第29話 静けさを見る
五十五日目。特例が下りるまでに、二日かかった。
第十四層は、立ち入り禁止の一つ上だ。
本部は、条件を一つ足した。もだに、近づきすぎないこと。何をもって近すぎるとするかは、現場の判断に任せる、と。
霧島さんは、その紙を読んで、短く言った。
「……現場の判断は、私がする」
刀は、今日も、第十層の中継所に置いてきた。
第十一層から第十三層までは、ガラの縄張りだ。第十四層だけ刀を持つために、途中で取りに戻ることはしない、と霧島さんは言った。
代わりに、ハヤテさんが、盾の持ち手に、新しい革を巻いてきていた。
◇
市場から、ガラと使いが先に立った。
第十二層を抜けるとき、東の方から、機械の音がした。
低く、途切れずに唸っている。床に手をつくと、指先が、かすかに震えた。
ガラは、そちらを一度も見なかった。
ただ、首の紐の束を、片手で押さえていた。
「……あれが、アマツの掘削場っすか」
「そうだ。縦坑は、まだ掘り始めていない。あれは、春から下へ掘っている穴の音だ」
霧島さんは、それだけ答えて、歩く速さを変えなかった。
第十三層。
通り道を、上へ向かう魔物とすれ違った。ゴブリンの家族。大ネズミの群れ。私たちを見ても、誰も足を止めない。前に立たない。ただ、上へ。
第十四層に下りると、空気が変わった。
「……静か、っすね」
ハヤテさんが、声をひそめた。
静かすぎた。
市場の、あの声の重なりを聞いたあとだと、耳がおかしくなったのかと思う。
霧島さんが、胸の魔素計を指で叩いた。
針は、いつもより、少し左に寄っていた。
◇
通路は、まっすぐ下へ続いていた。
壁の光る苔が、少しずつ、暗くなっていく。
一歩進むたびに、ほんのわずかずつ。
魔素計の針が、左へ、左へ、と下がっていく。
百歩ほど進んだところで、霧島さんが、腕を横に出した。
「ここまでだ」
その先に、線があった。
目に見える線ではない。
でも、分かった。光る苔が、そこから先で、ふつりと消えている。壁も、床も、天井も、ただの黒い岩になっている。
闇とは、違った。
ハヤテさんのライトの光は、ちゃんと向こうの壁に届いている。照らされた岩は、見える。
見えるのに、何も、無い。
私は、この感じを、知っていた。
去年の冬、島のおばあさんが亡くなった日。
録音機を回したまま、私は、あの家の座敷に座っていた。誰も、あの言葉で話さなくなった部屋。音はある。風も、時計も鳴っている。でも、言葉の聞こえる場所は、もう、どこにも無かった。
話す相手のいない言葉は、黙っている。
おばあさんは、そう言っていた。線の向こうは、あの座敷に、似ていた。
私は、録音機を胸の前に掲げた。
霧島さんが、その手首を、そっと押さえた。
「機械を、あの向こうに入れるな。戻ってこなかったら、記録ごと消える」
「……はい」
私は、録音機を、線の手前で止めた。
ヘッドホンの中で、通路の小さな音が、線に近いほど細くなっていくのが分かる。
◇
「おーい!」
ハヤテさんが、線に向かって、大声を出した。
霧島さんが止める前だった。
声は、通路を転がっていった。
そして、線のところで、消えた。
こだまが、返ってこない。
向こうの壁に当たって跳ね返るはずの声が、どこにも、無い。
ハヤテさんの顔から、色が引いた。
「……今の、吸われたっすか」
「吸われたのではない」
霧島さんの声は、いつもより、さらに低かった。
「向こうには、声を返すものが、何も無い」
ガラが、隣で、喉を鳴らさずに立っていた。
首の紐を握りしめている。父親が、最後に聞きに行った音。黙りかけの層の、すぐ手前。
ここが、そうなのだ。
ガラが、一歩だけ、前に出た。
線に向かって、喉を、一度だけ鳴らした。短く、低い音。
私の知らない語だった。
ズズも、訳さなかった。私も、聞かなかった。
その音も、線のところで、消えた。
◇
そのとき、手元で、容器の蓋が跳ねた。
ズズが、容器から飛び出していた。
ぷちゅ、ぷちゅ、と鳴きながら、線の方へ、まっすぐ這っていく。
「ズズ!」
「……きこえる! したから、なにか、きこえる!」
速い。
スライムが、あんなに速く動くのを、初めて見た。
ハヤテさんが、盾を放り出して、飛びこんだ。
床を滑って、腕を伸ばす。
伸ばした腕と、肩と、頭が、線を越えた。ズズの体を、手のひらで掬いあげる。
ハヤテさんの体が、一瞬、止まった。
それから、転がるように、こちらへ戻ってきた。
胸に、ズズを抱えたまま。
「……っ、はあ、はあ……っ」
「ハヤテさん!」
「だい、じょぶ、っす……腕、ある、っす……」
ハヤテさんは、自分の右腕を、何度も握った。
「向こう、何も、聞こえなかったっす。……自分の、心臓の音も」
その腕の中で、ズズが、震えていた。
泡を鳴らそうとしている。体の表面が、ぷく、ぷく、と動く。
でも、音が、しない。
「ズズ」
私は、膝をついて、ズズに顔を寄せた。
ヘッドホンを、強く押さえる。探知機の笛も、鳴らない。
一秒。二秒。
十秒。
ぷちゅ。
小さな、かすれた泡の音が、一つだけ、鳴った。
それから、ぷちゅ、ちゅい、と、いつもの高さが戻ってきた。
「……ことは。……こわかった、ぞ」
私は、ズズを、両手で包んだ。
手が、自分でも分かるくらい、震えていた。
◇
霧島さんは、線から十歩手前の壁に、白い塗料で印をつけた。
手帳に、第十四層、階段から九十歩、線の十歩手前、と書く。魔素計の針は、線の手前で、ゼロを指していた。
ガラは、その印を見て、首の紐の束から、十六本目を取った。
端を、きつく結ぶ。それから、新しい紐を一本、引き抜いた。
「十六本目も、四だ」
新しい紐の端を、ガラは、四本の指に巻きつけた。
十七本目の最初の結び目は、次の眠りのあとに結ばれる。
帰り道、誰も、しばらく口をきかなかった。
第十三層の階段の手前で、ズズが、私の手の中で、小さく言った。
「……ことは。さっき、きこえたの、ばばじゃ、なかった」
「何が、聞こえたんですか」
「せんの、むこうの、もっと、した。ずっと、ずっと、した。……おおきいのが、ないてた」
前を歩いていたガラの足が、止まった。
振り返らずに、ガラは、首の紐の束を、強く握った。




