第30話 竜が呼んでいる
五十七日目。私は、またガラの岩の前に座っていた。
二日前、第十四層からの帰り道、ガラは一言も話さなかった。
市場の入口で別れるときも、振り返らなかった。
その夜、第十四層の記録を配信で流した。
苔の消える線と、返ってこないこだま。それから、盾を放り出して飛びこむハヤテさんの背中。
"盾役が盾捨てた"
"いや、あれは盾の仕事だろ"
"ズズ無事でよかった……"
切り抜きは、一晩で百万回を超えた。
ハヤテさんは、翌朝、照れたような顔で、「盾は拾ったっす」とだけ言った。
今日は、のど飴を三つ持ってきた。
岩の上に、並べて置く。
「四つ目の話を、買いに来ました」
ガラは、飴を見て、それから私を見た。
喉が、短く鳴った。ズズが訳す前に、私には、半分くらい分かった。
「……三つは、多い」
「ズズが、聞いたものの話です。第十四層の、線の向こうの、もっと下で。……大きいものが、鳴いていた、と」
ガラは、飴を一つだけ取った。
残りの二つを、指で、私の方へ押し戻した。
「一つで、いい。……その話は、オレ様の持ち物じゃねえ」
◇
ガラは、しばらく、膝の上の紐の束を撫でていた。
十七本目。結び目は、二つ。
まだ、閉じていない。
「この道は、下から掘られた。てめえが、壁で見たとおりだ」
「はい」
「掘ったのは、オレ様たちじゃねえ。スライムでも、糸のじじいでもねえ。……もっと、でけえのだ」
ガラは、両腕を広げた。
それから、その腕では足りないというように、首を振った。
「長え。鱗がある。爪で、岩を掘る。……底の、いちばん下に、ずっといた」
その「でけえの」を指すとき、ガラは、ほかの語とは違う音を使った。
喉の奥で、長く引きずる、低い一音。数え歌の、短く切れる一音とは違う。市場の取引でも、一度も聞かなかった音だ。
音の数でいえば、一つ。いちばん古い言葉は、短い。もだが、そうだったように。この音も、きっと、古い。
ズズが、ガラの声を、一語ずつ泡にする。
私は、それを、頭の中で日本語に組み直していく。
大きく、長く、鱗があり、爪で岩を掘り、底に棲むもの。
日本語に、それを一語で呼ぶ言葉は、一つしかない。
訳語を決めるのは、私だ。
ズズの言葉を、子どものため口にすると決めたときと同じように。
でも、その言葉を口に出す前に、床が、鳴った。
◇
石の音では、なかった。
ずうん、と突き上げる音ではない。
もっと低く、もっと長い。足の裏からではなく、市場の空洞ぜんたいが、内側から震えている。
声だった。
市場が、止まった。
ゴブリンも、大ネズミも、スライムも、岩棚の蜘蛛も。何百もの魔物が、一斉に、下を向いた。
石の音のときとは、違う。
怯えて黙ったのではなかった。耳を、澄ませている。
数え歌の、年寄りのゴブリンが、両手を胸の前で組んでいた。
岩棚の小さな蜘蛛たちが、脚で糸を弾いている。長老の巣で聞いた、あの弾き方だ。声を、上へ、運んでいる。
私は、録音機の音量を、いちばん下まで絞った。
それでも、針は、右に振り切れた。
低い音が、三つ。
一つ目は、低く。二つ目は、もっと低く。三つ目で、少しだけ上がる。
ヘッドホンの中で、それが、言葉の形をしていた。
その高さの並びを、私は、知っていた。
知っているのに、どこで聞いたのか、すぐには思い出せない。
自分の声は、自分の耳では、いちばん聞き分けにくい。
録音で初めて聞いた自分の声に、誰だろう、と思ったことがあるように。
「……っ」
ズズが、私の膝の上で、固まっていた。
体の表面が、細かく波打っている。
「ことは。……あれ、ことはの、なまえだ」
「……え」
「ことはが、はじめて、おれに、いったときの。……こ、と、は、って。おなじ、かたち」
五十五日前。アパートの、洗面器の前。
私は、自分の胸に手を当てて、こ、と、は、と区切って言った。ズズが、それを三つの泡にして、私の名前ができた。
その、私の声の、高さの形。
それが、今、底の方から、何百倍も低く、大きく、響いている。
「……どうして」
声が、震えた。
「どうして、私の名前を、知っているんですか」
◇
声は、もう一度だけ響いて、それきり止んだ。
市場に、少しずつ、音が戻ってくる。
でも、誰も、さっきまでのように騒がなかった。ゴブリンたちは、小さな声で、何かを言い交わしている。同じ語が、何度も聞こえた。
ハヤテさんが、盾を握ったまま、私の横にしゃがみこんだ。
「先生……今の、何すか。名前って……」
霧島さんは、立ったまま、床を見ていた。
十年、深層を歩いた人の顔が、見たことのない色をしていた。
「……十年で、一度も、聞いたことがない」
それから、霧島さんは、私の録音機を見た。
「録れているか」
「……はい。振り切れていますが、形は、残っています」
「本部に上げる。今夜のうちにだ」
ガラが、岩の上で、ゆっくりと立ち上がった。
ほかのゴブリンたちと同じ方を、下を、見ていた。
「十年、一度も、鳴かなかった。……オレ様たちを、上へ逃がしてから、ずっと、黙ってた」
ガラの喉が、長く、低く鳴った。
ズズが、その声を、泡にした。
「――あれは、道を作った方の声だ」
「その方には、名前が、ありますか」
私が聞くと、ガラは、少し考えてから、首を振った。
「無え。……名前ってのは、呼ぶやつがいるから、要るんだ。あの方を呼ぶやつは、底に、もう誰もいねえ」
話す相手のいない言葉は、黙っている。
呼ぶ者のいない名前も、きっと、同じだ。
ズズが、膝の上で、小さく泡を鳴らした。
「……ばばの、うたの、はじまりに、いる。いちばん、したに。……おれ、そこは、なんども、きいた」
ハヤテさんが、盾の持ち手の、新しい革を握りなおした。
「先生。……もし、行くなら。俺、盾っすから。荷物持ちじゃなくて」
「……少し、考えさせてください」
それから、さっき口に出せなかった言葉を、ノートに書いた。
竜。
ペン先が震えて、一画目が、少し歪んだ。
底から、地上まで、道を掘ったもの。
十年前、もだに追われた者たちを、上へ逃がしたもの。
その竜が、底の方から、私の名前を、呼んでいる。
↓第3章の番外編「撮れ高」(獅堂視点。ブレイズのリーダーが調査課へ来るまで)
https://note.com/wise_turtle184/n/n50bc36a1edd4?app_launch=false




