第35話 地上へ持ち帰る
帰り道の黙った百歩は、竜が、もう一度だけ開けてくれた。
六十四日目の朝。
ズズが、黙った道の手前で、私の名前の形を鳴らした。泡は、やっぱり、途中で消えた。
しばらくして、下から、低い三音が上ってきた。
眠そうな声だった。それでも、百歩は、ちゃんと鳴った。
渡りきってから、私は、道の下へ向かって、頭を下げた。
獅堂さんも、少し遅れて、同じことをした。
帰りの坂道は、来たときよりも、短く感じた。
誰も、ほとんど話さなかった。竜の息のうなりだけが、背中を押すように、下から吹き上げてきた。
◇
市場に戻ったのは、夕方だった。
ガラは、横道の穴の前で、一昨日と同じ岩に座っていた。
二晩、そこで待っていたのだと、使いの若いゴブリンが、こっそり教えてくれた。
「……持って、帰ったか」
「はい。一つだけ、話します」
私は、ガラの前に座った。
ズズが、私の膝の上で、泡を準備した。
「あの方は、最後に、道を掘りました。あなたたちを、上へ逃がすために」
「……知ってる」
「掘り終えてから、自分の体で、道の底を塞ぎました。十年、そのまま、そこにいます。……上から落ちてくる声を、ずっと、聞いていました」
ズズが、それを、泡にした。
ガラの指が、首の紐の束に触れて、止まった。
「……オレ様たちの、声もか」
「市場の声で、目が覚めた、と言っていました」
ガラは、長いあいだ、黙っていた。
それから、四本の指で、膝を一つ叩いた。
「……勘定は、合った」
ガラの膝の上の紐を、私は、そっと数えた。
十八本目。結び目は、五つ。
五十九日目に結びはじめて、まだ、閉じていない。
もだは、第十三層で、足踏みをしている。
市場の声が、こんなに、ふくらんでいるのに。それとも、だからなのか。私には、まだ、分からなかった。
◇
第三層の大広間を通ったのは、夜の九時すぎだった。
壁際の旧坑道の前で、獅堂さんが、足を止めた。
錆びた鉄柵の扉が、斜めに傾いたまま、開いている。九日目に、獅堂さんが蹴って、蝶番を折った扉だ。
「……これ、直していい?」
獅堂さんは、霧島さんの方を見ずに言った。
「オレが壊したやつだし。……閉めるためじゃねえよ。ちゃんと開け閉めできるように、するだけ」
「協会の備品だ。申請を出せ」
「……出すよ」
次の日の昼、ハヤテさんから、写真が届いた。
第三層の大広間。
新しい蝶番を手に、鉄柵の前でしゃがみこむ、獅堂さんの背中。
「あいつ、マジで申請出してたっす」
短い文の後ろに、怒った顔の絵文字と、笑った顔の絵文字が、一つずつ並んでいた。
◇
六十五日目、支部の会議室には、本部の理事と、国の人が来ていた。
国の人は、内閣官房の担当者だと名乗った。
録画の冒頭、竜の目が開く場面を見て、ずっと、眼鏡の位置を直していた。
「公表の時期は、こちらと調整させていただけますか。混乱を、避けたいので」
私は、霧島さんを見た。
霧島さんは、何も言わなかった。私が言うのを、待っていた。
「預けるのは、記録です。……全部、出します」
「しかし、もだが地上に至れば、魔物が出てくるという話まで――」
「だから、出します。もだが第一層に来てから知るより、今、知った方が、逃げる道を作れます」
支部長が、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
それから、眼鏡をかけなおした。
「……出しなさい。記録は、調査班のものです」
国の人は、しばらく、手元の紙を見ていた。
それから、小さく息を吐いて、ペンを置いた。
「では、せめて、同じ時刻に、こちらも発表させてください。……知らなかった、とは、言えなくなりますから」
霧島さんが、ほんの少しだけ、口の端を動かした。
笑ったのだと気づいたのは、会議室を出てからだった。
◇
六十六日目の夜。
府中の部屋の、ちゃぶ台の上に、ノートPCを開いた。
画面の隅で、同接の数字が、見たことのない速さで増えていく。
百万を超えたところで、私は、数字を見るのをやめた。
「こんばんは。鳴き声の文法です。……今日は、底の話をします」
白銀の若い人が撮った映像を流す。
鱗がずれて、首がほどけて、琥珀色の目が開く。
"は?"
"CGだろ"
"いや、協会の公式が同じ映像出してる"
"でけえ……"
それから、竜の声を流した。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
画面の横に、二日目の夜に録った、私とズズの声紋を並べる。形は、同じだった。
"名前じゃん"
"ほんとに呼んでたのか"
次に、「みち」を流した。
竜のひと息と、ズズの三つの泡。高さの並びは、同じ。
「どの魔物の言葉にも、同じ並びの語がありました。似ていたのでは、ありませんでした。……ここから、分かれたんです」
"名無しの音声学徒: 声紋、重ねました。一致しています"
"元自衛官です。ダンジョン出現の日の記録、今でも覚えています。あれが、竜の爪だったと"
ダンジョンは、竜が、底から掘った逃げ道。
もだに追われた者たちが、十年かけて、上ってきた道。
話しているうちに、コメントの流れが、少しずつ遅くなった。
みんなが、読むのをやめて、聞いているのだと思った。
ちゃぶ台の端で、ズズが、洗面器の縁に張りついていた。
配信の間、ずっと、一度も泡を鳴らさなかった。
最後に、竜の問いを、そのまま訳した。
「我らは、逃げた。……汝らは、いずこへ、逃ぐる」
"たま屋のおばちゃんの孫です。おばちゃんが、売店は逃げないよって言ってます"
"おばちゃん……"
"逃げないなら、どうするんだよ"
「まだ、分かりません。……でも、辞書は、今日で二百三十語になりました。竜の言葉も、九つ、入っています」
配信を閉じたのは、夜中の一時だった。
二時すぎに、スマホが鳴った。
配信の始まりと同じ時刻に、短い発表だけを出していた国が、今度は、多摩迷宮の対策本部を置くと発表した。
その下に、アマツ資源の短い声明が並んでいた。
『竜という物語に、科学的な根拠はありません。弊社の事業は、法令に基づき継続します』
三時前に、もう一通。
小野寺さんからだった。
『届け出の写し、全部そろいました。一日、まとめる時間をください。そのあと、調査課で、霧島さんと重ねます』
少しして、もう一行。
『……たぶん、重なります』




