第32話 第二十三層の扉
六十二日目。朝の五時に、管理棟を出た。
第十層の中継所で、刃物を全部、小屋に置いた。
霧島さんの刀。白銀の四人の剣と槍。獅堂さんの腰の短剣。
上級の探索者が、刃を置いて下りる。
真鍋さんは、何も言わずに、自分の剣を一番上に重ねた。
◇
第十一層の市場は、五日前よりも、ずっと狭く見えた。
第十三層から上がってきたゴブリンの群れが、岩棚という岩棚に座っている。
知らない声が多い。数え歌も、二つ、三つと重なって聞こえる。
第十三層の群れは、人を見ると、まだ少し身を引いた。
見知った市場のゴブリンが、その前に立って、喉を鳴らす。通せ、と言っている。もう、ズズに訳してもらわなくても、それくらいは分かった。
保存容器の蓋を少し開けると、岩の陰から、下のスライムが三匹、ぷちゅぷちゅと寄ってきた。
ズズは、得意そうに、泡を一つだけ返した。
ガラは、市場の脇の横道の前で待っていた。
「来たか。耳のでけえ女」
ガラは、白銀の四人を、順番に見た。
空の腰を見て、喉を、短く鳴らした。
「……刃を、置いてきたか。かてえのが、増えたな」
横道を進むと、壁が荒くなった。
四十一日目に見た、下から上へ掘られた跡だ。
さらに奥へ進むと、崩れた岩の山の脇に、穴があった。
岩をどけたばかりの跡だ。人がかがんで通れるくらいの穴が、黒く開いている。
「昨日、若いのに掘らせた。……ここから先は、あの方の道だ」
「ガラさんは、入ったことが、ありますか」
「上るとき、一度だけ通った。十年前だ。……それきりだ」
ガラは、穴の前から、一歩下がった。
「オレ様は、市場を空けられねえ。……てめえが聞いた話を、一つ、持って帰れ。それで、勘定は合う」
◇
白銀の二人が、穴の前に残った。
下りるのは、真鍋さんと、若い一人。それに、私たち。
道は、下へ、ぐるりと回りながら続いていた。
階段は無い。床は、同じ傾きで、ずっと下がっていく。
壁に、爪の跡があった。
三本ずつ並んだ溝が、どれも、私の背より長い。それが、どこまでも、下から上へ続いている。
獅堂さんが、ライトで溝をなぞって、黙った。
ずっと何か言っていた人が、一時間、何も言わなかった。
「……なあ、お姉さん。これ、全部、一匹で掘ったの?」
「溝の幅が、ずっと同じです。……たぶん、一匹です」
「ウケる。……いや、ウケねえわ」
「当たり前っす」
ハヤテさんが、前を向いたまま言った。
獅堂さんは、言い返さなかった。
しばらくして、真鍋さんが、霧島さんの横に並んだ。
「霧島さん。……あの日も、こういう道でしたか」
「いや」
霧島さんは、前を照らしたまま、少しだけ間を置いた。
「もっと、うるさかった。……まわりが、ずっと鳴いていた」
それきり、二人とも黙った。
道の中は、静かではなかった。
低いうなりが、ずっと鳴っている。
耳ではなく、胸の骨で聞くような音。下から上へ、ゆっくり吹き上がってくる。
「……息、みたいっすね」
ハヤテさんが、小さな声で言った。
ハヤテさんが小さな声を出すのを、私は、初めて聞いた。
壁に、接触マイクを当ててみる。
うなりの向こう、壁の外側からは、何も聞こえなかった。
霧島さんが、深度計を見た。
「第十五層の深さだ。……この壁の向こうは、もう、もだの中だ」
黙った層の中を、この道だけが、鳴りながら通っている。
◇
第十八層の深さで、うなりが、途切れた。
ライトの光は、先まで届いている。
なのに、その先の道は、絵に描いたように、音が無い。
魔素計の針が、ゆっくり、左へ倒れていく。
真鍋さんが、手を上げて、全員を止めた。
私は、録音機を、腕いっぱいに伸ばした。
霧島さんが、こちらを見る。私は、うなずいた。
「記録が消えるなら、消えるところを、記録します」
録音機の先を、静けさの中へ入れる。
画面の波形が、平らになった。
一本の、まっすぐな線。
島のいちばん静かな座敷でも、こうはならなかった。
風の音か、自分の息か、何かが、必ず小さな波を描いた。
生まれて初めて、私は、無音を録った。
「……百歩くらいだ」
真鍋さんが、ライトの先を見て言った。
黙った道の向こうに、また、うなりが戻っている。
百歩。
人なら、歩いて渡れる。でも、ズズは。
五十五日目、ズズは、線に触れかけただけで、十秒、声を失った。
条件の三つ目を、霧島さんは、自分で書いた。
ズズが、容器の中で、ふるえた。
それから、黙った道の奥へ向かって、泡を鳴らした。
低く、もっと低く、少しだけ上がる。
私の、名前の形。
「ここに、いるぞ。ことはは、ここに、いるぞ」
泡の音は、黙った道の手前で、ふっと消えた。
そのとき、下から、声が来た。
◇
五十七日目に聞いた、あの声だった。
うなりではない。
道ぜんたいが、内側から震える、低い三音。
黙っていた百歩が、鳴った。
録音機の平らな線が、いきなり、大きく波打つ。
魔素計の針が、跳ね上がる。
「走れ」
霧島さんの声が、ちゃんと、聞こえた。
ハヤテさんが、ズズの容器を胸に抱えて、先頭を走った。
獅堂さんが、背負い袋を揺らしながら、私の腕を引いた。
百歩を数える余裕は、無かった。
声が尽きるのと、最後の真鍋さんが渡りきるのが、ほとんど同じだった。
振り返ると、道は、また、絵のように黙っていた。
私は、震える手で、ノートに書いた。
竜が鳴いている間、静けさが、退いた。
書いても、意味は、分からなかった。
◇
夜の八時すぎ、第二十三層の深さで、道が終わった。
竜は、第三十層より下にいるのだと思っていた。
でも、道は、それよりずっと上で、行き止まっていた。
壁があった。
黒に近い緑の、大きな板が、屋根瓦のように重なっている。一枚が、扉ほどもある。
岩ではなかった。
手を当てると、ほのかに、あたたかい。
接触マイクを、板の継ぎ目に貼る。
ヘッドホンの中で、ずっと遠くの太鼓のような音が、ひとつ鳴った。
十秒ほどして、また、ひとつ。
霧島さんが、ここで夜を明かすと決めた。
獅堂さんが、背負い袋から寝袋を六つ出して、黙って並べた。
私は、ヘッドホンを外せなかった。
とん、と鳴って、十秒、黙る。
また、とん、と鳴る。
扉は、息をしていた。




