第33話 言の葉の子
六十三日目の朝は、音で始まった。
ずるり、と、重いものが岩をこする音。
寝袋から顔を出すと、ライトの輪の中で、扉が動いていた。
屋根瓦のような板が、一枚ずつ、ずれていく。
重なりがほどけて、その奥に、もう一列、同じ板が見えた。
板は、壁ではなかった。
鱗だった。
道を塞いでいたのは、とぐろを巻いた、首だった。
「は? え、ちょ、待っ……」
獅堂さんの声が、途中で消えた。
首が、ゆっくりと、こちらへ回ってくる。
頭だけで、管理棟の入口ほどもあった。
まぶたが、開いた。
琥珀色の目が、一つ。
縦に細い瞳が、ライトの光を受けて、すうっと、さらに細くなった。
真鍋さんの手が、空の腰へ動いて、止まった。
剣は、第十層の小屋に置いてきた。
胸の魔素計の針が、右いっぱいに倒れていた。
昨日、黙った百歩でゼロに落ちた針が、今は、目盛りの端に張りついて動かない。
霧島さんは、動かなかった。
ハヤテさんが、盾を持って、私の半歩前に出た。
◇
低い音が、三つ。
一つ目は、低く。二つ目は、もっと低く。三つ目で、少しだけ上がる。
五十七日目に、市場の空洞を震わせた声。それが、今は、目の前の喉から出ている。
ズズが、ハヤテさんの腕の中の容器で、ぷちゅ、と鳴った。
「……ことはを、よんでる」
私は、ハヤテさんの盾の横から、一歩、前へ出た。
喉の奥で、同じ高さを作る。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
二日目の夜、洗面器の前で、初めてズズに名乗ったときの声。
あのときより、ずっと、震えていた。
琥珀色の目が、一度だけ、ゆっくりと閉じて、開いた。
それから、竜は、話しはじめた。
◇
竜の言葉は、長かった。
一つの音が、ひと息ぶん続く。
その一息の中で、高さが、なめらかに上がり、下がり、また上がる。
三つ目の言葉で、私は、息を止めた。
上がって、下がって、上がる。
スライムが三つの泡に分けて言う高さを、竜は、一つの息で、滑らせていた。
「……みち、って、いった」
ズズの声が、震えていた。
「ばばの、うたの、ことばだ。……ふるい、ほうの」
次の言葉は、下。その次は、来る。
スライムの泡、蜘蛛の糸、ゴブリンの喉。どの魔物の言葉にも、同じ高さの並びで残っていた、芯の語。
あれは、似ていたのではない。
ここから、分かれたのだ。
ひと息の言葉を、スライムは三つの泡に割った。蜘蛛は三度の弾きに、ゴブリンは喉の三つの鳴りに。
割り方が違うだけで、高さの並びは、同じものを、ずっと運んできた。
六日目、調査課で、私は言った。同じ祖先の言葉から分かれた、と考えます。
その祖先の声を、私は、今、聞いている。
訳語を、決めなければならなかった。
ズズの言葉は、子どものため口にした。長老は、古風に。ガラは、乱暴に。
この言葉は、それより、ずっと古い。今の言葉で訳したら、軽くなりすぎる。
だから、古い日本語にすると、決めた。
◇
ズズが、知っている語を泡にする。
私が、芯の語と、前後の高さで、その間を埋める。
一つの文に、何分もかかった。
竜は、急かさなかった。同じ言葉を、何度でも、同じ高さで繰り返した。
「――汝の名は、上より、降りてきた」
私は、竜の声を、口に出して訳した。
みんなに、聞こえるように。
「上の声は、皆、この道を落ちてくる。糸を伝い、石を伝い。……小さき泡の子が、幾度も、汝を呼んだ。その形を、我は覚えた」
長老の糸の地図を、思い出した。
三十段目の下にも、糸は、続いていた。
ズズは、市場でも、第八層でも、第三層の大移動の日にも、私を呼んだ。
ことは、ことは、と。一日に、何十回も。
その泡の一つ一つが、糸を震わせ、岩を伝い、この道を落ちて、ここまで届いていた。
ズズが、容器の中で、ぴたりと止まった。
「……べつに、ことはのためじゃないぞ。よんだだけだぞ」
「――十年、上より降りてくるは、逃げる者の声と、人の足音のみであった。我らが言葉にて名乗りし上の者は、汝が、初めてである」
島のおばあさんの言葉を、思い出した。
話す相手のいない言葉は、黙っている。
この竜は、十年、ここで、黙っていた。
上から落ちてくる声を、一人で、聞きながら。
白銀の若い人が、カメラを構えていた。
レンズの先が、小さく震えている。霧島さんが、その肩に、手を置いた。
「記録しろ。……全部だ」
竜は、私に、名前の意味を尋ねた。
私は、少し考えてから、答えた。
「言の葉、です。……言葉の、葉っぱ、という意味です」
ズズが泡にするのに、時間がかかった。
葉っぱという語は、スライムの言葉に無かったからだ。最後は、苔、で代わりにした。
琥珀色の目が、細くなった。
「――然らば、汝を、言の葉の子と呼ぼう」
◇
私は、ノートを開いたまま、聞いた。
「この道は、あなたが、掘ったのですか」
「――我が、掘った。底より、一番上まで。千の眠りを、千たび重ねて」
壁の、三本ずつの溝。
下から上へ、めくれた地層。
四十一日目に、私は、仮説として書いた。
道は、下から上へ掘られた。
仮説ではなかった。
「――十年前、我が爪は、一番上の岩を抜けた。光が、あった。……それより先は、掘らなかった」
霧島さんが、低く言った。
「……ダンジョンが現れたのは、十年前だ」
十年前、世界中に、ダンジョンが現れた。
誰も、理由を知らなかった。
少なくとも、この多摩迷宮は、現れたのではなかった。
下から、届いたのだ。
底から地上まで、竜が掘った、逃げ道。
その一番上の出口に、私たちは、管理棟を建て、売店を開き、入場券を売っていた。
ハヤテさんが、盾を、少しだけ下ろした。
獅堂さんは、口を開けたまま、何も言わなかった。
竜の目が、私から離れた。
ハヤテさんの腕の中の、小さな容器へ。
低い、長い声が、ズズに向かって鳴った。
ズズが、泡を返せなくなった。代わりに、私が、訳した。
「――語り部の子よ。汝が祖母の歌を、我は、聞いた」




