第3話 おまえ、きこえるのか
「ぷちゅ、ちゅい、ぷ」
朝の六時に、洗面器が鳴った。
私は布団から這い出して、ヘッドホンをつける。
枕元に置いたままの探知機が、細い声を拾っている。上がって、上がって、下がる。昨日の夜、返事をしたときと同じ並び。
――それ、なに?
スライムは、洗面器の縁に体を半分のせて、私のほうへ伸びていた。
欠けていた端は、すっかり丸くなっている。
「……おはようございます」
言ってから、何をしているんだろう、と思った。
でも、返事は来た。
ちゅい、ちゅい、ぷ。
知らない並びだ。
私はノートを開き、時刻と並びを書き込む。今日から、このノートが辞書になる。
◇
やり方は、島でやっていたことと変わらない。
物を一つ見せて、音を出してもらう。
同じ物を、時間を空けてもう一度見せる。同じ音が返ってきたら、それが名前だ。
コップの水を見せると、ぷ、ちゅ、ぷ。
三回見せて、三回とも同じ並びだった。「水」。
水道から汲んだばかりの冷たい水を足すと、ぷ、ちゅ、ぷ、のあとに、高い音が一つ跳ねた。
ぬるい水のときには、低い音が一つ。
高い音は「いい」、低い音は「いや」に近いのかもしれない。
スライムの言葉は、驚くほど小さくて、規則正しかった。
一語は三音。並べ方は、主語が先で動詞があと。日本語と同じだ。
そして、敬語にあたる形が、どこにも無い。誰に向けても、同じ短い言い方をする。
夕方までに、私のノートには二十五の語が並んだ。
水。冷たい。いや。いい。上。下。来る。逃げる。おまえ。
そして、スライムが自分の体を震わせながら言う、ず、ず、ちゅ、という三音。
何度聞いても、自分のことを指すときにだけ出てくる。
名前なのか、「わたし」なのかは、まだ分からない。
「ズズ、と呼んでもいいですか」
ず、ず、ちゅ、とスライムが鳴いた。
高い音が、二つ跳ねた。
私は自分の胸に手を当てて、ゆっくり言った。
「私は、ことは。こ、と、は」
ズズの体が、私の声に合わせて三回震えた。
ぷ、ちゅ、ぷちゅ。三音で一語の、私の名前ができた。
どう訳すかは、私が決めるしかない。
敬語の形が無くて、一語が短くて、気に入らないことには低い音をはっきり返す。小さな子どもと話しているのに近い。
だから私は、この子の言葉を、子どものため口で訳すことにした。
自分のことは、おれ。私のことは、おまえ。
辞書の最初の頁に、そう書き込んだ、そのときだった。
ちゅい、ぷ、ちゅい。ぷちゅ、ちゅ、ちゅい。ぷ、ぷ、ちゅい。
三つの語が、続けて鳴った。
おまえ。聞こえる。――上がって、上がって、下がる。昨日の夜から何度も聞いた、問いかけの形。
「おまえ、きこえるのか」
声に出して訳した瞬間、ズズが洗面器から跳ねた。
ばしゃん、と水が畳に散る。
「きこえるのか! おまえ、おれのことば、きこえるのか!」
私の耳に届くのは、ぷちゅぷちゅと弾ける泡の音と、探知機の高い笛だけだ。
けれど頭の中で、その音は、もう言葉になっていた。
「……はい。少しだけ、ですけど」
「すこしでいいぞ! すごいぞ! おまえ、へんなやつだな!」
へんなの、と言われるのには慣れている。
でも、スライムに言われたのは初めてだった。
「あと、みず、ぬるいぞ!」
「……汲み直してきます」
水を替えて戻ると、ズズは洗面器を抜け出して、ちゃぶ台の上にいた。
体の下に、紙が一枚。
「はら、へったぞ」
ズズの体の中で、紙がゆっくり溶けていく。
見覚えのある書式だった。表紙に「ダンジョン生物の発声に関する記述言語学的研究(企画書)」。
昨日、久我先生が二枚目までしか読まなかった、あの企画書だ。
「……それ、おいしいですか」
「まずい。でも、くえる」
私は少し考えてから、残りの頁もズズの前に並べた。
どうせ、もう誰も読まない企画書だ。読まないなら、食べてもらったほうがいい。
つけっぱなしのテレビが、第一層の崩落のニュースを流していた。
原因は調査中。見学者は全員避難し、軽傷者が一人。協会は第一層の閉鎖を当面続ける、とアナウンサーが読み上げる。
スライムのことは、一言も出てこなかった。
◇
次の日の夜、私は二回目の配信を開いた。
多摩迷宮の第一層は、閉鎖されたままだ。見学者が入れる場所は、いまはどこにも無い。
探索者の人たちは、東口の専用階段から第二層へ下りている。
だから今日は、六畳の部屋から。
ちゃぶ台の上に洗面器を置き、探知機とマイクを並べる。
開始ボタンを押す。
同時接続、1。名無しの音声学徒さんだ。
"こんばんは。一昨日の、無事でよかったです"
その下で、数字がどんどん増えていく。
12。58。140。
"切り抜きから来ました"
"階段が落ちる前に避難させた人?"
"スライムの声で誘導とか、さすがに演出でしょ"
一昨日の配信の最後の場面が、誰かの手で短く切り抜かれて、回っていたらしい。
同時接続は、340で止まった。
「こんばんは。鳴瀬です。今日は、このスライムと話してみます。名前はズズです」
"話す??"
"ペットのスライム持ち込み配信か"
"洗面器なの草"
私はズズに、昨日覚えた語で聞く。
ぷ、ちゅ、ぷ、と「水」を鳴らすと、ズズは高い音を跳ねさせた。
「水が冷たくて、いい、と言っています」
"いや分かるわけない"
"でも鳴き声は確かに返事っぽいタイミング"
"声紋出してくれてるの助かる。同じ並びが三回返ってきてる"
「話せるのは、まだ二十五語くらいです。辞書を作っているところなので、間違いもあると思います」
"謙虚"
"スライム愛好会会長です。うちの子にも話しかけたい"
スライム愛好会、という会があることを、私は初めて知った。
聞きたいことは、一つだけ決めていた。
一昨日の夜、第一層のスライムたちは、なぜいっせいに逃げたのか。
私は、ゆっくりと三つの語を鳴らした。
おまえの群れ。逃げる。なぜ。
ズズの体が、きゅっと縮んだ。
水面に、細かな波が立つ。
ぷ、ちゅい、ぷ。ちゅい、ちゅい、ちゅ。
「……下から、来る」
ズズの言葉を、私はそのまま訳した。
「下から、来る。みんな、にげろって。だから、にげた」
「何が、来るんですか」
「わかんない。わかんないぞ。でも、みんな、こわいって」
コメント欄が、少しだけ静かになった。
"下から来る、ってなに"
"ダンジョンの下ってこと?"
"演出ならうまいけど、声紋の並びはさっきと違う形だな"
そのとき、コメントに一つのリンクが貼られた。
"関係あるか分からんけど、犬飼ハヤテが明日の夜、多摩の第四層で配信するって告知してる"
犬飼ハヤテ。
名前だけは聞いたことがある。多摩迷宮でよく配信している、中堅の探索者だ。
リンク先の告知には、大きな文字で「明日20時 第四層、初攻略!」と書いてあった。
画面をのぞきこんだズズが、ぶるっと震えた。
「四つめは、だめだぞ」
「ズズ?」
「おれの群れのうたで、そう言ってた。四つめは、こわいとこ。そこから、くるって」




