第2話 第一層、閉鎖します
床が、割れた。
見学路の先、売店から二十歩ほどの場所で、石の床に黒い筋が走る。
筋は見る間に太くなり、ばらばらと砕けた石が下へ落ちていく。
第二層まで抜けた穴だ、と気づいたのは、下から冷たい風が吹き上げてきたからだった。
「きゃあっ!」
「下がって、下がって!」
悲鳴が通路に跳ね返る。
天井の照明が、ちかちかと瞬いた。
入口の階段のほうへ、人がいっせいに走り出す。
家族連れ、修学旅行の制服、カメラを抱えた若い人たち。二十人はいる。
私も立ち上がって、録音機を手すりから外した。
ヘッドホンの中で、スライムたちの声が、まだ鳴っている。
ちゅい、ちゅ、ちゅい。
さっきと違う。
上がって、下がって、上がる、ではない。下がって、下がって、上がる。
声紋を見る。
この並びは、入口の階段のほうから集中して返ってくる。
階段の近くまで行ったスライムたちが、そろってこの声を上げながら、引き返してくる。
「……そっちじゃない」
階段の上で、ごとん、と重い音がした。
天井の石が一枚、段の真ん中に落ちる。先頭を走っていた男の人が、悲鳴を上げて足を止めた。
スライムは、階段を避けている。
さっきまで出口へ向かっていた群れが、いまは全部、右の側道へ流れ込んでいる。
理由は分からない。
でも、この声は、何かを避けろと言っている。
「すみません!」
声が裏返った。
大きな声を出すのは、得意ではない。島でも、大学でも、私はいつも聞く側だった。
だから、大きな声を持っている人を探した。
「おばちゃん! その拡声器、貸してください!」
「は、あんた何を」
「階段は危ないです。右の側道から出られます。スライムが、みんなそっちへ逃げてます!」
おばちゃんは一瞬だけ私の顔を見て、それから階段の上の落石を見た。
十年、ここで店をやってきた人の目だった。
「側道の鍵なら、あたしが持ってるよ」
おばちゃんはカウンターの下から鍵束を掴んで、拡声器のスイッチを入れた。
『はい、みんな、こっち! 階段はだめだよ! 右の側道から出るよ! ほら、押さない押さない!』
割れた声が、通路いっぱいに響いた。
走り出していた人たちが、振り返る。
おばちゃんが鉄柵の扉を開ける。
その足元を、スライムの群れが先に流れていく。水色のかたまりが、細い通路の奥へ、奥へ。
「スライムについていってください。たぶん、安全な道を知っています」
自分でも、変なことを言っていると思う。
けれど、制服の女の子が「スライムが先に行ってる!」と叫んで、みんながそれに続いた。
◇
側道は、大人が二人並ぶのがやっとの細い通路だった。
壁の光が弱く、スマホのライトを掲げても先が見えない。後ろで、小さな男の子が泣き出した。さっき、私の画面をのぞきこんだ子だ。
「だいじょうぶ。お姉ちゃん、スライムとしゃべれるんでしょ」
お母さんがそう言って、男の子の背中をさする。
しゃべれません、とは言えなかった。
百歩ほど進んだところで、通路が二つに分かれた。
左は上り坂。右は平らで、少し広い。誰もが右へ行きかける。
ヘッドホンの中で、声が変わった。
右の奥から、あの「下がって、下がって、上がる」が、何十も重なって返ってくる。左からは、何も聞こえない。
スライムは、さっき階段を避けたときも、この並びで鳴いていた。
危ないほうから、この声がする。
「左です。右は、たぶん、だめです」
おばちゃんの拡声器が、私の言葉をそのまま大きくした。
全員が左の坂を上りきったとき、背中のほうで、右の通路の天井がどさりと落ちる音がした。
坂の先は、管理棟の裏の非常口につながっていた。
最後の一人を外へ押し出してから、おばちゃんと私は振り返る。
ずん、と腹に響く音がした。
管理棟の表のほうから、職員の叫ぶ声が聞こえた。
入口の階段に、天井がまとめて落ちた、と。さっきまで人が走っていた場所だ。
「……あんた、あれ、分かってたのかい」
「分かっていたのは、スライムです。私は、聞いていただけです」
おばちゃんは長い息を吐いて、拡声器を脇に抱え直した。
「スライムの声なんて、十年聞いてて、一度も気にしたことなかったよ」
管理棟の前に、探索者協会の制服の人たちが走ってくる。
入口に黄色いテープが張られて、職員の一人が声を張り上げた。
「第一層、本日をもって閉鎖します! 中に残っている方はいませんか!」
見学客は全員、外にいた。
怪我をした人は、転んで膝をすりむいた子が一人だけだった。
職員の一人が、おばちゃんから話を聞いて、私のほうへ来た。
「側道へ誘導されたのは、あなたですか。どうして階段が落ちると」
「スライムが、そう言っていたので」
「……はい?」
職員は、困った顔でメモの手を止めた。
私も、それ以上うまく説明できなかった。名前と連絡先だけを書いて、その場を離れる。
スマホの配信は、まだ点いたままだった。
同時接続、31。
"無事でよかった……"
"スライムの声で避難誘導した人、初めて見た"
"これ切り抜いていい?"
"最後、階段が落ちる直前に右って言ったの、マジで鳥肌"
名無しの音声学徒さんのコメントも、まだそこにある。
"録音、残ってますか。いまの「下がって下がって上がる」、さっきの命令形と対になってるかもしれません"
対。
その一言で、頭の中の何かが、静かにはまった。
◇
帰ろうとして、鞄の中身を確かめたときに、それに気づいた。
録音機のケースの隙間に、水色のかたまりが挟まっていた。
最後に私の靴のそばで震えていた、あの一匹だ。体の端が少し欠けて、そこから水のようなものがにじんでいる。
落石のかけらが当たったのかもしれない。
スライムは、外では長く生きられないと聞いたことがある。けれど閉鎖されたダンジョンに戻す方法も、もう無かった。
「……ちょっとだけ、我慢してください」
私はケースをそっと閉めて、自転車のかごに乗せた。
府中のアパートの二階、六畳の部屋。
洗面器に水を張って、そのかたまりを沈める。スライムはしばらく底でじっとしていたが、やがて、欠けた端がゆっくりと丸くなっていった。
ほっとして、床に座りこむ。
任期が切れた日の夜に、私はスライムを拾ってしまった。
ノートPCを開き、今日の録音を再生する。
まずは、全部のスライムが鳴いていた、あの三音から。
上がって、下がって、上がる。
探知機を通したスピーカーから、細い笛のような音が流れた瞬間、洗面器の水面が揺れた。
ぷちゅ。
私はヘッドホンを耳に戻して、録音のボタンを押す。
もう一度、同じ三音を再生する。
ちゅい、ちゅ、ちゅい。
洗面器の中から、声が返ってきた。
上がって、上がって、下がる。今日、一度も録っていない並びだった。
島で、知らない言葉を話す私に、子どもたちがよく返した高さの形と、同じだ。
――それ、なに?
このスライムは、私の再生した声に、返事をしている。




