第34話 底の話
ズズは、しばらく、泡を一つも鳴らさなかった。
ハヤテさんの腕の中で、容器の水だけが、小さく揺れている。
やがて、ズズは、蓋の裏にぺたりと張りついて、竜の方を向いた。
「……ばば、ここに、きたのか」
私は、それを、竜に向けて言い直した。
ズズの泡の高さのまま、私の喉で。
竜の答えは、ゆっくりだった。
「――来た。上る群れの、最後に。我が傍らに座し、歌を、始めから終わりまで、歌った」
「――歌い終えて、終わりの言葉を、我に預けず、持って上った。歌を持つ者は、歌を手放さぬ」
ズズの体が、きゅっと縮んだ。
「……ばばは、どこ」
「――上へ。声のある方へ。それより先を、我は知らぬ」
ズズは、もう一度、縮んだ。
それから、ほんの少しだけ、ふくらんだ。
「……おれ、とちゅうで、ねてた。だから、おわり、しらない」
「――知らぬなら、聞けばよい。語り部の子よ。歌は、どこかで、まだ鳴っている」
ズズは、返事をしなかった。
ただ、蓋の裏に張りついたまま、竜の目を、ずっと見上げていた。
ハヤテさんが、容器を抱えなおした。
落とさないように、というより、ズズの震えを、腕で受け止めるように。
◇
霧島さんが、私の肩越しに、短く言った。
「底のことを、聞いてくれ」
私は、うなずいた。
ノートの新しいページに、「底」と書く。
「底は、どんなところでしたか」
竜の目が、半分だけ閉じた。
思い出す、というより、聞き直している顔に見えた。
「――底は、広き洞であった。上の、どの層よりも広く。天井は、見えぬほど高く」
「――声が、満ちていた。泡の者も、糸の者も、喉の者も、鱗の者も。皆、一つの言葉にて、話し、歌った」
スライムと、蜘蛛と、ゴブリンが、同じ言葉で歌う。
市場で、四つも五つもの言葉が、通訳を挟んで、ようやく値段を決めている。あの光景の、ずっと前の姿。
島の言葉も、昔は、何千人もが話していた。
島を出る人が増えて、話す人が減って、最後は、おばあさん一人になった。
一つの言葉が、ばらばらになる。話す相手が、いなくなる。
私が記録してきたのは、ずっと、その終わりの方だった。
「――もだは、昔より、底の、さらに下の端にあった。黙ったまま、動かずに」
「――いつの頃よりか、上りはじめた。洞の端から、一つずつ、声が消えた。……底は、飲まれた」
二十二日目、長老は言った。
底に昔からあり、上ってくる。
その「底」に、昔は、みんながいた。
「――我は、最後に、道を掘った。群れを、上へ逃がすために。掘り終えて、我が身にて、この道の底を塞いだ」
私たちの寝袋の向こうで、とぐろを巻いた首。
その下にも、まだ、胴が続いているのだろう。道の底を、蓋のように塞いで。
「――もだは、ほかの道を上った。この道だけは、我が息のある間、黙らぬ」
黙った層の中で、この道だけが、鳴りながら通っていた。
その理由を、竜は、それだけしか言わなかった。
◇
私は、聞いた。
「底のみんなは、もだのそばで、どうやって、暮らしていたのですか」
竜は、すぐには答えなかった。
代わりに、低く、長く、鳴いた。
話す声とは、違った。一つずつの息が、前よりも長く、高さの並びが、何度も繰り返す。
歌だ、と思った。
知らない言葉の歌を、初めて録ったときのことを思い出した。
意味の分からない語ばかりなのに、どこで息を継ぐかだけは、体で分かった。
この歌も、同じだった。
意味は分からないのに、息の切れ目だけが、はっきりと聞こえる。
私は、録音機を、竜の喉へ向けた。
接触マイクを、鱗の継ぎ目に貼りなおした。
途中で、録音機の電池の残りが、赤く点滅した。
手を伸ばすより先に、横から、新しい電池が二本、差し出された。
獅堂さんだった。
何も言わずに、古い電池を受け取って、背負い袋のポケットにしまう。
十二の息。
分かった語は、二つだけだった。
声。それから、もだ。
「……ばばの、うたの、はじめのほう。……でも、わかんない。ふるすぎる」
ズズが、小さく言った。
竜の声が、終わった。
「――古き歌の、初めの一節である。……解け。汝は、言の葉の子なれば」
琥珀色の目が、重そうに、まばたきをした。
話すたびに、まぶたの落ちる間隔が、長くなっていく。
◇
残りの時間は、少なかった。
霧島さんが、指を一本立てた。一つだけ、聞け。
私は、石の音のことを聞いた。
ガラの紐の、赤い結び目。
赤が多い紐ほど、短い。石の音がすると、早く来る。
「――地を砕く音は、声にあらず」
竜は、目を閉じたまま、答えた。
「――声を、散らす。散りし所を、もだは、喰らう」
ノートに、そのまま書いた。
書きながら、ペン先が、止まりかけた。
隣で、霧島さんも、手帳に何か書いていた。
真鍋さんが、それを、横目で見ていた。
この春から、深く掘りはじめた場所がある。
でも、それは、まだ、並べていない。並べるまでは、言わない。
「――上が、騒がしくなった。久しく聞かぬほど、多くの声が、この道を落ちてきた。ゆえに、我は、目覚めた」
四十八日目。市場が、開いた日。
「――言の葉の子よ。上の者は、もだに喰われぬ。汝らの体は、いきのもとにて、できておらぬゆえ」
五十五日目、ハヤテさんは、線を越えても、無事だった。
「――されど、もだが一番上に至らば、逃ぐる者は、汝らの地の上へ、出づるほかない」
第一層の、さらに上。
管理棟の前の広場。駐輪場。府中の、私のアパートのある町。
そこへ、何万もの魔物が、逃げてくる。
人の前に立つな、という約束を、地上の誰も、知らないまま。
琥珀色の目が、最後に、もう一度だけ、開いた。
「――我らは、逃げた。……汝らは、いずこへ、逃ぐる」
まぶたが、ゆっくりと、閉じた。
鱗が一枚ずつ重なり、首は、また、扉に戻っていく。
ヘッドホンの中で、とん、と、遠い太鼓が鳴った。
昼前だった。
道の下の方から、低いうなりが、また吹き上げてくる。竜の息だ。
ハヤテさんは、盾の持ち手を握ったまま、動かなかった。
獅堂さんは、背負い袋の肩ひもを、両手で、きつく握っていた。
霧島さんが、手帳を閉じる音が、やけに大きく聞こえた。
竜の問いに、答えられた者は、一人もいなかった。




