!?』
犬飼さんの叫び声と一緒に、画面が大きく揺れた。
盾が、もう一本の短剣を弾く。後ろの二人が、すぐに剣と弓を構える。
盾を向けていなかったら、短剣は犬飼さんの脇腹に入っていた。
「……当たった」
私は、自分の手が震えているのに気づいた。
録音の中の音と、目の前の出来事が、初めてまっすぐにつながった。
島に通い始めて二年目の夏を思い出す。
覚えたての島の言葉で天気のことを聞いたら、おばあさんが、私の目を見て、島の言葉で答えてくれた。
録音の中の音が、生きた返事になった日。
あのときと同じ震えだった。
"うおおお"
"当たった!!"
"これ演出じゃ無理だろ"
"鳥肌立った"
◇
戦いは、すぐに終わった。
ゴブリンたちは犬飼さんの盾を二度叩いたあと、なぜか攻撃をやめて、通路の上のほうへ走っていった。
逃げるときの声も、ズズが訳した。
「下から、くる。にげろ」
私は息を止めた。
第一層のスライムが言っていたのと、同じ言葉だった。
ゴブリンも、上へ逃げている。
犬飼さんたちを囲んだのは、もしかすると、行く手を塞いでいたからなのかもしれない。
『ハヤテ』
画面の中で、弓の女の人が、静かに言った。
『今の、盾が左を向いてなかったら、普通に刺さってたよ』
『……っすね』
犬飼さんの声が、初めて小さくなった。
盾の表に、短剣の傷が二本、白く残っている。
『ちょ、ちょっと待ってくださいっす! 今の、誰っすか!? 左って最初に言ったの!』
犬飼さんが、カメラに顔を近づけた。
コメント欄に、私の配信の名前が何十と流れていく。
"鳴き声の文法"
"スライムと話す元学者の人"
"今同接800くらいでやってるよ"
犬飼さんは、しばらく自分のコメント欄を読んでいた。
それから、盾を地面に置いて、カメラのほうへ深く頭を下げた。
私の配信の同時接続が、跳ね上がった。
800。1,500。2,900。犬飼さんの配信から、人が流れ込んでくる。
顔を上げた犬飼さんは、今日いちばん大きな声で叫んだ。
『鳴き声の文法の人ーっ!! ありがとうございましたっす!! それと、先生って呼んでいいっすか!? 弟子にしてくださいっすー!!』
洗面器の中で、ズズが叫び返した。
「うるさいぞ!」




