第1話 鳴き声の文法
「魔物の鳴き声は、言語ではありませんよ。鳴瀬君」
久我先生は、私の企画書を二枚目までめくって、机に戻した。
三月三十一日。私の任期の、最後の日だ。
私は鳴瀬ことは、二十八歳。
東都大学の言語学研究室で、三年間、任期付きの研究員をしてきた。専門は、話す人が数十人しか残っていない島の言葉を録音して、文法を書き残すこと。
そして明日から、肩書きが無くなる。
「十年前にダンジョンが現れてから、あれの声を研究した学者が一人でもいましたか」
「いないから、やる意味があると思っています」
「いないのはね、意味が無いからですよ」
先生は眼鏡を外して、レンズを拭く。
話を終わらせるときの癖だ。
「犬の吠え声に文法がありますか。あれと同じです。次の職を探すなら、もう少し身の程に合ったテーマを持っていきなさい」
身の程。
言い返す言葉は、いくつか浮かんだ。どれも、口に出せば任期の最後の日を気まずくするだけだった。
「……ありがとうございました」
頭を下げて、研究室の奥の自分の机に戻る。
段ボール二つ分の荷物。録音機。ヘッドホン。島の言葉の書き起こしが十四冊。
最後に、引き出しの奥から青い表紙のノートが出てきた。
「それは、何かね」
いつの間にか、先生が後ろに立っていた。
「院生のころのメモです。個人的な」
ぱらぱらとめくった先生の指が、途中で止まる。
五年前、私が趣味で書いていた頁だ。第一層で録ったスライムの声を、音の高さで分けてみた表。
「研究室の時間で書いたものは、研究室の資料です。置いていきなさい」
「でも、それは」
「置いていきなさい」
先生はノートを閉じて、自分の机の引き出しにしまった。
鍵の回る音がした。
◇
その日の夜、私は多摩迷宮の第一層にいた。
ダンジョンの入口は、どこも似たような管理棟になっている。
入場券を買い、手すりの付いた階段を下りると、石の壁がぼんやり光る広い通路に出る。
第一層は一般開放区域だ。見学路があって、売店があって、修学旅行の生徒が魔物を見て写真を撮っていく。
ここにいる魔物は、ほとんどがスライムだ。
手のひら二つ分くらいの、薄い水色のかたまり。人を見ても逃げるだけで、子どもでも棒でつつける。
私は見学路の端にしゃがみ、録音機を手すりに固定した。
学生のころから使っている、ステッカーだらけの録音機。もう一つは、コウモリ探知機。超音波を、人の耳に聞こえる高さまで下げてくれる機械だ。
スマホを三脚に立てて、配信の画面を開く。
題名は、少し迷ってから「鳴き声の文法」にした。
研究費は、明日からゼロになる。
それでも録った音と時刻を、どこかに残しておきたかった。配信なら、録音した日時が誰の目にも見える記録になる。
去年の冬、島の言葉を最後まで話せたおばあさんが亡くなった。
私が録った六十時間の録音は残っている。けれど、あの言葉で返事をしてくれる人は、もうどこにもいない。
話す相手のいない言葉は、録音の中で黙っているだけだ。
だから、まだ鳴いている声を、放っておけなかった。
誰も言葉だと思っていない声なら、なおさら。
「……こんばんは。鳴瀬と申します。言語学をやっています。今日から、スライムの声を録ります」
同時接続、0。
分かっていたことなので、気にしない。
スライムの声は、耳ではほとんど聞こえない。
ぷちゅ、と水が弾けるような小さな音がするだけだ。
けれどヘッドホンで探知機の音を聞くと、その裏に、細い笛のような高い音が重なっている。
ちゅい。ちゅ、ちゅい。
私はノートPCに声紋を映す。
横に時間、縦に音の高さ。音が、短い線になって並んでいく。
「音は、三つずつのまとまりで出ています。三つで一語、かもしれません」
画面の端に、数字が出た。同時接続、1。
"音声学の配信って初めて見た"
"三音節で一語? 声紋ちゃんと見せてくれるのありがたい"
名前は「名無しの音声学徒」。
一人でも、見ている人がいる。それだけで、説明する声が少しだけ大きくなる。
「言葉を調べるときは、まず数えます。同じ場面で同じ音が出るか。一つだけ音が違う組、最小対が取れるか。そうやって、音と意味を一つずつ結んでいきます」
"最小対、取れたら熱いですね"
「はい。取れたら、そこが最初の一語です」
見学路を通りかかった小学生が、私の画面をのぞきこむ。
「お姉ちゃん、スライムとしゃべってるの?」
「しゃべれるように、なりたいんです」
「へんなのー」
お母さんに手を引かれて、男の子は売店のほうへ走っていく。
へんなの、と言われるのには慣れている。島でも最初は、東京から来た変な人だった。
一時間で、私は四十七回、三音のまとまりを録った。
高さの並びは、四種類しか出てこない。
上がって、上がって、上がる。
下がって、上がって、下がる。
そして、ほとんど出ない並びが二つ。
島で、子どもを呼ぶお年寄りの声を録ったときのことを思い出す。
同じ単語でも、呼びかけるときと、叱るときでは、高さの形が変わる。
ぷ、ちゅい、ぷ。
そのとき、見学路のすぐ下で、スライムが一匹、聞いたことのない並びで鳴いた。
上がって、下がって、上がる。
ヘッドホンの中で、同じ並びが、壁の向こうから返ってくる。
一匹。三匹。十匹。
通路のあちこちで、スライムが同じ三音を、同じ高さで繰り返し始めた。
「……今の」
ぞくっとした。
四十七回録って、一度も出なかった並びだ。
島のお年寄りが、崖の近くで遊ぶ孫を止めるときの声と、形がまったく同じだった。
一音ずつ高さを跳ね上げる、短くて強い言い方。
言語学の言葉で言えば、命令形だ。
「全部のスライムが、同じことを言っています。たぶん、命令です。意味は、まだ分かりません。でも、近いのは」
声紋の上で、線が三本ずつ、どんどん重なっていく。
見学路の下を、水色のかたまりがいっせいに這っていく。
全部、同じ方向へ。入口の階段のほうへ。
「……逃げろ、だと思います」
"え、なにこれ、スライム大移動?"
"こんなの見たことない"
見学路にいた家族連れが、笑いながら写真を撮っている。
売店のおばちゃんが、閉館の案内に使う拡声器を片手に、カウンターから身を乗り出した。
「あらまあ。十年ここで店やってるけど、こんなの初めてだよ」
おばちゃんの声に、見学路のあちこちから笑い声が返る。
誰も、怖がっていない。スライムは人を見れば逃げる生き物で、数が多いだけに見えるからだ。
スライムは人の足元をよけて、ただ、上へ、上へと流れていく。
逃げろ、と言っている。
では、何から?
最後の一匹が、私の靴のそばで止まった。
薄い水色の体が、小刻みに震えている。
ぷちゅ、と鳴いた声が、探知機の中で、さっきより一段高く跳ねた。
ちゅい、ちゅい、ちゅい。
その次の瞬間、足元の石の床が、低く、長く、鳴った。




